「わが町」から(中)
前回、「わが町」という感覚がなかなか生まれないのは何故なのか、そんなことをぼんやりと考えてみた。そこにはあれこれの理由があるのだが、しかし、そんなことを考えること自体が、もしかすると「わが町」の発見や創造に繋がるのかもしれないなどとも思った。都筑区の歴史と現状を整理するといった仕事を、比較的気軽な気持で引き受けることにしたのも、そんな思いと関係があったのかもしれない。
まずは、都筑区のプロフィールを描いてみよう。都筑区は、区としての歴史がまだ25年と浅い。もともとは、港北区と緑区の2区が4区に再編成された際に、そのうちの一つの区として発足したのである。区域は縦型の長方形に近い。このように、行政区としての歴史は浅いのだが、それだけではなく、ここでは都筑区誕生の前からニュータウン構想によって計画的に都市開発が行われてきた。そんなわけなので、都筑区は形式においても実質においても、まったく新しい社会空間として登場したと言えるだろう。
横浜の北西部一帯は、奈良時代から昭和14年までは都筑郡と呼ばれていたようで、その歴史については、区制25周年を記念して編まれた『図説 都筑の歴史』(2019年)に詳しく紹介されている(因みに、この本は図版も多くて読みやすく作られており、とてもよくできている)。そうした過去はあるものの、現在の都筑区の主要部分は、最近になってから誕生したのである。新しい町づくりに向けての動きは現在も続いており、区民文化センターの整備なども計画されている。
私の住んでいる団地の最寄り駅は「都筑ふれあいの丘」であるが、こうした名称は新住民の発想にもとづくものであろう。しかしながら、新しければいいと思っているわけではない旧いタイプの私のような人間からすると、何だか軽薄な感じがしないでもない(笑)。「センター南」や「センター北」なども似たようなものであろう。隣駅の「川和町」の方が何となく由緒が感じられる。
「センター北」の隣の駅は「北山田」(きたやまた)である。この駅名は住民投票で決まったのだが、決まるに際しては一悶着あったようだ。住民投票をボイコットした新住民からの、「田舎臭い」、「みっともない」、「土地の値段が下がる」などといった、如何にも田舎くさくてみっともない批判がかなりあったらしい(笑)。そんな話が、男全富雄著『望郷ー失われたものの記録』(田園都市出版、1999年)に登場している。
中山にあった古くて狭い団地から、港北ニュータウンに完成した新しくて広い団地に私が転居してきた時は、まだ緑区だった。周辺には団地が続々と建設され、区名が変更され、市営地下鉄が開通し、区役所や図書館ができ、デパートや映画館が開業した。こうした大きな変化は、都筑区に移り住んだ住民の区に対する愛着を高めているようである。新天地に移住して、ここで人生を紡いでいきたいという願いの現れなのであろう。勝手に夢を膨らませていた当時の私なども、まさにそんな一人であった(笑)。
こうした住民のありようは、新しい試みを生み出す可能性を秘めてもいるが、他方では、個人の人生の充実にのみ関心が向かいがちなところもあって、町内会や自治会を始めとした地域における人々のつながりを弱めてもいるようである。地域における束縛が弱いところが、新天地の良さのように思っていたところもあったからであろう。田舎から都会に出てきたときに感じた思いと、似ているのかもしれない。
私の場合も、新しい団地に転居してきたこと自体ががやたらに嬉しかった(笑)。当時の大きな関心事は、子育てのことであり、そしてまた自分の仕事のことであった。家人も中学校の教員として忙しくしていたので、地域のことに関心が向かうことはほとんどなかった。マイホームを取得しそこでの日々の暮らしを充実させていくことが、「家郷」を創造する営みとイコールだったからであろう。
都筑区では、毎年「統計で見るつづき」を発行しており、区役所に出向けば誰でも入手できる。それによると、区の発足当初と比較して人口の規模は約2倍となっている。子育て世代を中心に外部からの人口流入が続いてきたからである。そのため、区の平均年齢は42歳であり横浜市の18区中もっとも若い。またその結果でもあるが、15歳未満の年少人口の割合ももっとも高い。新しい町は若い世代の町でもある。年寄りの私が新しい町に違和感を抱く背景には、そんなこともあるのかもしれない。
