早春の野を行く

 「晩夏の佐渡紀行」を4回目で中断しているが、もう一回間に別な投稿を入れさせていただくことにした。先月2月の末日29日に年金者組合の企画したウオーキングがあり、気晴らしに顔を出してきたからである。家にいても鬱々して大した仕事など出来そうになかったので、いっそ外に出てみようと思ったのである。この催しは毎月あるようなので、運動不足を解消するために、これからは毎回必ず顔を出そうと思っている。

 前回中山近辺の寺社巡りに出掛けた際には、天候の具合が今一つであったが、今回は好く晴れた気持ちのいい如何にも春らしい陽気に恵まれた。2月だからまだ早春と言ってもいいのであろうが、今年は例年以上に春が早いようで、最早陽春あるいは仲春の候の雰囲気である。市が尾駅の改札口で待ち合わせたが、参加者は10名と前回よりも大分少なかった。もしかしたら新型コロナウイルスの流行が影響したのかもしれない。

 駅の向かい側にはドラッグストアがあり、そこには開店前から大勢の人が列を作っていた。私などは世情にかなり疎い方だし、またそれでいいと居直ってもいるような年寄りなので、知り合いに「あの行列は何ですか」などと真顔で尋ねるような始末だった。「マスクですよ」と言われてはたと気が付いた(笑)。マスク不足が深刻だとは聞いていたが、こんなにも長い行列となっていることなどまったく知らなかった。

 外出したら手洗いやうがいぐらいはきちんとするように心掛けているが、これまでマスクはしたことがない。付けても予防に効果があるかどうかは不明だということなので、まったくする気がしないのである。そんな訳だから、行列に加わって購入しようなどと考えたこともなかった。しかしながら世の中はどうもそうではないようだ。買いだめとやらでトイレットペーパーや消毒液などもなくなっているとのことだが、私はそんな話にもほとんど興味が無いままにボーッと暮らしている(笑)。
 
 この時期にブログに投稿するのであれば、新型コロナウイルスの世界的な流行がどうしたとか、株価の暴落による世界経済の先行きがどうだとか、安倍総理のスタンドプレーのような対策は如何なものかとか、東京五輪はいったい開催できるのかどうかといった話に蘊蓄を傾ける人も、きっと多いのではあるまいか。だが私はと言えば、素人が掻き集めた程度のにわか知識を披瀝することに恥ずかしさを感ずるタイプの人間なので、そんなことを論じたいとはまったく思わない。

 偉そうに上から目線で言う気などさらさらないが、ごく普通に買い物や飲み食いに出掛け、あるいはあれこれの小さな会合に顔を出している。もともと人混みが好きな訳ではないから、そんなところに足を向ける気遣いはない。だから、気儘に何時ものように暮らしていればいいのだろうと思っている。

 普段通りに過ごしているのは、「熱狂」や「騒動」や「興奮」が嫌いな所為もあるだろうし、「右倣え」や「横並び」や「大勢」に背を向けたくなるような気質も影響しているのかもしれない(笑)。年寄りは年寄りらしく落ち着いていたいものだと、自分に言い聞かせている。

 そこで今回のウオーキングの話に戻るが、配られたチラシには「早春の早野の里」を巡るとあった。バスに乗車するまでかなりの時間があったので、みんなで駅の近くにある市が尾第三公園に寄って、公園内に展示された彫刻を眺めてきた。そのうちの一つが「ユニコーンのいるバードテーブル」であり、彫刻の背面はモザイク画であった。このモザイク画は、私と同じ団地に住んでいる宮内淳吉さんが手掛けたものである。銘には彼の名前も当然ながら刻まれていた。

 その後バスに乗車したが、目的地に向かう途中の鉄(くろがね)町付近で、案内役の塩野さんが、「あそこに佐藤春夫の『田園の憂鬱』の文学碑がありますよ」と教えてくれた。興味を持ったので目を凝らしたが、動いているバスの中からだった所為かうまく見付けることができなかった。塩野さんは、長年橫浜で中学校の国語の教師を務められた方だということなので、その辺りのことには詳しいのかもしれない。

