「敬徳書院」の扁額のこと(二)
この間、調査旅行で石川、福井、京都、大阪と廻ってきたので、(一)の投稿から大分日にちが経ってしまった。今回の調査旅行についても、そのうちブログにあれこれのことを綴ってみるつもりであるが、それはこの「『敬徳書院』の扁額のこと」が終了してからにしたいので、もう少し先になる。
佐野喜平太が収集した膨大な書籍は、後に新潟大学の附属図書館にまとめて移管され、「佐野文庫」と命名された。その数は、図書館が作成した蔵書目録によれば、総数5,237部24,638冊にも及ぶ膨大なものである。この移管が寄贈であったのか購入であったのかは微妙なところだが、寄贈者の佐野泰蔵が難病で長期の療養中でもあったことから、寄贈を受けて謝礼を支払うという形を取ったようだ。
この話については、後にもう少し詳しく触れるつもりである。図書館のホームページを見ると、「佐野文庫解題」というタイトルで次のようなことが紹介されている。今回のブログに関わるところだけをいつまんで再録しておこう。
佐野文庫は、別名「敬徳書院蔵書」と称し、新潟県三島郡出雲崎町在住の佐野喜平太氏が明治・大正年間に収集した蔵書である。本学附属図書館は、昭和35(1960)年に喜平太氏の孫である佐野泰蔵氏(元新潟県立新潟高校教諭)から、この蔵書を購入した。
佐野家は、江戸時代に佐渡の金山の渡海港・北前船の寄港地として栄えた出雲崎湊を拠点に活躍した廻船問屋であり、屋号を「泊屋」と称した。のちに地主に転じた。佐野喜平太氏は幕末の慶応2(1865)年に出生した。明治20(1887)年、22歳で尼瀬石油社設立に関与し、頭取となる。尼瀬石油社が石油産出量の減退のため挫折した後は、政治の道へと転身する。
明治34(1901)年には町長に選出され、その後、明治36(1903)年に県会議員、明治45(1912)年には第11回総選挙に当選し、衆議院議員となった。このような政治・経済活動のかたわら、喜平太氏は学問を好み、法律や漢学の研鑽を積んだ。 明治中期から大正初年にかけての約30年間、さまざまな書物を購入している。こうして収集された文庫に、副島種臣が「敬徳書院」と命名したと言われている。
以上のようなことが、図書館のホームページには書かれている。なお、ここでは喜平太の没年が不詳とされているが、彼は1922年に57歳で亡くなっている。それはともかく、「と言われている」などと言われたり書かれたりする場合、だいたいはいい加減なことが多い(笑)。「敬徳書院」の扁額には副島種臣の署名が入っているが、副島がほんとうに喜平太の蔵書について「敬徳書院」と命名したかどうかはわからない。
もしかしたら、命名したのは喜平太で、書家としても著名な副島に揮毫を依頼したのかもしれないが、これは両者の立場や年齢の差からしてちょっと考えにくい。あるいは別の可能性として、すでにあった「敬徳書院」の扁額を、喜平太が何らかのルートで手に入れ、その後それを自宅の門に架けて「敬徳書院」と称したということも考えられる。
この辺りは勝手に想像するしかないのだが、案外後者の可能性の方が高いのかもしれない。また、たとえいずれであったにしても、喜平太と副島との間に直接あるいは間接の接点がなければならないのだが、今となってはそれもよく分からない。喜平太がどのようにして「敬徳書院」の扁額を入手したのかは、もはや歴史の闇に没しているのである。
「敬徳書院」の扁額はかなり大きくて重かったので、自由に移動することが難しく、その後佐野家の没落と出雲崎から新潟への転居の過程で、行方不明となってしまったようである。転居の際に売れる物はほとんど売られたようなので、値の付く物はすべて骨董商の手に渡り、そこからあちこちに転売されていったのであろう。
だがこの扁額は、その大きさと重さの故か引き取り手がなく、うち捨てられていた可能性がある。それほど価値ある物のようには思われなかったからなのであろうか。あるいはまた、たとえ手に入れたとしても、何処にどのように使えばいいのかよく分からなかった所為もあるのかもしれない。どちらにしても、誰も欲しがらなかったというわけである(笑)。
「佐野文庫」を寄贈した佐野泰蔵の弟である叔父の佐野康太は、2003年に『繁栄した佐野家と幼・少年時代の想い出』と題した冊子を纏めている。私家版の佐野家略史のようなものである。この冊子が出来上がるについては、私も細やかながら叔父の仕事に協力した。振り返ってみると、あれからもう20年近くも経つのである。時の巡る速さに改めて驚かされる。そこには、「敬徳書院」の話も登場しており、次のような記述がある。
佐野家を「敬徳書院」と呼ぶのは、祖父の喜平太が尼瀬町で廻船問屋をしていた時代から、西越村中條で57歳で亡くなるまでの約50年間に買い集めた書物が27,500冊あまりあり、祖父はそれを家財蔵に保管して、明治の元勲副島種臣の書による「敬徳書院」という大きな扁額を正門に掲げていたからである。
父秀作の代になってから、虫に食われないためには、風通しをしなければならないということで、秋のカラッとしたいい天気になると、庭に綱を張り、家財蔵の中から本を持ち出して来て、これを開いてその紐に引っ掛けて干した。
その仕事を、子どもにも手伝わせた。もちろん両親もやっていた。庭には筵(むしろ)を敷いて、その筵の上でも干し、夕方にはまた家のなかにしまった。それを何日間か続けるのだが、この手伝いが子ども心にも嫌だった。そうして干していても、虫が食っていった。
戦後「斜陽族」になって、西越の家を解体する時に、長兄が「家財蔵にある、喜平太が敬徳書院として集めた膨大な数の書物を処分をしようと思う。おまえはどう思うか」と言うので、「管理しきれなかったら仕方がないじゃないか」と返事した。
敬徳書院の書物は県下でも大変有名なので、全部まとめて新潟大学に議ることになった。新潟大学では、約束どおりに附属図書館の中に「佐野文庫」という部屋を設け、そこに「佐野文庫」と佐野家に伝わってきた文書と京屋(野口家)に伝わっていた「野口家文書」が管理されている。
我が家は、父の死後泰蔵兄が成人して家にはいる昭和18年頃まで、母が家を守り村の女性の中心人物として、いろいろな公職についていた。母は昭和25年6月28日に61歳で亡くなったのだが、44歳で夫の秀作と死別後は、一人で8人の子どもを育てながら、地主の仕事をやっていた。今考えると、じつによく働いていた。
昭和18,9年くらいでは、まだ地主としての体面や格式もあった。しかし、戦後の農地改革によって、あらゆるものが逆転してしまった。我が家も終戦を境に、次第に衰えていくことになる。まさに「斜陽族」であった。そして、兄が県立新潟高校に転勤したのをきっかけに、昭和31(1956)年には西越村上中條の家を手放し、新潟市関屋田町に移住した。
上述の叔父の記述からだけでは判然としないが、この蔵書も、売れそうな稀覯本のみ売り払い、あとは処分するような話もあったようだ。後に登場する従兄弟の話によると、ある古書店主が、そんなことをするのはもったいないので止めるように忠告したのだという。
ばらばらにせずに纏めておいたからこそ、資料的な価値が生まれたようにも思われる。扁額は行方不明となってしまうのであるが、膨大な蔵書の方は「佐野文庫」として新潟大学の附属図書館に残った。両者は何とも対照的な運命を辿ったことになる。