しかしながら、ニュータウン以外の旧地域を中心に、高齢者も一定の割合で存在する。しかも、歳月を経ることによって、子育て世代は確実に高齢世代へと移行する。私の住む団地でも高齢化は急速に進んでおり、30代の後半に港北ニュータウンに移り住んだ私も、現在では既に70代に入っており、子供たちも皆独立して夫婦二人暮らしとなっている。団地内の同世代の知人たちも、皆同じような状況にある。今後も高齢世代が増え続けるはずであるが、ニュータウンはどんなオールドタウンへと変身するのであろうか。
住民の経済状態を見てみよう。マイホームを確保して港北ニュータウンに転入してきたのだから、それが可能となるような収入レベルにある人が多いのは当然である。生活保護の受給者比率が市内でもっとも低いことなどを考慮すると、中間的な所得階層の人々が厚い層をなしているように思われる。こうした人々は長時間労働に従事している場合も多く、そうしたこともまた、地域への関心を薄れさせているようにも思われる。
長方形の区域は、大きく北部と中央部と南部に分けられる。北部と中央部のニュータウン地区では、緑道や公園の整備によって自然と調和した町づくりが進められており、とりわけかなり長く伸びた緑道と所々に設けられた自然豊かな公園は、住民の生活環境に対する満足度を高めているようである。私も昔は子供を連れて、その後は小僧二人を連れて、よく散歩に出かけたものである。今でもたまに家人と出掛けることがある。年を取ってくると、団地にもデパートにもそれほどの興味は沸かないが、近くにある緑道と公園はとても気に入っている。
北部と中央部には、大型の商業施設があってそれらを中心に商業が発展している。近年の傾向を見ると、卸売業では商店数、従業員数ともに増えているが、小売業では両者とも減少傾向にある。住まいの近くにある店を観察していても、廃業するところが結構あるので、店を維持していくのはなかなかたいへんなのであろう。そうしたところで働いていた人は、その後何処でどのように暮らしているのであろうか。そんなことがふと気になったりもする。
南部の鶴見川沿いには工業地帯が広がっており、市内の他区と比較すると、事業所数では2位、従業員数では3位となっている。私のような人間でもよく知っているような大企業の工場もある。しかしながら、私はこの地域にはほとんど出掛けたことがない。また同じ南部には、市内で有数の農業専用地区が広がっており、都市型の農産物の生産地(住民にも「都筑野菜」として知られている)となっている。私がこうした事実を知ったのは、ごく最近になってからである。このように、北部・中央部と南部の二つの地域の様相はかなり異なっており、区は大きく二分されていると言えるだろう。
区民の生活を支える交通体系は、どうなっているのだろうか。区の東西の端に第三京浜道路と東名自動車道が走り、中央部は二つの市営地下鉄(ブルーラインとグリーンライン)が縦と横に通っている。そのために、交通の利便性はきわめて高く、とりわけ市営地下鉄は、区内に8駅あって区民の日常生活の重要な足となっている。こうしたことも、都筑区の魅力としてあげられているようである。他方、地下鉄から離れた地域では、バスが主要な交通手段となっており、狭い道路も多く残されている。そうしたところは、最近乗り始めた電動自転車でも走るのに不安を感ずる(笑)。
横浜市は、70歳以上の市民を対象に「敬老特別乗車証」を発行しており、一定額の費用を払って入手すれば、市営地下鉄と市営バスに無料で乗車できる。高齢者の私もその恩恵を受けている一人である。出掛けるときには、忘れないようにいつも気を付けている。たまに、田園都市線や東横線でまで使おうとして駅員の人に注意されることがあるが、惚けた振りをして無賃乗車をしようとしているわけではない(笑)。高齢者の外出を促すとともに、彼・彼女らの消費を喚起するうえで、重要な施策と言えるだろう。