読書四題(四)-ある論文のこと-

 「読書四題」のタイトルで書き始めたのに、いつまでも(三)で止まっている。(三)を投稿したのは10月8日なので、既に1ヶ月を越える時間が経った。本来であれば、先月の中頃には(四)を投稿するつもりでいたが、それが延期せざるを得なくなった顛末は、「甲府にて」の(三)で簡単に触れておいた。「読書四題」の(四)で取り上げたいのは、私よりもかなり年下のAさんに関する話である。私が昔勤務していた(財)労働科学研究所に、彼も研究員として働いていたことがあるので、その縁で彼のことは以前からよく知っていたし、その後も、いくつかの研究会で顔を合わせてきた。そんな仲なのである。
 
 酒の席で顔を合わせることも多かった。そうした場であれこれと雑談を交わしていると、お互いに気心が知れるようになり、そうなるとまた飲みたくなったりもする。「気心」の知れた人と「飲み食い」しながら「雑談」を交わす、この三つの要素がうまく揃うと、楽しみは確実に倍加する。Aさんとはそんな楽しみが共有できるので、誘われるとついつい出掛けようという気になる。私などは些か頑固で狷介な年寄りなので、Aさんと似たような間柄になる人は数少ない。

 辞書によれば、気心とはその人に備わっている気質や考え方を言うとのことであるが、私なりに言い直せば、心映えとでもなろうか。何を人間としての美質と見るのか、逆に言えば何を恥ずかしい振る舞いと見るのか、その辺りの認識が比較的似通っているからこそ、そこで交わされる雑談が生き生きしてくるのであろう。今心ばえを心映えと表記したが、正しくは心延えと書くようだ。しかし私としては心映えに拘りたくなる。語感の美しさが大分違うように感じられるからである。そんなことはどうでもいいという人もいることだろう。そんな時である、気心にずれを感ずるのは(笑)。

 Aさんとの仲が深まったのは、2017年の暮れにある出版社の経営者であるKさんと三人で飲んで、夜を明かした時からかもしれない。何を話したのかさえ定かではないのだが、とにかく話が面白かったのである(笑)。夜を徹してまでいい年をした大人三人が雑談に興じることができたのは、話すことと聞くことのバランスが取れていたので、何とも居心地がよかったからであろう。聞かされる、話させられるという一方向の関係ではなかったからである。もしかしたら、三人だったこともよかったのかもしれない。

 今、聞かされる、話させられると書いたが、聞かされるに関しては解り易いだろう。話の好きな人、うまい人は世の中にたくさんいて、ちょくちょく目にするからである。しかしながら、好きだし尚且つうまい人はそういるものではなく、だいたいは好きなだけの人ではあるのだが…(笑)。俗に言う話し好き、語りたがり屋である。それが説教や自慢話になると傍迷惑ものである。年を取ってくるとそうなりがちなので、私なども多いに自戒が必要である。

 もう一つの話させられるについてはどうか。こちらもたまにだがある。座を白けさせないために、あるいは場を持たせるために、自分だけが話し続けなければならないことがある。聞かされ続けるのも些かうんざりだが、話し続けるのも気疲れするものである。私が猥雑な話を口にしたりするのは、そんな場に遭遇した時である(笑)。ありきたりになるが、やはり程の良いバランスが大事だということなのだろう。そして、三人だとそのバランスが取りやすいような気もするのだが…。

 去年の暮れには、私とAさんとHさんの三人で代々木駅近くのレストランで飲んだ。この時も気心の知れた三人の雑談となったので(それに飲み食いしたものも旨かったので)楽しかった。若い研究者の場合、自分の研究分野から少しはみ出したところにも興味や関心がある人は意外に少ない。研究に専念していると、そんな余裕が持てないということもあるのだろう。だから、専門から些かはみ出したような人と出会うと、珍しいのでいろいろと話したくなる。

 勿論マニアックな趣味を持っている人は結構いる。だが、こういう人の場合は、趣味が専門化してしまっているので、どうも雑談にはなりにくい。聞かされることになりがちなのである。AさんもHさんも研究者で自分の専門分野を持った人だが、そこに閉じこもっているだけの人ではない。少しはみ出しているので、雑談が生まれやすくなるのであろう。そんなタイプの人物であろうと勝手に推測しているので、私としては何となく二人が好きなのである。こんなふうに書くと、きっとご両人とも苦笑することではあろうが…(笑)。

