処暑の岡山・倉敷紀行(一)-日本遺産のまち・倉敷へ-

 あれだけ厳しかった残暑の名残りなど跡形もなく消え去り、師走に入って冬が大分が深まってきた。9月の初旬に社会科学研究所の調査旅行で倉敷に出掛けてきたが、処暑の頃のあの暑さが嘘のようである。調査に出掛けてからまだ3ヶ月程しか経っていないというのが、何とも不思議である。最近は日本は四季の国から二季(夏と冬)の国に変わったと言われているようだが、さもありなんと思われる。出掛けたのは9月初めだから、タイトルを残暑ではなく「処暑の岡山・倉敷紀行」としたのだが、その頃には秋の気配などまだどこにもなかった。

 この間書き継いできた「盛夏の北海道アイヌ紀行」も終了したので、先日久しぶりにプールに出掛けてきた。急に涼しくなったので、何だか寒々しい感じがしてしばらく足が遠のいていたのだが、出掛けてみれば存外に心地いい。この間パソコンの前で縮こまってしまった身体を思う存分伸ばしていたら、頭の中も雑念が薄らいで爽快になった(ような気がした)。先般行われた総選挙の結果に関して、識者の方々がしたり顔や訳知り顔、物知り顔であれこれ論評しておられるが、そんなものを見聞きしているよりも余程心身にいい(笑)。

 今回の調査旅行は、「瀬戸内の長期にわたる産業変遷」がテーマだということで、参加者が事前に受け取った案内書には、その主旨が次のように記されていた。「今回の夏季実態調査は、 さまざまな産業文化遺産のある倉敷市からスタートいたします。 現在は、国内有数の観光地となっている倉敷地区ですが、かつては繊維産業の中心地であり、北関東地域とは異なる繊維産業の歴史にふれることになります。 近年は、国内のジーンズ生産の中心地である児島地区では、「児島ジーンズストリート」をゆっくりと歩いていただき、中小の事業者によるさまざまな取り組みを観察していただければと思います。また同ストリートに所在する旧野崎家住宅では、 瀬戸内の古い産業であった製塩事業を支えた事業者の活動を振りかえっていただきます。高度成長期にその産業や姿を大きく変えた水島地区では、半世紀以上に亘る光と影を企業訪問や当該地区を廻ることにより、これまで果たしてきた役割や現在的な位置についても注目していただけるよう、訪問先などにも配慮しております」。こうした案内文からも分かるように、この私には、今回はさまざまな顔を持つ倉敷の全貌を明らかにする旅のようにも思われた。

 倉敷と聞いて人はどんなところを思い浮かべるのであろうか。私などは、大原美術館や倉敷アイビースクエアなどがあり、通りに白壁の建物やオシャレな土産物屋が建ち並ぶ、「国内有数の観光地」となった倉敷美観地区しか思い浮かべられなかった。他の人も似たりよったりなのではなかろうか。水島コンビナートの名前ぐらいはさすがに知っていたが、それが倉敷とただちに結びつくことはなかったからである。しかしながら、市の作成した観光用のパンフレットなどを広げてみると、そうした認識がいかに浅はかなのか思い知らされる。そこには、大要次のようなことが記されていた。

 倉敷市は、瀬戸内海に面する人口約48万人の都市であり、江戸時代には商人の町、明治時代には繊維産業の町、近年は工業都市、そして文化観光都市として発展してきた。 瀬戸内の穏やかな気候と高梁(たかはし)川がもたらした豊かな大地に恵まれ、農業や漁業も盛んである。白壁の建物や柳並木が美しい倉敷美観地区のある「倉敷エリア」をはじめ、 日本有数の工業地帯である「水島エリア」、瀬戸内海国立公園の美しい風景が広がる「児島エリア」、 港町として栄えたノスタルジックな町並みを残す 「玉島エリア」、マスカットやスイートピーの一大生産地である「船穂(ふなお)エリア」、静かで美しい竹林の町「真備(まび)エリア」 など、倉敷市は地域によって異なる雰囲気を持っている。

 ここに登場する「船穂エリア」と「真備エリア」は、2005年の町村合併で倉敷市に編入された町であり、言ってみれば倉敷市の新しいエリアであるから、まあ知らなくても致し方ないような気もする。しかしながら、水島も児島も玉島も知らないようではやはりまずかろう。私はそうしたエリアに関してさえまったくと言っていいほど何も知らなかったので、今回の調査旅行を楽しみにしていた(楽しみにしているのは、じつは毎度のことではあるのだがー笑)。

 参加者は午後に倉敷駅で待ち合わせることになっていたので、研究所で手配してもらった切符を手に、新横浜駅から新幹線に乗って岡山駅で降り、そこで山陽本線に乗り換えて倉敷に着いた。羽田と違って新横浜は自宅から直ぐなので助かるし、新幹線の旅も実に快適である。途中岡山駅で同じく研究参与となっているIさんと顔を合わせた。彼とは1年半ぶりの再会である。社会科学研究所の調査でしか顔を合わせないような間柄なのだが、それだからなのかひどく懐かしく感じられて、お互いに久闊を叙した。スポーツマンの彼は相変わらず元気いっぱいの様子であった。

