晩夏の両毛紀行(六)-桐生から岩宿へ(上)-

 桐生の町歩きに関して書き忘れたことがあったので、追加の話から。町をぶらついていたら、「坂口安吾千日往還之碑」が目に留まった。この碑は、桐生新町保存会の名で建てられており、碑には「『堕落論』『白痴』で戦後文学の旗手となった坂口安吾は、1952年2月ウルウ日、旧友南川潤の世話でここ書上邸に居を構えた。『夜長姫と耳男』を生み、人の子の親となり、『新日本風土記』を執筆の最中、取材旅行から戻った直後に急逝、55年2月17日早朝、48歳4ヵ月だった。通夜には小林秀雄、尾崎士郎、石川淳、檀一雄らも駈けつけた。」と刻まれている。

 たまたまだが、安吾が南川潤を頼って桐生に転居し(その後、アドルム中毒となった安吾が南川の妻に暴行を加えたために、二人は絶交している)そこで死んだことは知っていたが、生まれ故郷の新潟ならいざ知らず、桐生に碑まであったとは知らなかった。太宰と並んであまりにも著名なこの人物の破天荒な人生について、私がここでわざわざ触れる必要もないので、彼が3年ほど住み死を迎えた桐生の地をどう見ていたのかということだけ紹介しておく。彼の作品「桐生通信」の冒頭部分である。墓もいらないと言っていた安吾のことだから、この碑のことを知ったらきっと嗤うことだろう。

 私の住居は田舎の小都市ながらメインストリートに位している。この生活は少々の騒音を我慢すれば、かゆいところに手が届いて便利である。たとえば消防車のサイレンが行きすぎると、広告塔が間髪をいれず、「ただいまの火事はどこぞこでございます」と叫んでくれる。この広告塔ははなはだ、し(斯)道に熱心で、深夜でも報告を怠らない。四隣みな商店だから急場の必要品にも手間ヒマがかからず、居ながらにして街の呼吸が伝わってくる。

 けれども私が本当に呼吸しているのは東京の空気である。私はこの小都市に住んで、年に二度ぐらいしか上京しないが、日々の読み物、そして心の赴く物は人の世の中心的なもの、本質的なものからそれることはできない。私の目や呼吸が東京の空から離れることはあり得ないのである。私は毎日この町のメインストリートを散歩する。その目に映じるものは風景にすぎない。心の住む場所はまた別で、それはどこに住んでも変りがないものだ。

 大通りで顔を合わせたわれわれ三人は、お目当ての老舗の鰻屋「泉新」で昼食をとり、満足して外に出たら今度は同行のCさんと出会った。彼もこの店で鰻を食べたとのこと。集合時間にはまだ間があったのでお茶でも飲もうということになり、揃って近くにあった「近江屋喜兵衛」という店でコーヒーを飲んだ。旧い家の座敷をレストランに改装したようで、なかなか趣のある場所だった。とりたててどうと言うこともない四方山話が続いたが、旅先でのそんな時間がいかにも贅沢に感じられた。「伝統と創造、粋なまち桐生」がもたらしてくれた、束の間の贅沢である。

 午後に向かったのは、みどり市の笠懸町にある岩宿博物館である。両毛線の岩宿駅の側にある。私などは、岩宿遺跡についても最初の発見者である相澤忠洋(あいざわ・ただひろ)についても、かなりぼんやりした知識として頭の片隅にあっただけである。あらためて手元にあった受験参考書である山川出版社の『詳説日本史研究』を広げてみたら、次のようなことが書かれていた。相澤に関する記述などはだいぶ異例のようにも見えるが、その理由については後で触れる。

 更新世の日本列島に人が住んでいたことが発見されたのは、第二次世界大戦後のことであった。 関東地方の地表面の黒土(くろつち)の下には、 更新世末期に堆積した赤土 (あかつち、火山灰) の厚い層が重なっており. 関東ローム層と呼ばれる。この関東ローム層に遺跡は存在しないというのが長く定説であったが、1946(昭和21)年、行商をしながら独学で考古学を勉強していた相澤忠洋 (1926~89)が、群馬県岩宿の切通しの赤土のなかから打製石器を発見した。 それがきっかけになって日本列島にも旧石器が存在したことが明らかになったのである。

