処暑の岡山・倉敷紀行(完)-倉敷から小野へ-
今回の「処暑の岡山・倉敷紀行」も、いつものように大分長い連載となってしまった。前回のブログで調査旅行に拘わった話はすべて書き終えたのだから、そこで終わりにしてもよかったのだが、倉紡記念館の見学を終えてから小野に向かうことにしていたので、その話も番外編としてここで紹介しておきたくなった。倉敷でたっぷりと郷愁に耽ったこともあって、そんな気分を引きずったまま倉敷を離れた。今回、調査旅行の帰途に小野に立ち寄ることにしたのは、そこに大学時代の友人Kが住んでおり、今回のような機会を逃せば彼の家を訪ねることはもうなかろうと思われたからである。もしかしたら、一期一会の気分だったのかもしれない。
彼の実家は昔小野市で洋品店を営んでいたとのことだが、Kは実家を継がなかった。大学卒業後は川崎製鉄(現JFE)に入社し、定年までそこに勤めた。東京勤務のこともあったが、定年後は小野に戻った。そう言えば、昔々に彼が会社の寮に住んでいた頃、一度岡山を訪ねたことがあった。その時はおそらく水島勤務だったのであろう。鷲羽山にドライブに連れて行ってもらった記憶だけは、ぼんやりとだが残っている。しかしそれ以外は、今となってはもう何も覚えていない。彼はごくたまに上京することもあったので、そんな時は大学時代の友人たちとともに顔を会わせた。だが、会う機会はこのところめっきり少なくなってしまった。小野から上京するのはなかなかたいへんなので、気軽に飲み会に顔を出すわけにはいかないからだろう。体調を崩して無理が出来なくなったことも関係していたかもしれない。
小野市は兵庫県の播磨平野のはずれにあり、瀬戸内の沿岸から少し内陸部に入ったところにある。岡山の隣の県なのだから、たいした時間も掛からないだろうなどと高をくくっていたので、経路もろくに調べなかった。倉敷から向かう前にスマホの乗り換え案内を眺めたところ、乗り換えが4回も必要であり、時間も2時間半ほど掛かるとのことだった。しばらく前にKに小野に行くと伝えて、市内のホテルを予約しておいたが、その時彼は何時頃になるのか分かれば途中まで迎えに行くと言ってくれた。乗り換えが面倒なので心配してくれたのであろう。しかしながら、こちらの時間がはっきりしなかったので、惚け防止も兼ねて一人で小野まで出向くことにした。特に何の用事もないのだし、夕方までに着けばいいのだから、気儘な電車の旅も悪くはないと思ったこともある。
倉敷から山陽線で岡山に出て、そこで新幹線に乗り換え姫路まで出た。そして姫路からJR神戸線に乗り換えて加古川に着いた。途中宝殿という駅を通った。この駅名に纏わる懐かしい思い出もあるのだが(笑)、ふざけたことを書いていると話が先に進まないので、ここでは割愛する。加古川で加古川線に乗り換え、次は粟生に向かった。少し心配になったので、駅員に「くりうに行くにはこのホームでいいですか」などと訪ねたところ、粟生は「あお」と読むんですよなどと笑って教えてくれた。確かに粟と栗は似ているが違う字だ。この粟生で神鉄粟生線に乗り換え、ようやく小野に到着である。
電車の途中には田園風景が広がっており、目的地の小野も随分と田舎町のように感じられた。駅前に降り立ったものの、タクシーも見当たらない。仕方が無いからホテルまで歩くつもりで道を尋ねようとしたのだが、周りには人影がない。Kに電話して迎えを頼もうと思ったら、たまたま同年配かとおぼしき男性が現れた。これ幸いと道を尋ねたら、「大した距離じゃないから、よければ私のクルマに乗って下さい」との申し出を受けた。随分と親切な人がいるものである。その親切に感激して、駅で買ったKへの手土産を差し出した。
ホテルで一息入れてKに電話したところ、すぐに顔を出してくれ、これから地元を案内するので、それが済んだら夕方浄土寺に向かおうとの話であった。書くのが遅れたが、小野市の浄土寺には、国宝である阿弥陀如来立像と両脇に侍立像があることでよく知られているようだ。私は何も知らなかったが、見仏が趣味だという友人は浄土寺の三尊立像のことを知っており、来年は是非とも浄土寺に行ってみたいと語っていた。作者は運慶と並び称される快慶である。そしてKは地元の観光ボランティアをやっているだけあって、浄土寺にも阿弥陀如来像にもそしてまた快慶にも大変詳しかった。関連した文章も書いている。それどころか、以前テレビの旅番組にガイドとして顔を出していた。