 ところでこの倉敷であるが、あちこちで手にしたパンフレットによると、現在「日本遺産のまち」として売り出しているようなのである。日本遺産と聞いても何のことか直ぐに分かる人は少なかろう。日本遺産とは、地域の歴史的魅力や特色を通じて、わが国の文化や伝統を語る「ストーリー」を国が認定するものである。ストーリーを語るうえで欠かせない有形・無形のさまざまな文化財群を、当該地域が総合的に整備・活用し、国内外へ発信していくことにより、地域の活性化を図ることを目的としているようなのだ。

 臍曲がりな私などは、こうした地域の活性化を目的としたものまで遺産と呼ぶべきかどうか疑問に思わないでもないが、どうも至る所で日本遺産の認定を巡る狂想曲が奏でられてきたようだ。日本遺産の認定が始まったのは2015年からだというが、これまでに既に100件近くが認定済みなのだという。遺産ばやりの時流に乗った試みのように見えなくもない。遺産インフレとでも言えばいいのか。そしてこの私は、どういうわけか時流に乗るのが嫌いな頑固者、偏屈者なのである(笑)。

 倉敷市では、国内最多となる三つのストーリーが認定の対象となったようである。その三つとは何か。一つ目は、「一輪の綿花から始まる倉敷物語」と題した和と洋が織りなす繊維のまちのストーリーである。400年前まで、現在の倉敷市の平野部一帯は「吉備の穴海(きびのあなうみ、児島湾の古称である)」と呼ばれる一面の海であった。 江戸時代から始まった干拓によって海は陸地となり、そこで塩分に強い綿やイ草などの作物が栽培されていったのである(現在は広大な水田地帯に変わっている)。それらを原料として倉敷の繊維産業は花開き、現在では年間出荷額日本一の「繊維のまち」になっているとのこと。

 二つ目は、「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間」と題した北前船の寄港地や船主の集落のストーリーである。北前船の寄港地であった玉島の下津井(しもつい)には、北海道や東北地方からさまざまな商品が持ち込まれた。なかでも綿などの栽培に肥料として欠かせない干鰯(ほしか、イワシを乾燥させて製造した肥料のこと)やニシンの搾め粕(しめかす)などは北前船によってもたらされ、帰り荷として、綿や菜種や塩などの商品が喜ばれたことから取引が盛んに行われるようになり、町が大きく発展したとのこと。 

 そして三つ目は、「『桃太郎伝説』の生まれたまちおかやま」と題した古代の吉備に纏わる遺産が誘う鬼退治のストーリーである。倉敷市の北部に位置する 真備地区は、岡山全域や広島と兵庫の一部にまたがる吉備国の一角にあったために、多くの遺跡が残る地域である。古代の吉備は、温暖な気候と瀬戸内海の流通、そして豊かな平野に恵まれ、大和や筑紫や出雲に匹敵する強大な勢力を誇り、四大王権の一つであった。鬼退治の伝説にも登場する楯築(たてつき)遺跡や鯉喰(こいくい)神社、箭田(やた)大塚古墳など多くの遺跡が残されているとのこと。

 今回の調査旅行と接点があるのは、第一のストーリーと第二のストーリーである。近現代史に興味や関心を持つ私のような人間は、桃太郎にまではとても気が回らない(笑)。それにしても、一つ目のストーリーに付されたキャプションがなかなか秀逸である。誰が考えたものなのか。二つ目のキャプションは、北前船の寄港地であれば何処も同じなので、別に目新しいわけではない。これまでの社会科学研究所の調査旅行で、既に何度も目にしてきたからである。

 初日は、駅前に集合した後倉敷美観地区に出掛け、産業遺産のある森田酒造を見学した。ここの圧搾機は、2020年に産業遺産学会よって、産業遺産学会推薦の産業遺産に認定されているとのこと。 酒造用として使われる油圧式の昇降圧搾機が、初期の形態を持ち しかも現役稼働する希少な圧搾機であることが評価されたのだという。森田酒造の見学の後、美観地区を自由に散策した。夕方だというのに陽は高くまだまだ暑い。晴れの国岡山のしかも瀬戸内の凪の夕暮れとあっては、暑くて当然であったろう。

 写真を撮ろうと一人あちこち彷徨いた。疲れたので倉敷川の畔の柳の下でかき氷を食べて一休みした。なかなかに風情を感じる美観地区ではある。途中道に迷ったが無事に帰還できた。「放蕩息子の帰還」ならぬ放蕩老人の帰還である。ホテルの周りをただうろうろと徘徊していただけだったからである(笑)。夜には結団式があり、参加者の自己紹介を興味深く聞いた。長い話だと直ぐに飽きてしまう私だが、大勢の人のちょっとした話を聞くのはなかなかに面白いものである。私はと言えば、大学卒業後に労働科学研究所に勤めたが、この研究所は倉敷紡績の経営者としてよく知られた大原孫三郎が創設しただといったことなどを話した。