 折角なので、この機会に春夫の代表作である「田園の憂鬱」を読んでから投稿しようとも思ったが、なかなかその時間が取れない。そこで彼の年譜だけ紐解いてみた。それによると、春夫は1916(大正5)年の5月に、神奈川県都筑郡中里村(最初は現在の横浜市青葉区市ヶ尾町の朝光寺にいたが、その後すぐに同じ青葉区の鉄町に移った)に女優であった内縁の妻と愛犬2匹、愛猫2匹とともに転居したとある。春夫24歳の時である。

 彼は神経を疲れさせる都会から逃れたくて、遠く中里村くんだりまでやって来たのであろうが、そんな田園の地においても彼の内面から憂鬱の気が消え去ることはなかったのであろう。年譜を読んでいるといろいろなことに気付かされるが、そこに犬や猫のことまで記されていたのが、何とも可笑しかった(笑)。

 我が家から市が尾駅に出るにはバスを利用するが、その途中に「朝光寺前」というバス停がある。春夫は最初この寺にいたらしい。そんな縁のあるお寺だとはまったく知らないでいた。その後市が尾から柿生に出る途中にある、鉄町の一軒家に転居したらしい。朝光寺にもそのうち機会を見て顔を出してみたいし、「田園の憂鬱」の文学碑も見に出掛けてみようと思っている。

 なお文学碑のことについて一言触れておくと、ネットによれば、この碑は「田園の憂鬱」に「村で唯一の女学生」として登場した金子美代子(故人)という方が、私費で1982年に建てたということである。「田園の憂鬱由縁の地」と刻まれている。この碑は「中里学園入口」という名のバス停の側に建てられているのだが、中里学園の名も恐らく昔の中里村に由来しているのであろう。

 われわれは、柿生行きのバスで麻生新町まで行き、そこから「子(ね)ノ神社」に向かった。今年はねずみ年なので、この神社に寄ってみたとのことであった。如何にも素朴な佇まいであった。妙に立派過ぎないところがいいのであろう。その後柿生の里をのんびりと散策し、早野聖地公園ではいくつかの池を見て廻ってから昼ご飯を食べた。

 休憩の後、戒翁寺を訪ねさらには早野の領主だった富永家三代の墓を巡った。「田園の憂鬱」の文学碑が建つ辺りには、幹線道路が走り家々も立ち並んで、最早田園の雰囲気は感じられなくなっているが、ここまで足を延ばすと、広々とした畑が広がり如何にも田園らしい趣きが広がっていた。昔の田舎を想い出させる春の光景を目にして、日頃の憂鬱も吹き飛んだ(笑)。

 早野聖地公園は、新しい形式の墓所を配した川崎市営の公園であるが、墓所に特有の抹香臭さはほとんど感じない。戒翁寺は曹洞宗の寺だが、名前からすると老人を戒める寺ということだから、私などにはうってつけの所ということかもしれない。このお寺の入り口には、禅寺でよく見掛ける「不許葷酒入山門」(葷酒(くんしゅ)山門に入(い)るを許さずと読む)と書かれた石柱が立っていた。

 小生のような俗人は、ニンニクやニラのような臭いが強く精力を高める野菜も好きだし、酒も言うまでも無いのだが、そんないい加減な年寄りだからこそ、身を清めなければならないということなのであろうか(笑)。年を取っても、なかなか煩悩から離れられない年寄りもきっと多いに違いない。敵は煩悩にある。不謹慎を承知で書けば、戒翁寺に立つ何とも笑える石柱であった。

 今回のウオーキングでは、目的地よりも目的地に向かう途中で目に付いた春の雰囲気が、新鮮であり心楽しく印象深かった。それを味わってもらうためには、もしかしたら文章よりも写真の方がいいのかもしれない。そんな気もしたので、何時もより多くの写真を入れてみた。こちらの写真の腕前が少しは上がっており、のどかな春をいくらかでも感じていただけるようであれば嬉しいのであるが…。