「飲み会」三態(一)-「飲み会」の愉しみとは-

 このところ何回か身内が登場する話を投稿してきた。こうした話は、書いている方もそしてまた書かれている方も、ついつい気持ち良くなるので、いつの間にか我を忘れがちになる。そのために、どうしても観察眼や鑑賞眼が甘くなってしまうのである。年寄りが書く孫の話などであれば尚更だろう。そうした甘さを嫌うあまり、孫という表現を意識的に避けて、小僧とか小娘などとあえて書いている。そうでもしないと、「正気」を保つことが難しくなるからである(笑)。

 書き手の身内の話などは、他人からすると大して面白いと思えないことが多い。はっきり書けば、面白くない(笑)。読み手となった場合、私も毎度そう思っているのだが、内心をそのまま口にするのは憚られるので言わないだけである。例えて言うと、テレビで芸能人たちが内輪話で盛り上がっているようなものである。見る気がしないので、見ない。私としては、内輪話に終わらないように、投稿する際に少しは工夫をこらしているつもりではあるが、しかしそれでも限界がある。そこで今回からは、趣向を変えて大人の話を書いてみることにした。果たして「正気」に戻っているかどうか…(笑)。

 私のような人間にはその理由など分かるはずもないが、コロナの感染者がこのところ急速に減少してきた。もしかしたら、ワクチン接種の効果が現れてきたということなのであろうか。冬には第6波の感染拡大があるのではないかと予測する専門家の方もいるようだが、その辺りの話にはまったく不案内なので、そうならないことを願うだけである。感染しても自宅待機などといったあまりにも無策の事態だけは、もう御免被りたい。いずれにしても、感染者が急減してきたので緊急事態宣言も解除されて、飲食店でのアルコールの提供も可となった。何とも喜ばしいことである。

 この間、感染を心配してさまざまな飲み会はなくなっていたし、私自身ごくたまに誘われることもあったが、年寄りなのでそれも辞退してきた。私は世間で言うような飲兵衛とか飲み助ではないので、家で飲む場合であれば缶ビールを1本空けるだけで十分だった。その缶ビールも、しばらく前から家人の勧めに従ってノンアルコールのビールや酎ハイに代わった。食事時にこうした飲み物が欲しくなるのは何だか儀式のような趣もあり、たんなる習慣のような気もしていたので、ノンアルコールビールでも一向に構わないことが分かった。当初はそんなもので満足できるのだろうかと訝しく思ってもいたが、始めてみれば何ほどのこともない。

 それどころか、儀式で飲むノンアルコールビールなどにいったいどれ程の意味があるのかといった疑念さえ抱くようになり、とうとうそれすらも放擲してしまった。自粛暮らしの果てに、超健康的なアルコール断捨離生活が登場してきたというわけである(笑)。思いもよらぬことであった。世の中では、家での飲酒量が増えていることが話題となっていたのに、私の場合はまったく逆であった。年を取って酒が弱くなったことも、どこかで影響していたのかもしれない。

 ついでに書けば、家では映画は見るがテレビ番組はまったくと言っていいほど見ない。頭もすっかり禿げ上がって、何とも仙人のような暮らしぶりであった。端から見れば、いったい何が楽しみで生きているのやらと不思議に思われるかもしれない(笑)。しかしながら、その仙人のような暮らしぶりには、「あれこれの煩悩さえ除けば」という条件が付く。できうれば煩悩からも逃れたいのだが、「煩悩即菩提」とも言うから煩悩を離れては菩提もない。煩悩の存在こそが人間として生きる証なのかもしれない。

 私の場合は、どうも家でではなく外で飲みたいくちのようなのである。飲めるなら何処でもいい、あるいは何処ででも飲みたいというほどの酒好きではないということか。この間外で食事をする機会が何度かあったので、そんな時はごく普通にアルコールを口にした。別に禁酒や断酒しているわけではないから、飲んでもまったく気にはならないのである。外で飲む時は、毎回久し振りに飲むことになるので、いつもとびきり旨かった(笑)。日頃アルコールから離れていると、そんな効用も生まれるのである。

 先頃亡くなった小三治師匠を偲んで落語を聞いていたところ、「備前徳利」という噺の枕に「酒は飲むべし、飲むべからず」という格言が紹介されていた。なかなか含蓄のある言葉である。普通世間では、「酒は飲むべし、飲まるるべからず」などと言うが、これだとあまりに常識的に過ぎて面白くも何ともない。妙に訓戒を垂れているだけのようにも感じられるからであろう。何事もそうなのであろうが、「正論」が過ぎると急につまらなくなる。そんな名前のくだらない雑誌が今でもあるようだが、よくもまあこんな品のないタイトルを付けたものである(笑)。

 「酒は飲むべし、飲むべからず」だと、人間は「飲め」という肯定の世界と「飲むな」という否定の世界のあわいを漂っている、何とも優柔不断でいい加減でどうしようもない存在のようにも思えてくる。言ってみれば、「是」も「非」もないということになるのだろうか。そんな解釈が可能となるような如何にも人間臭い格言なので、だからこそ落語の世界に相応しいのではあるまいか。

 そうした話はともかく、飲食店でアルコールの提供が可となったので、私の所にも飲み会の誘いが舞い込み始めた。もっとも私のことだから付き合いの範囲は狭く、大した数でもない。今更書くまでもなかろうが、話の通じる「知り合い」と「飲み食い」しながら「雑談]を交わす、この三つが揃わないと飲み会もあまり愉しくはない。揃うと愉しみは確実に倍化する。どうもそんな気がしてならないのである。自粛生活で失われていたのは、きっとこの組み合わせだったのであろう。

 この間オンラインでの飲み会も行われ、私も誘われて三度程参加した。相手はゼミの卒業生だったり、大学時代の友人たちだったりした。物珍しさもあって顔を出してみたのだが、面白さという点ではやはり今一つだった。全員が沈黙すると途端に座が白けるような感じがして、慌てて話を考えたり振ったりしなければならなかったこともあったし、何時も参加者全員を相手に語ることになるので、当たり障りのない話に終始しがちだったこともある。

 遠く離れたゼミ生や知人が、パソコンを通じて一堂に会することができるので、そのことだけは凄いなあと感心したのだが、しかし感心したのはそこまでである。慣れていないから嫌になったのではなく、そもそもオンラインの飲み会というものは、飲み会の愉しさを再現できるようなものではなかったからではあるまいか。会議や講演会への参加であれば、なかなか役に立ちそうであるが、オンラインにしてまで飲み会をやる必要が感じられない。旨い食べ物があっての飲み会であり、雑談があっての飲み会である。

 そんなわけで、オンラインの飲み会もいつの間にか廃れてしまい、またやろうといった声も聞こえなくなってしまった。みんなも同じように感じていたからなのかもしれない。私が待っていたのは、先にも触れたように話の通じる「知り合い」と「飲み食い」しながら「雑談]を交わす機会の到来であるが、知り合いの人々が待っていたのもきっとそれだったのであろう。外で飲めるようになったので、煩悩に溢れた偽物の仙人である私は、「待ってました」とばかりに外に飛び出したくなった(笑)。

 久米の仙人が女人の白い脛に目がくらんで俗界に落ちたように、私もまた、緊急事態宣言が解除されたことによって、仙人の世界からから俗界へと舞い戻ることになった。こんなことを書いているうちに、またまた知り合いから飲み会に誘われた(笑)。誘われれば、余程のことがない限り顔を出すようにしている。こうしたところだけはやけに律儀で真面目なのである。しかしながら、よくよく考えてみれば、飲み会に誘われているうちが花なのかもしれない。散りぎわの花といったところか。