神宮外苑の銀杏並木を歩く(中)-時代を感じさせるものたち-

 今回のウオーキングでは、銀杏並木を眺めるだけではなく、近くにあった「お鷹の松」や「御観兵榎」(ごかんぺいえのき)なども見てきた。企画者が見所を事前に調べておいてくれたのである。折角なので簡単に触れておこう。まずは「お鷹の松」だが、説明板によれば、「大正7年(1918)明治神宮外苑競技場(現国立霞ヶ丘競技場)造成のために買上げた霞岳町の敷地内に境妙寺という古寺があった。昔、徳川三代将軍家光(1604~1650)が鷹狩の途中この寺に休息していたところ、江戸城から飛び去っていた、『遊女』と名づけた愛鷹が飛んで来て、庭前の松の枝に止まったので家光は大へん喜び、この松をその鷹の名をとって『遊女の松』と名づけた」と伝えられているとのこと。

 その松の木も、あちこちに移し替えられ、木も変わって現在の姿になっているようだから、もうどうでもいいようなものであろう。そんなものが今でも説明板付きで残っているところをみると、こうしたものを残すことによってここが由緒ある場所だと言いたいのであろうか。「遊女の松」ではいささか気が引けたとみえて、「お鷹の松」に改名したようだが、鷹に遊女などと名付けるとは、家光もなかなかの好き者ではある(笑)。こうした松を、今更じっくりと眺めてみても仕方がない。

 そしてもう一つが「御観兵榎」である。ここにも説明板があり、次のように紹介されていた。「この外苑の敷地は、もと陸軍の青山練兵場で、明治天皇の親臨のもとにしばしば観兵式が行われ、なかでも明治23年(1890)2月11日の憲法発布観兵式や、 明治39年(1906)4月30日の日露戦役凱旋観兵式などは、特に盛大でありました。聖徳記念絵画館の壁画「凱旋観兵式」(小林万吾画)にその時の様子が描かれており、当時の儀が偲ばれます。明治天皇がご観兵される時は、いつもこの榎の西前方に御座所が設けられたので、この 榎を「御観兵櫃」と命名し永く保存しておりました」とのこと。その後台風で倒木したため、別の榎に植え替えられたのだという。

 倒木した榎を今更植え替える必要など何処にもなさそうに思うが、神となった明治天皇を偲ぶ縁(よすが)となるものなので、放置するわけにはいかないのであろう。何でもそうであるが、いったんできあがってしまうと、既成事実化して簡単には無くせなくなるのが世の常である。いやはや困ったものである(笑)。よくよく考えてみると、銅像、記念館、記念碑、句碑、歌碑、詩碑なども同じようなものなのではあるまいか(もしかしたら墓石なども)。長い時間を掛けて朽ち果てていくことになるので、それを待つしかない。『方丈記』の冒頭には、「ゆく河の流れは絶ずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし」とある。

 しばらくして神宮球場の側にあった空き地で、昼食休憩をとることになった。私はこの日の朝食が遅かったので、最初から昼食を抜くつもりでいた。いつもであれば、駅の売店などで美味そうな弁当を買うところだが、そんなわけで今回はそうしなかった。休憩後の集合時間までだいぶ長い自由時間となったので、近くをうろちょろしていたら、何やら東屋風の建物が建っているのに気が付いた。近づいてよく見たら、「建国記念文庫」と書いてある。外苑にはあれこれと珍しいものがあるものである(笑)。説明板には次のように記してあった。

 昭和41年12月9日、建国日制定審議会は2月11日を建国記念の日として答申、即日法律によって発布された。この間、数十万通に及ぶ、記念日制定の希望・意見書が進達されたので、ここに建国記念文庫を建設し、これを保管する事にした。建設費は総て国民の浄財である。これは、現下の国民が等しく建国を思う情熱の結果であり千年万年の子々孫々に伝え、以て後日の語り草にしたいのが、記念文庫設立の目的である。建物は、わが国が建国当時、米穀を以て立国としたことを想い、奄美大島の高倉様式を移築しその屋上にテンパガラスを施工し、ここに書類を保管した。書は、出雲大社の神門の布施杉の材に佐藤大寛が墨書した。土台石は、坂上田村麻呂将軍の東征により、平和国家が確立された故事に鑑み、奥州厳作山の石垣白河石を以て施工した。昭和44年2月11日 元建国記念日制定審議会長 菅原通濟記

 しかしそれにしても、こうしたものはどうしていつもいつも時代がかっているのだろうか。戦前を引きずって古色蒼然としており、あまりにも仰々しすぎてうんざりである(笑)。私の手帳にも2月11日は「建国記念の日」と書かれており、国民の祝日となっている。何故2月11日なのかをここであれこれ子細に述べるつもりもないが、端的に言えば戦前の紀元節を復活させたということなのだろう。『古事記』や『日本書紀』で日本の初代の天皇とされる神武天皇の即位日を、1873(明治6」年に紀元節としたのだが、戦後それが明治百年を祝う流れの中でよみがえってきたのである。世の中には明治が好きな人々が、あるいはまた、戦前の昭和に郷愁を感ずる人々が、結構いるということなのだろう。司馬遼太郎の『坂の上の雲』が今でも人気なのは、こうした事情と無関係ではあるまい。

 実在したわけでもない神武天皇の即位日などを建国記念日とし、日本は世界で最古の建国記念日を持った国だなどと自画自賛していたようである。お笑い種もいいところであろう。先の文庫には、「建国を思う情熱」を「千年万年の子々孫々に伝え」たいと記されているのだが、この文庫が建てられて未だ50年ほどしか経っていないにもかかわらず、もはや顧みる人など誰もいない存在になり果ててしまっている。「建国記念の日」に関してこんなことを書いているうちに、若かりし頃のことをあれこれと思い出した。

 1967年2月11日は、最初の「建国記念の日」の式典が行われた日のはずだが、前年の4月に大学に入学した私は、この日に大学構内で開かれた紀元節復活に抗議する集会に参加した。この集会は教養学部の学生自治会が主催したもので、参加者は集会後駒場から渋谷までデモ行進した。私にとっては始めてのデモ行進への参加だったので、その時の印象がいつまでも薄れないのである。たしか教員有志も参加していたのではなかったか。前日に降った雪が積もっていたような記憶も薄らとあるのだが…。

 もうひとつ思いだしたことがある。大学卒業後、私は労働科学研究所に勤務することにした。そこにも労働組合があって、その組合が毎年2月11日の「建国記念の日」に抗議集会を開いていたのである。休日なのにわざわざ集まり、ゲストの話を聞いていたのだから、今から考えるとかなり個性的な組合だったと言えるだろう。私が委員長の時に、たまたま専修大学の土井正興先生をお招きして話を聞いた。その後縁あって専修大学に就職した私は、先生とお会いした際にその話をしたのだが、先生もそんな組合に興味を持たれたようで、よく覚えておられた。この労働組合のことは、先生の著書『生きることと学ぶこと』(三省堂選書、1980年)にも登場している。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2023/02/10

外苑散策(1)

 

外苑散策(2)

 

外苑散策(3)