早春の台湾感傷紀行(六)-台湾の原住民族のこと(上)-
今回の調査旅行のもう一つの柱となっていたのは、台湾の東部に集中している原住民族の遺跡を訪ねることであった。どこを見学してきたのかと言えば、4日目の花蓮での「阿美族民族中心」であり、5日目の台東での「卑南遺跡公園」と「国立台湾史前文化博物館」であり、そして6日目の屏東での「台湾原住民族文化センター」である。訪問先がどんなところだったのかを紹介する前に、まずは台湾の原住民族に関する歴史と現状について、ごく簡単に触れておきたい。その方が話は分かりやすいと思われるからである。
漢人が中国大陸から渡来する前の台湾において、主役であったのが原住民族である。16世紀の中葉以降、漢人の海商集団が台湾を拠点に交易を始め、17世紀以降に漢民族の移住が盛んになるるまで、彼らは昔からの台湾に居住していた。ところで、原住民族という表現であるが、これを先住民族と記述している著作や記事もある。どちらの表記を使うべきなのであろうか。彼らの呼称は時代とともに変遷してきたのであるが、台湾の民主化が進んだ1994年に、彼ら自身が主張する「台湾のもともとの主人」という意味の「原住民」が憲法の追加修正条文に明記された。97年には「原住民族」とされて現在に至っているとのこと。ここではその表記に従っておく。
こうして、彼らは自らが主張する呼称を獲得するのであるが、そこに至るまでには長い道のりがあった。清の時代は「蕃人」(ばんじん)と呼ばれた。蕃人のなかでも、漢民族の支配を受け入れて税や労役を課せられた原住民は「熟蕃」(じゅくばん)、そうではない原住民は「生蕃」(せいばん)と呼ばれた。日本の統治下においても当初は「蕃人」と呼ばれていた。「蕃」は「蛮」と同意語であり、「未開の」あるいは「野蛮な」といった意味である。「蕃人」とはよくも言ったものである。「土人」も同じような呼称だろう。その後「高砂族」と呼ばれることになったが、これは、のちに天皇となる親王裕仁が台湾を訪問したのを記念して、台湾総督府が1923年に「蕃人」を「高砂族」の呼称に改めたためである。とはいえ、当時の新聞記事や本土はもちろん台湾にいた日本人の口から「蕃人」という言葉が消え去ることはなかったようだ。
第二次世界大戦後に台湾を統治した中華民国は、高砂族を「高山族」に変え、のちに「山地同胞(山胞)」としたらしい。このように、台湾にもともと住んでいた人々は、有史以来、時々の外来政権によってさまざまな呼称で呼ばれ、社会の周辺に追いやられ、それらを甘んじて受け入れざるを得ない立場に置かれてきた。現在では、台湾政府が認定している原住民族は16部族の55万人であり、全人口のわずか2%を占めるに過ぎない。2016年に蔡英文が総統に就任したが、初めて迎えた「原住民族の日」(8月1日)に、彼女は原住民族の過去400年に及ぶ苦難の歴史に対して謝罪した。その背景にあったのは、1980年代から続いてきた原住民族を巡る権利回復の運動である。
戒厳令が撤廃されて台湾社会全体が民主化に向かうなかで、1984年には、学生や長老教会関係者らが中心となって「台湾原住民権利促進会」が発足し、88年には17条の「台湾原住民族権利宣言」が発表されている。こうして、「台湾原住民族」の名のもとに、土地の返還や自治の実現などを要求していくのである。この動きに長老教会が登場するのだが、この長老教会とはプロテスタントの長老派教会で、台湾で最大の教派なのだという。原住民族に信者が多いこともあって彼らの立場を擁護しており、政治的には民進党の主要な支持団体となっているとのこと。われわれは、宜蘭で「台湾基督長老教会芝苑(姫望)祈念教会」に立ち寄ったが、それは上記のような関わりがあったからであろう。出掛ける前にHさんの話をきちんと聞いておけば、教会でもう少し敬虔な態度を取ったはずだが、知ったのは帰国してからなので後の祭りである(笑)。
ところでその台湾の原住民族であるが、彼らはいったいどこから来たのであろうか。 オーストロネシア語族 (Austronesian language family)に含まれるということだから、その祖先は海から渡って来たのではないかと考えられている。 オーストロネシア語族とは、台湾から東南アジア島嶼部、太平洋の島々、マダガスカル島にまで広がる語族のことである。台湾の場合、とりわけ太洋州、東南アジアのオーストロネシア系諸族との繋がりは密接である。こうした分布図の中で、台湾の言語がもっとも多様で、差異も大きいことから、台湾がオーストロネシア語族の起源であり、対外への拡散の起点だったのではないかと想定する研究もあるらしい。こうした広がりのなかに台湾は位置付けられているのである。台湾と言えば中国との関係しか思い浮かばなかった私のような人間にとっては、思いもよらない展開である。
原住民族は、現在は平地に住む原住民族と山地に住む原住民族に区分され、前者は平埔(へいほ)族、後者は高山(こうざん)族と呼ばれているが、この区分は居住地域の違いから便宜的に用いられているものであって、正確な民族区分とは言えないとのこと。平埔族にはケタガラン、クバラン、タオカス、パポラ、パゼッヘ、バブザ、ホアンヤ、サオ、シラヤの9族が含まれ、高山族にもタイヤル、サイシャット、ブヌン、ツォウ、パイワン、ルカイ、アミ、プユマ、タオ (ヤミ) の9族が含まれている。 しかし、その後例えばタイヤル族からタロコ族とセデック族が分離するなどしたので、原住民族の分布はさらに複雑になっている。
高山族は男性が狩猟を女性が粗放農耕を行い、固定した耕地を持たなかったようだ。タイヤル族、サイシャット族、タロコ族、セデック族など北部の原住民族のグループでよく見られた習俗として、入れ墨がある。入れ墨をすることを入墨と言うが、男性の入墨は勇気のある狩猟の名手だという印であり、女性の場合は織物が上手であるとの印であった。これを持つことが結婚するための条件とされていたという。後で触れる映画『セデック・バレ』にもそうした話が登場している。
PHOTO ALBUM「裸木」(2024/05/10)
台湾の面影(1)
台湾の面影(2)
台湾の面影(3)