浄土寺に赴いて、彼の案内で阿弥陀如来像と両脇の侍像を見た。見たと言うよりも見上げたと言うべきだろう。阿弥陀如来像は優に5メートルを超え、侍像も4メートル近くあるので、3体とも実に堂々たる仏像である。私などはその大きさに圧倒された。だが仏像の表情はあくまでも優しく、威圧するような感じはまったく受けない。こうした表情を慈愛に満ちた面差しとでも言うのであろうか。どこまでも優しい。寺で受け取ったパンフレットには、次のようなことが書いてあった。
名仏師快慶作の巨大な三尊立像で、浄土堂中央の円形須弥壇(しゅみだん、仏像を安置する台座のこと)上に立っています。 背面となる西側が格子戸 (蔀戸、しとみど)になっていることから、夕方になると西陽が差し込み、堂内が一段と明るくなります。さらにこの西陽は床に反射して屋根裏にあたり、 それが本尊にふりそそぎ、 本尊を赤く染めます。また、直接入ってきた光が、足元の雲座部分をかすませ、この巨大な赤い三尊が雲に乗って浮かんだようにみえるのです。 これは、阿弥陀様が雲に乗って西方浄土から迎えにくるという「御来迎」(ごらいごう) の姿を、 実際に見せようとしたものです。 まさに光を用いた舞台芸術、光のオブジェともいえ、我が国の文化、また歴史においても類をみないものとなっています。
そんなわけで、Kとしては私を夕方浄土寺に連れて行きたかったのであろう。しかしながらその日はあいにくの曇り空で、「御来迎」 の姿を見ることは叶わなかった。私のような信仰心の足りない人間であれば、見ることが出来なくて当然であったろう。信仰上の師である重源(ちょうげん)と出会って快慶は仏師として大きく飛躍したとのことだが、この二人の深い結び付きから生まれたのが、播磨の「別所」(べっしょ)としての浄土寺であり、快慶による造仏であった。
「別所」とは、焼失した東大寺の復興のための支援を募る拠点として、重源が各地に造立した寺院のことである。快慶は重源から他の別所の造仏も任されていた可能性があるようだが、造立当時の仏堂と三尊立像がともに残っているのは、ここ播磨の「別所」だけだとのこと。ガイドを務めているKは、地元の歴史好きの人々が作る雑誌に「快慶物語」まで書いている。随分と細かいところまでよく調べていることが分かる論考である。余りにも専門的な箇所をまったくの素人の私がしたり顔で紹介しても仕方が無いので、私が興味深いと感じたところ、すなわち運慶と快慶の違いに関するところだけ引いてみる。余りに分かりやすく素直な表現なので、かえって妙に気になった。
おそらくその背後には立場性の違いがあり、「慶派頭領」の位置にある運慶は一門の仕事を確保するために新興の武士階層の「願主」(仏像の発注者)を求めて東国に活動領域を広げざるをえない。一方その一門の一人にすぎない快慶は自由な立場で本来の仏師の仕事に励むことができる、という違いがあったのではないでしょうか。各作家の「人物特定」(「動」の運慶に対する「静」の快慶)が何に起因するのか興味のあるところです。昨年奈良国立博物館で「快慶展」が行われ東京国立博物館で「運慶展」が行われ、通常秘仏扱いになってなかなか見られない作品が一堂に会しました。両者の比較を端的に言ってしまえば私の連れ合いの言葉ですが 「思わず手をあわす仏像は快慶のほうに多いわ」でしょうか?作家松本清張も『小説日本芸譚』という古今の芸術家を記述した短編の中で、重源に「運慶の作品なんて人間臭くてありがたみがない」と言わせています。
ここに登場する『小説日本芸譚』(新潮文庫、1961年)は私も持っており、昔読んでもいたはずなのだが、中身をすっかり忘れていた。この機会に改めて運慶、世阿弥、千利休、雪舟を論じた箇所を読み直してみたのだが、芸術に打ち込む孤高の人にも世俗の人間臭さが潜んでいることを知って、たいへん興味深かった。清張が書くように、運慶の「快慶に対する真剣な軽蔑は、実は快慶の幅のひろい芸術に対する怯(ひ)け目」がもたらしたものだったのかもしれない。
その日の夜はKの家で夕飯をご馳走になり、夜が更けるまで思い出話に花が咲いた。Kも何だか嬉しそうに見えた。翌日も彼のクルマであちこち案内してもらった。小野市は昔加古川の舟運(しゅううん)で栄えたなかなか由緒のある町だった。その後加古川駅まで送ってもらったのだが、そのついでに高砂神社や工楽松右衛門(くらく・まつえもん)の資料館にも立ち寄った。松右衛門は北前船の廻船問屋でもあり、築港技術にも優れた手腕を発揮した人物のようであった。加古川駅で彼と別れ、長旅を終えて新幹線で帰途に就いた。新幹線のなかでも学生時代のことがあれこれと思い出され、当時のことがなかなか頭から離れなかった。帰宅後しばらくして、彼から立派な葡萄が送られてきた。