仲春の加賀・越前・若狭紀行(十)-琵琶湖疎水から-
「仲春の加賀・越前・若狭紀行」と題したこの連載のブログも、今回が最終回となる。毎回400字5~6枚、長くなっても7~8枚で書こうとすると、どうしても回数が増える。こんなものを真面目に読む人がいるのかどうか知らないが、読者の方々も大分飽きてきたことだろう。私も飽きつつある(笑)。余録の続きを綴って、「仲春の加賀・越前・若狭紀行」を終えることにしたい。
山口誓子の句碑に違和感を覚えたまま、次に向かったのは小浜である。小浜では昼食に鯖定食を食べ、隣の「おばま食文化館」を覗いた。海産物が豊富な若狭は、昔から「御食国」(みけつくに)と称されていたようで、食べ物には大分拘りがあるようだ。田舎育ちの私などは、味覚には無頓着な方なのでいささか場違いの感もあった(笑)。
その後、若狭街道を通って京都に出た。途中、鯖街道の宿場町として知られるようになった熊川を眺め、右手に安曇(あど)川を見ながら朽木(くつき)を通った。大原までは、杉の木の倒木だけが目に付いた静かな山道が続いた。辿り着いた 京都では、琵琶湖疎水に関わりのある近代化遺産の数々を見て廻り、「琵琶湖疎水記念館」を見学した。
南禅寺の桜も素晴らしかったが、遺産の数々も実に風格があり、周りの景色と絶妙に調和して見応えがあった。それぞれの遺産の土木工学的な意味なども掲示板には記されていたが、そんなことよりも、景観の素晴らしさにうっとりした。桜が満開となった春爛漫のこの時期に、着物姿の若い女性たちを見るともなしに見ていたら、なにやら明治時代にタイムスリップしたかのようにも思えてきた。
琵琶湖疎水そのものについても、購入したパンフレットなどを下敷きにしながら簡単に触れておく。京都は三方が山に囲まれているが、 比叡から続く東側の山並みは、蹴上(けあげ)付近でいったん途切れる。南禅寺の入り口付近である。この山の切れ目に、明治の半ば頃京都と琵琶湖をつなぐ運河が建設された。それが「琵琶湖疏水」である。
琵琶湖西岸の大津で取り入れた水を、比叡山系の南麓を通して蹴上から京都市内に流し込む、およそ7キロのルートの途中には、もちろん山もあり谷もある。水路をつくるだけではなく、トンネルを掘って運河を通さねばならなかった。
蹴上でもっとも有名な施設はインクラインである。インクラインとは、高低差のある水路に船を引き上げるための施設である。蹴上と南禅寺の間には高低差があり、京都市内を遡ってきた船は、ここで蹴上まで引き上げられることになる。南禅寺側にプールがつくってあって、そこから、船に積んだ荷物ごと貨車に載せる。そして、、蹴上のプールにもう一度戻し、そこからまた琵琶湖に向かうのである。
琵琶湖疏水という大工事の設計と建設を行なったのは、田辺朔郎(たなべ・さくろう)であった。田辺は、明治16(1883)年に大学を卒業すると同時に、京都府御用掛に就任した。彼は、学生時代に大津-京都間の疏水調査を行ない、琵琶湖疏水の建設計画を卒業論文にまとめていた。そのため、京都府知事の北垣国道(きたがき・くにみち)から、琵琶湖疏水工事の主任技師に任命されたのである。
琵琶湖疏水の取り入れ口である大津から蹴上まではおよそ9キロだから、それほど長い距離ではない。しかし、途中は山地なので、運河を開通させるためには、何力所かのトンネルを掘らねばならなかった。もっとも難関だったのは、長等山を通るトンネルの工事であり、このトンネルは、途中に「シャフト」と呼ばれる竪坑を設ける方法で開削された。
トンネルの中間点に井戸のような垂直の穴を掘り、この底から両側の出口に向かって掘り進む。両側の入り口からも竪坑に向かって掘り進む。こうすれば、工事にかかる期間を短縮できると想定された。また、シャフトからトンネル内に新鮮な空気を取り入れることができたし、湧水を汲み出すことも容易になるはずだった。
しかし、開削直後から猛烈な湧水に悩まされた。人力による排水では間に合わず、蒸気で動く排水ポンプが導入されることになった。設置を担当したのは、ポンプ主任の大川米蔵である。大川は湧水と闘いながらこの仕事をやり抜くが、設置工事完成の夜、自らシャフトの穴に身を投げた。工事にともなう極度の緊張が自殺の原因であったといわれる。
当初、この事業には水力発電の構想は含まれていなかった。電力は以前から使われていたが、火力によって蒸気エンジンを回し、その動力を発電機に伝える方法がほとんどだった。田辺が着目したのは水力発電であり、蹴上―南禅寺の落差70メートルを利用して、水車を回した。
ここで発電した電力が、インクラインを登り降りする荷車を動かし、京都の街に電灯を灯し、工場のモーターを動かす動力源となった。難工事の果てに琵琶湖疏水が完成したのは、明治27(1894)年のことである。なお、田辺はこの工事で命を落とした人々の霊を弔うために、私費を投じて殉職者慰霊碑を建立している。
おおよそこんな話である。「琵琶湖疎水記念館」で展示を眺めていたら、田辺が北垣国道の長女と結婚したこと、義父であり官僚でもある北垣と田辺との間には人間関係のもつれもあって、そのためか妻との間にも翳りが生じたこと、当時学生だった長男が亡くなって深い挫折を味わったこと、などが記されていた。そうしたこともパンフレットには記載されているだろうと思って購入したのだが、そんな話は何一つ触れられてはいなかった。
