新春の寺社巡りから
松の内がもうすぐ明けようかという1月6日に、久方ぶりに雪が降った。この日も私は近くのカメラ屋に出掛け、自分が撮影した写真のどれを現像しようかと悩みながら、 選定作業に没頭していた。昼にはまだ雪がかすかに舞う程度だったが、店を出る頃にはもう積もり始めていた。このまま降り積もれば、一面銀世界になりそうな気配であった。4年ぶりの雪だとのことである。
翌日窓から外の世界を眺めたら、団地もすっかり白い世界に変身していた。目にした空は快晴であり裸木も雪化粧して美しかったので、早速カメラを持ち出して写真に収めてみた。正月の終わりに相応しい雪化粧である。横浜は5センチほどの積雪だった。この日は、今年最初の年金者組合のウオーキングが予定されていた。毎年1月は新春の寺社巡りが企画されており、今回は案内には「猿山の寺社めぐり」とあった。
私は、雪の積もった日の寺社巡りなので、いい写真が撮れそうな気もしていたのだが、果たしてこんな日にウオーキングに出掛けるのかどうか心配になった。そこで、事前に案内人の方のところに電話してみたのだが、そうしたら「今日は天気がいいので、雪も溶けるでしょうからやりますよ」との返事だった。ごくごく当たり前のような返答が返ってきたことからも分かるように、最近の高齢者の方々は、私などとは違ってすこぶる元気なのである(笑)。
集合場所の中山駅には10名ほどのメンバーが集まった。何時もよりも少なかったから、足腰に自信の無い人は参加を見合わせたのであろう。今年一年の平穏無事、無病息災、家内安全、学業成就、その他諸々を願って寺社巡りに出掛けたものの、そこで滑って転んで怪我などしたのでは、元も子もないし目も当てられない(笑)。出掛ける際に、家人からも注意するようにと釘を刺されている。そんなわけで、私も笑い者にはならないように足許には気を付けて歩いた。もしかしたら、慎重な歩みが足腰を鍛えたかもしれない(笑)。
中山駅から緑車庫まではバスで行き、そこから最初に向かったのは、高猿山寶塔院である。猿の字があるところを見ると、この辺りには昔猿がたくさんいたのであろう。村の名も猿山村と称していたようで、幕末の頃には上猿山村と下猿山村に分かれていたらしい。昭和14年に横浜市に編入されるにあたり、「猿」が「去る」に通じて縁起が良くないとされて、上猿山全域と下猿山の一部を上山町に、下猿山の残りを地域内にある白山神社にちなんで白山町に改称されたようだ。
そんなことが受け取ったチラシに書かれていた。「よくご存知ですね。どんなふうにして調べるんですか」と案内人のSさんに尋ねたところ、ネットで調べたとのことであった。ネットの世界には、郷土史に関してもマニアの人がいるらしい。寶塔院は本堂よりもその脇にあった薬師堂の方が趣があった。私は御利益を願う気はなかったので、本堂も薬師堂もただ眺めただけであったが、素晴らしかったのは、雪に蔽われた薬師堂の階段であった。柄にもなく写真心をくすぐられた(笑)。
その後、白山神社、上山・八幡神社と廻ったが、この辺りの印象は薄い。如何にも寂れつつある神社だったからであろう。私が目を奪われていたのは、蒼空に浮かぶ裸木であり辛夷(こぶし)や梅の蕾であった。このところ、気持がすっかり写真に向かっていたからに違いなかろう。次の目的地に向かうために大通りに出たら、信号機に「白山ハイテクパーク入口」との表示があった。昔の猿山は今ではハイテクパークに変貌しているのである。
次に向かったのは萬藏寺である。山門に上る階段の下には、寺の名前を刻した立派な石柱が建てられていた。立派なのはいいが、あまりにも立派過ぎれば俗に通ずることにもなる(笑)。萬藏寺の場合はスレスレである。階段下から見上げた山門は実に堂々としており、由緒のある寺であることがその偉容からも窺われた。近くにあった八幡神社にも顔を出したが、こちらは素朴な神社であり萬蔵寺とはあまりにも対照的だったので、そのことだけで親近感を抱いた(笑)。高台にある神社からは、近辺の住宅地を見渡すことができた。家々の屋根を蔽った雪が、新春の陽光を浴びて美しく輝いていた。
その後、出発点の中山にほど近いところにある長泉寺と大蔵寺を巡った、この二つのお寺は、ちょうど2年前の新春の寺社巡りで顔を出したところである。その時に私は初めて年金者組合主催のウオーキングに参加したので、ことさらに印象深い寺であった。今回再訪してみて改めて気になったことは、長泉寺には「士魂碑」が、大蔵寺には「英霊の墓」が麗々しく鎮座していたことである。
「士魂碑」は陸軍大臣荒木貞夫の揮毫(きごう)によるものである。この荒木貞夫という人物は、「皇道」などといった如何にも胡散臭いものを鼓吹するとともに、文部大臣として「皇道教育」の推進にも励んだ人間である。戦後A級戦犯として囚われ(つまり、生きて虜囚の身となり)終身刑の判決を受けたが、1955年には病気のために仮出所し、その後釈放されて90歳まで生き延びている。こうしたことを知ると、荒木の生き様の何処に「士魂」(武士の魂のことである)があったのか大いに疑問が沸く。そして実に嗤える。侵略戦争に狩り出されて命を落とした兵士たちの無念の思いは、「士魂碑」はもちろんのこと「英霊の墓」などで慰められるものではあるまい。
歴史の「古層」には、「士魂碑」や「英霊の墓」に示されているような意識が脈々と息づいているのであり、戦前が今でも払拭されてはいないのだろう。古層にある戦前の上に徒花の如くに咲いているのが、ハイテクパークのようなものなのではあるまいか。過去をまともに総括することさえなく、それどころか美化しかねないような政治を続けながら、無定見のままに成長や効率を追い求めたとしても、その先に生きるに値する社会が誕生することはなかろう。
ウオーキングを終えて中山駅に向かおうとしたら、「新年会があるので、よければ参加しませんか」と声を掛けられた。いつもいつもウオーキングに参加させてもらうだけで世話になりっぱなしだということもあったので、この機会に新年会に顔を出してみる気になった。会場には日本酒好きの組合員が集まったようで、酒田や信州の銘酒を飲ませてもらった。年寄りの男女の和気藹々とした新年会だったので、場違いの私も寛ぐことができた。
帰りに十日市場駅近くの花屋の前を通ったら、クリスマスも正月も終わって売れ残ってしまったシクラメンが、格安の値段で店先に並べられていた。残り物とはいえまだまだ十分に美しい。こんなに安い値段で買うのは申し訳ないような気もしたが、小振りの鉢の紅いシクラメンを買って帰路に就いた。そのきりりとした美しさが、年寄りの私を励ましているようにも思われた。