「裸木」第6号を手にして(続)

 前回書き始めた話がまたまた長くなってきたので、2回に分けて載せることにした。ブログに書く文章の分量を短くすると宣言したばかりなのに、相変わらず長々と書いているようでは宣言した意味がない(笑)。そんなわけで、今回は前回の続きである。前回の最後に、冊子のはしがきの前半部分を引用しておいた。冊子を贈呈された方からすれば、ブログでいちいち紹介してもらわなくても、冊子を広げればすぐに分かることなので無くてもいいようなものである。だが、ほとんどのブログの読者は初めて読むことになるはずなので、あえて紹介させていただいた。

 はしがきからもわかるように、今回の第6号も可能な限りこれまでのスタイルを踏襲している。細々とした変化は避けられないであろうが、私としては、これからも同じようなスタイルでやり続けるつもりである。好きなことに耽るのが道楽というものなので、道楽と呼ぶためには変わらないことも大事なことではないか、そんなふうに思っているからである。ころころ変わるようでは、道楽とは呼びにくかろう。もっとも、変えたくないと思うのは、こちらが新奇を嫌う「保守」的な人間である所為もあるかもしれない。

 今年も冊子を200部ばかり印刷した。150部印刷しようが200部印刷しようが、費用はほとんど変わらないらしい。当初は150部でいいかとも思ったが、先のような話を聞いたがために200部作成することにした。そして、そのうちの半数ほどを郵送にて贈呈させていただいた。贈呈に当たって、何の挨拶状もなく送りつけたのでは失礼かとも思い、簡単な挨拶状を添えさせていただいた。いつもやっていることである。

 これまでは、上記のような一連の作業を店主の私が全部自分でやっていた。雑用係も兼ねた店主なのだから当然であろう(笑)。いささか面倒なこうした作業を何とか簡略化できないものかと思い、今回お世話になったYさんに相談してみた。そうしたら、挨拶状のデータと贈呈先のリストさえメールで送ってもらえれば、すべて代行できるとの話であった。その分費用はかさむにしても、私としては大助かりである。

 年寄りの私にとっては願ってもないことだったので、渡りに船とばかりにすべてお願いすることにした。これからは、余分な作業を切り離してできるだけ身軽にしていくことが肝要であろう。今までやっていた、レターパックを買いに行き、冊子と挨拶状を封入し、宛名を書き、ポストに投函するといった作業がほとんどなくなった。今回同封した挨拶状は以下のようなものであった。特段代わり映えのしないものではあるのだが、これもここに紹介させていただく。

 今年の夏は、連日続くあまりの暑さに辟易しましたが、皆様お変わりなくお元気にお過ごしでしょうか。老後の道楽として始めたブログ三昧の生活にもすっかり馴染み、毎週のように雑文を書き散らして日々の無聊を慰めております。世俗の塵埃にまみれた話題からできるだけ身を離し、「焦らず、慌てず、諦めず」を座右の銘として、最期まで生き抜いてみたいものだと勝手に夢想しております。

 毎年作成しているシリーズ「裸木」の第6号が、今年もようやく出来上がりました。ひとに贈呈するようなものでないことは重々承知しておりますが、お近付きの印として、あるいはまた小生が何とか元気でいることをお知らせする粗品として、まことに勝手ながら贈呈させていただきます。

 毎年書き添えていることではありますが、傍迷惑も省みずにお送りするものですので、読んで感想の一つも送らねばなどとは、決して思わないでください。今年も、いつものように一言付け加えさせていただきました。皆様もくれぐれもお身体ご自愛下さいますように。

 いつも思っていることを素直にそのまま記したまでであるが、知り合いの皮肉屋によれば、「礼状はいらない」などと繰り返し強調されると、かえって「礼状をよこせ」と言われているような気になるのだとのこと。欲しがっている人間だからこそ、やせ我慢であえていらないと言っているように見えるということなのか(笑)。気の弱い私は、言われてみれば確かにそうなのかもしれないなどと思った。

 当の私は結構枯れているつもりではあるのだが、傍目にはそうは映っていない節もある。私としては、周りにできるだけ迷惑をかけたくないと思っているからこそそう書くわけだが、もしかしたら特にそんなことを書かないという手もあるのかもしれない。言葉の遣り取りというものは、なかなか難しいものである。

 ごくたまに、「感想をお聞かせいただければ」などと記された挨拶状をもらうこともあるが、私にはどうしても書くことができない。何故できないのだろうか。その心持ちが気にはなる。たんなる謙譲や遠慮のようでもあるが、ちょっと違うような気もする。謙譲や遠慮を装って、自分をいかにも奥ゆかしい人間ででもあるかのように見せようとしているからなのかもしれない(笑)。

 「下手の考え休むに似たり」とも言うので、まあ余計なことは考えずに心の赴くまま気の向くままに振る舞うしかなかろう。大事なことは、「皮肉屋」でもある私が、「皮肉屋」の「皮肉」にいちいち反応しないことなのかもしれない。今こんなふうに書いてきて、皮肉という言葉の由来が急に気になり始めた。不思議な言葉である。

 調べてみたら、皮肉は、中国の禅宗の開祖である達磨大師の「皮肉骨髄(ひにくこつずい)」が語源だということであり、もともと仏教用語なのだという。皮肉骨髄とは、「我が皮を得たり」「我が肉を得たり」「我が骨を得たり」「我が髄を得たり」と、大師が弟子たちの修行の到達度を評価した言葉らしい。知っている人も多いのかもしれないが、私などは今回調べてみて初めて知った。

 骨や髄は要所や心底(しんてい)の例えであり、本質を理解したことを意味しているのに対し、皮や肉は肉体の表面にあることから、未だ本質の理解に達していないことを意味しており、低い評価の言い回しであったのだという。そこから、皮肉だけが批評の言葉として残り、欠点などを非難する言葉として使われるようになったようだ。そうであるならば、私の書くものなど骨や髄であるはずもなく、皮や肉そのものであろう。皮や肉であれば皮肉を言われて当然であり、文句を言えるような筋合いなど何もない(笑)。

 最後に一言。冊子の「あとがき」でも触れたことだが、知り合いからのアドバイスを受けて、今回は(笑)をすべて削除してみた。そうしたら、どことなく品がよくなったような気がしないでもなかったが、冊子を読み返しているうちに、やはり(笑)があった方がしっくりくるように思われた所が何カ所かあった。これがないと誤解を招きそうな気もしたからである。そんなところまで熱心に読む人など誰もいないと、これまた皮肉られそうな話ではあるのだが…(笑)。一番大事なのは、宣伝も兼ねた以下の追記である。

(追 記)

 シリーズ裸木第6号『遠ざかる跫音』をもしもお読みになりたい方がおられるようでしたら、「敬徳書院」のホームページから申し込んでください。もしも知り合いの方であれば、こちらから贈呈させていただきます。

 

 PHOTO ALBUM「裸木」(2022/09/24)

 

利根川残照(深谷にて)

 

迫る夕暮れ(中禅寺湖の湖畔にて)

 

晩夏から初秋へ(日光にて)