今回の調査旅行で私が期待していたのは、北前船がらみの話であったことは言うまでもないが、この琵琶湖疎水についても心密かに愉しみにしていた。私はかなり昔から田宮虎彦のファンで、彼の書いたものはかなり集め、そして読んだ。その彼に、そのものずばりの「琵琶湖疎水」というタイトルの短編小説がある。1949年の作であり、この年にはあの「足摺岬」も書かれている。
「琵琶湖疎水」が描き出しているのは、入水自殺や列車からの転落による友人たちの死に現れたような、三高時代の暗い青春群像である。「それは昭和五、六年の頃のことであった。既に左翼思想は田中たちの間から色褪せていって、学生の間にも無為と頼廃とが濁ったよどみをなげかけはじめていた。田中たちは、その一、二年前には学生間を風靡していたマルクスにもレーニンにも唯物弁証法にもすべて無縁であった。口にもしなかった」。そんな時代の暗さを更に深くしているのが、琵琶湖疎水の美しい風景である。こんなふうである。
「琵琶湖からインクラインにひかれた琵琶湖疏水は、南禅寺、永観堂の山下を潜りぬけて、若王子社の前に出ると、そこから鹿ヶ谷をゆるやかに縫いながら銀閣寺道に流れはじめる。青々と豊かな水量であった。若王子社から銀閣寺道まで、鹿ヶ谷の疏水べりの道は十二、三町もつづいている。(中略)疏水は春は桜の花びらにうずもれるのだった。その花びらの上に、また花びらが舞いおち、二重にも三重にも重なりあって、ゆるやかに流れていった。十二、三町の長い流れが、その頃には桜の花びらにおおいつくされて、水の面をひとところもみせなかった。桜の花びらが流れつくすと、季節は初夏にうつってゆくのだった。若葉が眼のさめる様な新緑を、こんとは疏水にかげをおとした。秋にはそれは燃える様な紅葉にかわった」。
しかし、疎水を流れる水は、景色の美しさとは対照的に怖ろしさをも孕んでいた。女郎屋から眺めた琵琶湖疎水は、次のように描かれている。「佐藤は通された三畳の部屋からくらい疏水をみていた。その疏水の水はインクラインを落ちて来た琶湖の水である。琵琶湖から京都まで流れて来た水は蹴上で南禅寺の隧道に流れて若王子に出、佐藤の家のそばを流れてゆく水と、今、佐藤の眼の前を墨汁の様にむくむくとかたまり流れている水との二つに分れるのである。佐藤は何故か怖しいと思った。」
京都を舞台にした暗い時代の青春群像は、「卯の花くたし」や「鹿ヶ谷」、「比叡下ろし」等の作品でも描かれている。私としては、田宮が描いた世界を思い出しながら、琵琶湖疎水を巡ってみたかったのである。そんな願いが思いもかけずに達せられて、私はいたく感激した。旅の終わりに相応しく、心が洗われるような時間が過ぎていった。
田宮の描いた暗く、寂しく、悲しく、静まりかえった世界は、外界からはとっくに消え失せてしまったようにも見える。だが『絵本』(目黒書店、1951年)のあとがきで彼は言う。「現実の世界にあるものが必ずしも人生ではない。現実の世界に人生を探そうとすることほど無意味に近いことはない。人生は小説の中にしかないのである」と。
世の中の目新しいものなど、あっという間に消え去っていく。古くなることさえない。田宮の作品は「古い」と言われ続けてきたが、その「古さ」故にいつまでも色褪せることがないのである。私の心の奥底には、彼の描いた作品世界が、今でもひっそりとへばり付いたままである。
(追 記)
前々回のブログで、右近家を訪問した話を書き、その際、「畝来」(うら)というレストランでの食事が美味しかったことに触れた。そこで、「食べ物に関する話の続きは、最終回に纏めて紹介してみたい」などと書いておいたが、すっかり忘れていた。
金沢でも、「畝来」でも小浜でも飲み食いした話に触れておいたので、最後に京都と大阪での話にも触れておきたい。京都では、柴田さん、池本さんと3人で夜外に出た。行き当たりばったりで入った居酒屋は、地元の大人たちに好かれている店のようだった。そんな雰囲気のなかで、我々もあれこれ変わったものを食べ、飲み、談笑した。
最終日の大阪では、住吉神社に顔を出しそこで自由解散となった。一人あれこれ眺めて帰宅の途に就こうとしたら、昨晩一緒に出掛けた池本さんとばったり顔を合わせた。彼は途中梅田に寄りたいとのことだった。電車の中であれこれ話していたら、梅田の地下街にある串カツ屋に寄るが、一緒に行かないかと誘われた。
「無用の人」に近付いた私に特段の用事はないので、連れて行ったもらうことにした。池本さんが勧めるだけあって、確かに美味しい店だった。串カツなんて何処で食べても大した違いはなかろうと高を括っていたが、違った。さまざまな材料のものが揚げられ、タレもいろいろあって、何本でも食べられる。それにやけにビールに合う(笑)。
同行させてもらった私が美味そうに食べているので、池本さんも心なしか嬉しそうだった。振り返ってみたら、この4日間あちこちで美味いものを食べた。年をとってきたので、ようやくにして煩悩にも見離されつつあり、残されたのは食欲だけになりそうな気配である。食べ物が美味かった等と書いているところにこそ、老いは顔を出しているということなのか(笑)。