私は2018年の3月に勤め先の専修大学を定年退職し、同年9月に71歳の誕生日を迎えたが、その日を前に自分の書いたものだけを出版する自分出版社を立ち上げることにした。自分出版社なので誰に遠慮する必要もない。そんなわけで、勝手に出版社の店主を名乗っているわけである。定年退職を機にこれまでの研究活動にピリオドを打ち、こうしたことをやってみたいという「妄想」は、しばらく前から頭に浮かんではいたが、それを具体化するとなると、原稿を書くだけにとどまらないいくつかの面倒な作業が必要となる。まず考えなければならないのは、自分出版社の名称である。無い知恵を絞ってしばらく考えた末に、いささか古風ではあるが「敬徳書院」とすることにした。
私の母の実家は、新潟県の出雲崎にある西越村の地主であり、その佐野家は、戦後農地改革で没落する前までは、地元でよく知られた家だったらしい。今で言えば、旧家とか素封家などにあたるのであろうか。しかしながら、現在の私はそうした過去の「栄華」のようなものにはまったくと言っていいほど関心がない。関心はもう少し別なところにある。
叔父の佐野康太が2003年に書いた手記には、「佐野家を『敬徳書院』と呼ぶのは、祖父の喜平太が尼瀬町で廻船問屋をしていた時代から、西越村中條で57歳で亡くなるまでの約50年間に買い集めた書物が27,500冊あまりあり、祖父はそれを家財蔵に保管して、明治の元勲副島種臣の書による『敬徳書院』という大きな扁額を正門に掲げていたからである」とのくだりがある。私が注目したのはそこである。
集められた書物は、戦後になって当時佐野家の当主であった叔父の佐野泰蔵が、柏崎高校から新潟高校の教諭に転任してまもなく病に倒れたために、蔵書の管理が困難となったこともあって、まとめて新潟大学に寄贈された。『新潟日報』の記事では寄贈と書かれているが、新潟大学の「佐野文庫改題」には購入と記されているから、単純な寄贈ではなかったのであろう。あの安保闘争の年1960年のことである。
それらは、現在も新潟大学附属図書館に貴重な資料として保管されていることは知っていたが(その概要はネットでも詳しく知ることができる)、これまで実物を見たことはなかった。私は2018年9月に、「佐野文庫」と命名されたそれらの資料を、図書館まで出向いて眺めてきた。専修大学社会科学研究所の調査旅行に参加させてもらって、秋田、山形、新潟と廻ってきた際に、最終地の新潟で途中下車させてもらって、図書館に顔を出したというわけである。
寄贈あるいは購入された資料は、稀覯本として特別に管理された部屋に収蔵されたうえ、一冊一冊の冊子がそれぞれの形状に合わせて作られた布張りのケースに入れられて、きちんと整理されていた。新潟大学の図書館の宝として、私の想像以上に大切に扱われていることがよくわかった。資料の価値などにはまるで門外漢の私ではあるが、職員の方々の丁寧な対応もあってひとりでに心が温もった。佐野喜平太も、そしてまた佐野泰蔵も、以て瞑すべしと言わねばならないだろう。
しかしながら、正門に掲げられていた「敬徳書院」の扁額は、骨董商に引き取られていった数多くの家財道具のなかに紛れてしまったようで、長い間行方不明となっていた。ネットを通じて私がこの扁額の所在を知ったのはつい最近のことである。長岡市に住む猪本爾六(いのもと・じろく)さんが所蔵していた扁額を、彼の自宅まで訪ねて目にしたのは、2018年の7月であった。これがどのようにして猪本さんのところに辿り着き、そしてまた、どのようにして私がそのことを知ることになったのか、その経緯などについてはそのうち機会を見て文章にしてみたいと思っている。
この「敬徳書院」のホームページの冒頭に掲げられているのが、その扁額である。猪本さんから譲り受けることができたので、現在は私の自宅の書斎に、文字通り「鎮座」している。横幅160、高さ76、厚さ6センチメートルの檜材で作られていることもあって、60キロを超える重さがあり、店主のような年寄りはとても一人では持ち上げられない。越後の歴史の風雪に耐えて来たが故の重さとでも言えようか。骨董に詳しい猪本さんに尋ねたところ、文字が白くなっているのは、書に沿って木を薄く掘り、そこに貝殻を粉にして膠(にかわ)で塗ってあるからだという。
