「自由民権資料館」にて
6月の年金者組合のウオーキングで、町田にある薬師池公園に出掛けたことは既に投稿済みである。その際、近くにあったぼたん園にまで足を延ばして「自由民権の碑」を見てきたこと、さらには薬師池公園では「自由民権の像」と題された巨大なモニュメントを眺めてきたことを紹介した。今回書いてみようと思っているのは、その後日談である。まあ、年寄りの暇つぶしのようなものではあるのだが…。
先の二つの碑や像の成り立ちを紹介しようとしたら、あれこれと調べてみなければならないことが生まれてきた。ブログに投稿するにあたって、そのあたりを確認しておこうと思ってネットで検索していたら、薬師池公園からさほど離れていないところに、町田市立の「自由民権資料館」があることがわかった。この施設は、今から優に30年以上も前の1986年に開館しているようだから、これまで知らなかったのは、こちらの方が疎過ぎるからであろう。
健康上のことで家に籠もってくさくさしているのも能のない話なので、この際だからと資料館に出掛けてみることにした。薬師池公園に出掛けてから3日後の6月14日のことである。家からクルマで行けばたいした距離ではない。柿生、鶴川と走ればすぐのところにあり、道路沿いなので迷うこともなかった。私はこのあたりのフットワークは案外いいのである。頭も軽いが腰も軽い(笑)。1996年には施設が増築されているので、思いの他立派な施設であった。
まずは、展示されてあった町田の自由民権運動に関連した資料を眺めたが、興味深かったのは、やはり「自由」の衣装をつけた車人形(一人遣いの操り人形のこと)や、「自由」の盃であった。このふたつは別の著作にも紹介されていたような気がするが、実物を見たのは初めてである。こんなものが作られたところを見ると、自由というものが当時の民衆を興奮させたキーワードだったのであろう。それ以外にも、五日市憲法の発見によって一躍歴史の表舞台に登場した千葉卓三郎の写真などもあったし、この憲法が発見された深沢家の土蔵の写真もあった。
この資料館では、展示してある資料の写真を載せて紹介文を付した、なかなか立派な『図説 自由/民権』(2005年)を作成していたので、手に入れておいた。他にも、先のブログでも取り上げた『増補 町田の歴史をたどる』(2014年)や冊子の『石阪昌孝の生涯』(2022年)などもあったので、せっかくだからと購入しておいた。この冊子によれば、石阪は「豪放磊落な民権家」であったようだ。『図説 自由/民権』では、当時の自由民権運動というものが次のように紹介されている。
明治維新から10年あまり、すでに明治天皇は公議輿論(こうぎよろん)政治の実現や、立憲政体の採用を約束していましたが、いっこうに政治参加の権利は認められませんでした。 国の政治に参加できないばかりか、集会の自由や結社権という政治的な権利もありません。 憲法も無ければ、国会も無い、政治について自由に発言する権利も、市民的な自由も認められていない、というのが国民の置かれていた状況だったのです。しかし国民には、租税負担や徴兵の義務は課せられていました。 報国という観念もしばしば強調され、人びとが愛国心をもつことも奨励されました。
自由民権運動とは、一方的に義務が強制され、権利行使が極端に制限された時代に、憲法を立て、国会を開いて国民の政治参加の権利を保証し、国民の能動性を引き出すことによって後進国日本の危機を打開しようとする全国的な政治運動・思想運動として展開します。 また参政権を行使するためには、それにふさわしい政治的識見をはぐくむための集会 ・結社・ 思想、 言論・出版の自由が必要でしたが、そこに国家が強権をもって介入することに反対し、 抵抗したのも自由民権運動でした。
多摩はその拠点となった地域ですが、とくに、地域上層の富裕農商民が運動のリーダーとなっていたという点で、大きな特徴をもっていました。そして町田地域は、当時の神奈川県の臍(へそ)に位置し、県内の運動をまとめることに熱心で、何人かの優れた指導者を生みます。「自由」 や「民権」という語が、 人びとに新鮮な感動を与え、内に秘めた活力を呼び起こし、多くの人びとを新しい社会と国家の創造に駆り立てていったのです。
以上がその文章であるが、私が特に興味をそそられたのは、自由民権運動が「多くの人びとを新しい社会と国家の創造に駆り立てていった」という一文である。そうした錯綜した動きのなかで、庶民の間に国民という意識も形成されていったのではあるまいか。わが国の近代化の特質を考えるうえで、自由民権運動の歴史を振り返っておくことは意味のあることなのに違いない。
因みに、町田や多摩の運動の中心的なリーダーだった石阪は、自由党員として神奈川県議会の議長を務めた後、短期間だが群馬県知事に就任している。この春群馬に出掛けたこともあったし、この9月にも埼玉、群馬、栃木と廻ってくる予定なので、少しばかり因縁を感じた。そんなことで言えば、石阪らが指導した自由民権運動とは違った形をとったものの、群馬事件、加波山事件(茨城)、秩父事件(埼玉)といった騒擾事件も発生しており、こうしたところにもつながりを見ることができそうである。
ところで、町田には石阪以外にも名の知られた自由民権家がいる。石阪の盟友であった村野常右衛門(彼は大阪事件で逮捕されている)もその一人だが、その彼は私財を割いて1883年に文武道場である「凌霜館(りょうそうかん)」を建てている。その跡地が彼の子孫から町田市に寄付されたのを受けて、「自由民権資料館」は建設されたのだという。この資料館は紀要も刊行しているようで、玄関脇に並べられたものを眺めていたら、私も名前と顔だけは知っている元同僚の新井勝紘さんや松沢裕作さんの論考も目に入った。
新井さんは、この「自由民権資料館」の学芸員をしていたこともあるらしい。その新井さんは『五日市憲法』(2018年)を、そしてまた松沢さんは『自由民権運動』(2016年)を、ともに近年纏めておられる。いずれも岩波新書なので、読みやすかろうと思い手にしてみた。いろいろと教えられるところも多かったが、そこまで話を広げると、またまた長話となりそうである(笑)。それにしても、繋がりというものはどうも至る所にあるものらしい。