 岩宿も相澤忠洋もともにゴチックで表示されているから、それだけ日本の歴史上重要な事項だということなのだろう。ここにいう更新世とは地質時代の区分の一つで、約258万年前から約1万年前までの期間をいい、その大部分は氷河時代であったという。岩宿博物館はなかなか現代的なデザインであり、周りには池や公園も整備され、展示も充実していただけではなく、私のような素人にもよく分かるように配列されており、学芸員の方の説明も簡潔で要を得ており、何とも申し分のない場所だった。

 また相澤を語る上で欠かすことのできない愛用の自転車やオートバイも展示されており、彼が自転車にまたがって桐生から東京まで何度も出掛けたのかと思うと、感慨深いものがあった。私などは、相沢の『岩宿の発見-幻の旧石器を求めて-』(講談社文庫、1973)を博物館のショップで初めて知り、調査旅行から戻ってすぐに読んだのだが、もしも博物館に出掛ける前に読んでいたら、あの自転車をさらに印象深くいつまでも眺めていたことだろう。相澤忠洋という一人の人間の話に入る前に、せっかくだからもう少し詳しく岩宿遺跡の概要を紹介しておこう。博物館で入手したパンフレットには、おおよそ次のようなことが書かれていた。

 日本文化の起源はどこまで遡るか、 それは研究者のみならず多くの人達の興味があるところです。 その意味で、 日本史の第一頁を書き替えた 「岩宿の発見」が、 地元の研究者である相澤忠洋氏によってなされたということは、すばらしいことではないでしょうか。昭和21年の秋、 稲荷山、 琴平山丘陵の鞍部を横切る村道を歩いていた一人の青年 が、 丘陵の切り通された赤土の崖で数個の石片を採集しました。 彼は考古学を研究しており、当時日本における最古の文化とされていた縄文文化の起源について、大変な興味を持っていました。

 この時彼は、これらの石器がどのような縄文土器に伴うものなのか考えていましたが、その後、これらの石器がこれまで知られている縄文時代の石器と異なった特徴をもつことや、 発見される地層がどうやら関東ローム層と呼ばれる赤土の中からであるらしいことなどの事実をつかみました。縄文時代の遺物は、 関東ローム層の上に堆積した黒色土の中から出てきます。 さらにこの関東ローム層と呼ばれる赤土は、約一万年前より以前に火山の噴火によって堆積した火山灰であり、その当時は火山の活動が激しくて人類の住めるような環境ではないといわれていました。 したがってローム層の中から人類文化の痕跡を持つ遺物が発見されるわけがないと、この頃の多くの研究者は考えていたのです。

 しかし、彼はこのような既成の概念にはとらわれず、自分で確かめた事実を信じ、採集した石器類は明らかに赤土の中から出土したということを確信したのです。昭和24年7月に相澤氏よりこの事実を聞いた芹澤長介氏は、ことの重大さを直感し、すぐに明治大学の杉原荘介氏に連絡しました。こうして同年9月、 明治大学考古学研究室による岩宿遺跡の学術調査が行われることになりました。 そしてこのことが、 同時に日本における本格的な旧石器文化研究の幕開けとなったのです。

 このようにして、岩宿遺跡は日本文化の起源が旧石器時代に遡ることを初めて立証した遺跡となるのだが、この岩宿博物館からしばらく歩いたところ、すなわち彼が最初に石片を発見した側には、小さくて素朴な岩宿ドームと彼の簡素な胸像、そして岩宿遺跡と掘られた碑がある。私は博物館の説明を一通り聞いた後、小雨の中ドームにまで出向いてみた。誰もいない静かな場所だった。またこの博物館とは別に、桐生市内には相澤忠洋記念館があるとのこと。現在は休館中のようだが、館長は彼の妻である相澤千恵子であり、名誉館長は先の芹澤である。博物館とは別に記念館がある理由などについては、次回に触れてみたい。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2022/12/09)

桐生にて(1)

 

桐生にて(2)

 

岩宿にて(1)

 

岩宿にて(2)