叔父の佐野康太も触れていたように、書は副島種臣の筆になる。彼は佐賀藩の出身で、維新の際の勲功によって明治政府の参与、参議、外務卿となるが、征韓論争に破れて西郷らとともに下野。その後は枢密院顧問官や内務大臣を勤めたことで知られる。他方で彼は書家でもあり、号を蒼海と称し、自由で闊達な書をものした人物でもある。書になど何の見識も持ち合わせていない店主が、わかったようなことを語るのもどうかとは思うが、扁額にある「敬徳書院 副島種臣」の文字も、なかなか雄渾で伸び伸びした筆の運びではないか。漢詩人でもあった彼は、講談社の『日本近代文学大事典』には副島蒼海として登場しており、その詩風は「雄峻宏大」であると記されている。
店主である私の勝手な推測であるが、尼瀬石油の頭取や地主、さらには町長、県会議員、衆議院議員と政治家の道を歩んだ佐野喜平太は、そうした生き方に飽き足らないところもあって、政治家でもあり文人でもあった副島種臣のような存在に憧れを抱いていたのではあるまいか。その憧れが、おびただしい書物の蒐集に繋がっていったのかもしれないし、「敬徳書院」の扁額を作製させて正門に掛けさせたのかもしれない(ついでに妾も囲っているのだが…)。豪農文化や地主文化という言葉があることからもわかるように、当時の資産家には、広い意味での芸術や文化に造詣の深い人物が多かったようである。彼らは、蒐集家やパトロンになったりしたのである。佐野喜平太もその端くれだったのではあるまいか。
こうした僅かばかり謂(いわ)れのある扁額を、店主の隠れ家で一人ぼんやりと眺めていると、時の流れが止まったかのような錯覚に陥るほどである。そんなこんなで、立ち上げた自分出版社の名称を「敬徳書院」とすることにした。本屋の名前を知人に告げると、「敬徳」とは古めかしいとよく言われる。徳を敬うような人間でもないので、敬徳などおこがましい限りだが、その謂れについては、ホームページを見てくれと答えることにしている。こちらも時代遅れの人間なので、古めかしくてもまあいいかと思ったりもする。いささか古風な名前に相応しく、できうるならば懐かしい響きがするような冊子を刊行してみたいものである。
(追 記)
このホームページを立ち上げるにあたっては、ウェブロジックの伊東宏之さんにお力添えをいただいた。ハイテクならぬまったくのローテク人間の私には、こうしたものを作成する力などまったくない。誰か援助してくれる人はいないものかと探していたら、長い付き合いのあるエスコムの犀川浩子さんから伊東さんを紹介された。お会いして話を伺っていたら、物静かだが信頼できる若者のように思われたので、ホームページの作成を依頼することにしたのである。
お仕事ぶりも迅速かつ丁寧で、とても気に入ったホームページが出来上がった。何とも嬉しい限りである。何人かの知り合いからその出来映えを褒められたことも、付け加えておきたい。「敬徳書院」の扁額を手に入れるにあたっても、思わぬところでの人と人との出会いがあったが、ホームページの作成に関しても、似たようなことがあったのである。そんなわけで、彼へのお礼の言葉をここに記させていただく次第である。
(追 悼)
このホームページを立ち上げる際にも、そしてまたその後の困りごとに対処してもらうにあたっても、大変お世話になった伊東宏之さんが、2023年の11月3日に急逝された。享年45歳という若さであった。犀川さんから彼が亡くなったとの知らせを受けて、文字通り言葉を失った。痛恨の極みである。犀川さんは、「頼りがいのある若い友人でした」と書いてきたが、私にとっても同じである。彼のように落ち着いて、物静かで、丁寧な仕事ぶりの若者を私は知らない。彼は仕事柄真鶴に詳しいようで、我が家に顔を出したときに美味しいレストランを教えてくれた。いつか彼の案内でそこに行ってみたかった。合掌。