「大山街道ふるさと館」を訪ねて

 このところ暑い日が続いている。連日肌を刺すような暑さで、今日も真夏日を通り越して猛暑日となるとの予報である。各地で37℃まで気温が上がるということなので、たいへんな暑さである。節季で言えば大暑ということになるが、それ以外にも酷い暑さを表現する言葉は数多くある。炎暑や酷暑はよく知られていると思うが、激暑や極暑、熱暑、甚暑などといった表現もある。日本の夏は暑い。映画「ピンポン」で、主人公の窪塚洋介が口にする科白「アツがナツいぜ」を急に思い出した(笑)。

 先日こんなふうに書き出したのだが、その後台風の影響があったり、前線が停滞して長雨が続いたりで、一気に冷え込んできた。これまでは半ズボンに半袖の出で立ちであり、夜もクーラーを付けたままだったが、昨日などは長ズボンに長袖で過ごし、夜もクーラー無しで寝た。炎暑の日々が嘘のようである。またしばらくすれば暑くなるとのことだが、時候の話をブログに書くのはなかなか難しいものである(笑)。

 前回まで、「立夏から小暑へ」と題して、年金者組合のウオーキングに出掛けた話を、4回に分けて纏めて綴ってきた。これですべて紹介し尽くしたことになる。そのため、二ヶ領用水と久地円筒分水の話で終わりにしてもよかったのだが、折角近くまで来たのだからと帰路に「大山街道ふるさと館」に立ち寄った。これはウオーキングの付け足しのようなものなので、わざわざブログに投稿するまでもなかろうと思っていたのだが、訪ねてみると意外に面白い施設だった。関連して書いておきたいことも生まれたので、新たに2回に分けて投稿することにした。

 私などは、今回のウオーキングに出掛けて、こうした施設があることを初めて知ったような人間である。この「大山街道ふるさと館」は、大山街道の歴史・民俗・自然に関する貴重な歴史資料などを保存し展示することを目的として、川崎市によって設置された施設であり、1992年に開館している。30年近くも前からあったとは驚きである。展示室は観覧無料で出入り自由となっているので、気軽に立ち寄ることができる。何とも庶民的な施設である。

 私が特に気に入ったのは、さまざまな資料やパンフレットが手に入ったことであり(ここで『訪ねて楽しい大山街道』という冊子を購入した)、2階の資料室でのんびりお茶を飲みながら資料を広げることができたことであり、さらには、裸婦像の彫刻が二体も置かれていたことである。このような施設には場違いの感があるのだが、私は絵や彫刻などを見るのが好きなので、感心して眺めてきた。これらの彫刻は、置かれる場所によってはもっと引き立つような気もしないではなかったが…。作者は、川崎市在住の宇田川君江という女性の彫刻家であり、写真の作品のタイトルは、「巣立ち」となっていた。

 では、大山街道とはどんな街道だったのだろうか。こちらが本題である。大山には、去年は小僧二人を連れて、今年は娘や小僧と一緒に出掛けている。昔若い頃には、家族で頂上にある奥社まで登ったこともあるし、昔教員だった頃には、伊勢原にあったセミナーハウスでゼミ合宿を行った際に、ゼミ生たちと遊びに出掛けたこともある。そんなわけで、何となく親しみを感じる場所なのである。「大山詣り」のために、江戸からこの山に向かう道が大山街道なんだろうとは思っていたが、しかしそれ以上のことは何も知らなかった。

 「大山街道ふるさと館」のホームページによると、大山街道はおおよそ次のように紹介されている。江戸城の赤坂御門を起点として、青山、三軒茶屋、二子、溝口、荏田、厚木、伊勢原を通り、雨乞いで有名な大山阿夫利神社に至る道のことである。東海道と甲州街道の間を通って江戸へ向かう脇往還(五街道のような本街道以外の支街道のことで、休泊機能の備わった道をいう)として、矢倉沢往還(往還とは狭い街道のことをいう)や厚木街道などとも呼ばれてきた。大山に至る道は他にもいくつかあって、それらはすべて大山道であり、矢倉沢往還もその一つである。寛文九年(1669)には、溝口村と二子村が矢倉沢往還の宿として定められ、二子溝口宿(他に厚木宿や伊勢原宿がある)となった。

 江戸時代の中期には、庶民のブームとなった「大山詣り」の道として矢倉沢往還が盛んに利用されるようになったため、その頃からこの往還は大山街道として有名になったという。さらに江戸の後期には、駿河のお茶や真綿、伊豆の椎茸や乾魚、秦野のたばこ、相模川の鮎、多摩丘陵の薪や木炭などの生活物資を江戸に運ぶ大切な輸送路として利用されるようになり、これらを商う商人たちで大いに賑わったらしい。

 このように、大山街道は歴史のある街道なので、もともとは二子溝口宿であった溝の口に「大山街道ふるさと館」が生まれたのであろう。日本遺産ポータルサイトを見ると、「江戸庶民の信仰と行楽の地」と題して「大山詣り」が紹介されており、「江戸の人口が100万人の時代に、年間20万人もの参拝者が訪れた」とまで書かれている。「と言われている」とのことなので真偽の程は定かではないが、それにしても当時超人気の観光スポットだったことは間違いない。

 「帰りがけに江の島などの観光地に立ち寄っても江戸から5日程度。レジャーも兼ねて気軽に出かけられたことが、粋で遊び上手な江戸っ子たちの心を捉えた」のだという。「大山詣り」の参拝者の多くは、「講」と呼ばれる町内会や同業者組合による団体であり、皆で費用を積み立ててお詣りツアーを組んで出掛けていたのだが、その多くは信仰よりも観光が目的の「講」であったようだ。信仰よりも観光、神様よりも現世、庶民であればそうであって当然だろう。私も同じである(笑)。