 こうした楽しみを味わいたくて、今年の8月15日にも冒頭で触れたオールナイトの三人組で再び会った(笑)。勝手に推測するに、AさんもKさんもきっと同じような心持ちだったのではあるまいか。場所は登戸の居酒屋である。暑気払いも兼ねたこの飲み会に、私などは喜び勇んで出掛けた。しかしながら、この場は前回のようにはならなかった。Kさんの抱えている経営者としての苦労が並大抵ではないらしく、飲みっぷりが些か荒れ気味だったからである。雑談が雑談にならなかったと言えばいいのであろうか。

 その場で、Aさんから最近書いたという二つの論文の抜き刷りをもらった。もしかしたら、彼としては論文に書いたことについても話したかったのかもしれないが、Kさんが早々と酔ってしまったので、残念ながらそんな機会はなかった。だからなのか、帰りしなに是非感想を聞かせてもらえないかと頼まれた。私のような研究者を廃業した人間が読んでみても、碌な感想は言えないだろうとは思ったが、真面目に頼まれたのに嫌だとは言えない(笑)。

 先月10月の末に、今度はAさんと二人だけで会った。私は論文の読後感を伝えたかったのだが、彼の方は自分の進路について私に相談したかったようだ。実際は、相談と言うよりも報告に近かったのではあるが…。彼は、労研を退職してからは非常勤講師として暮らしており、なかなか正規の職にありつけなかった。その彼が、ようやくにしてある労働組合に仕事の場を見付けたというのである。しかもその仕事は、Aさんの専門を活かせるものだった。嬉しい限りである。これまで安定した仕事に就けないでいたから、気持ちも落ち着かなかったであろうし、家庭内でぎくしゃくすることなどもあったであろう。そんなそぶりを見せないところが、彼のいいところであった訳だが…。

 ところで彼の論文である。読み応えがあって面白かったのは、『21世紀のいま、マルクスをどう学ぶか』(学習の友社、2018年)に収録された「未来を先取りする労働組合」の方だった。Aさんは、内田樹さんの『邪悪なものの鎮め方』(文春文庫、2014年)から、「今自分がいる場所そのものが『来たるべき未来社会の先駆形態でなければならない』」との文言を引きながら、マルクスの『経済学・哲学草稿』に話を転じ、その後再び内田さんに戻って論文を結んでいる。

 結び近くで引用されている内田さんの文章は、次のようなものである。「どれほど『ろくでもない世界』に住まいしようとも、その人の周囲だけは,それがわずかな空間、僅かな人々によって構成されているローカルな場であっても、そこだけは例外的に『気分のいい世界』であるような場を立ち上げることのできる人間だけが『未来社会』の担い手になりうる」。そうなのかもしれない。Aさんは、「ろくでもない世界」において、労働組合を立ち上げ、維持し、広げている人々は、「気分のいい世界」を立ち上げうる存在なのだと言いたいのであろう。

 ところで『経済学・哲学草稿』でのマルクスはどうか。彼はフランスの社会主義的な労働者たちの集会に触れて、次のように言う。「煙草をすい、酒をのみ、飯を食う等々は、もはや結合の手段すなわち人と人とを結びつける手段としてあるのではない。仲間であること、一つに結ばれていること、楽しい談話(これもまた仲間であることを目的としている)が、彼らにとっては十分なのであり、人間が兄弟どうしであるということは彼らには空文句ではなく真理であって、労働によって堅くなった彼らのすがたから人間性の高貴さがわれわれにむかって光をはなつ」。

 昔々に読んだ文献だが、そんなことが書いてあったことなどまったく覚えていない。労働者たちの集まりは、手段ではなく目的となっていると述べているのである。何とも人間臭いマルクスであり、こんなことを知れば、親近感も沸こうというものである(笑)。ところで、Aさんが内田さんを知ったのは、先のHさんから紹介されたのが機縁だと言っていた。面白いものである。私もまた、Aさんの論文に触発されて、早速『邪悪なものの鎮め方』を読んでみた。いろいろと学ぶことも多かったが、その話にまで踏み込むと、本題からそれそうなのでここでは止めておく。

 それにしても、「気心」の知れた人と「飲み食い」しながら「雑談」を交わすことが、こんなにも「深淵」で「意義」深い行為であるとは思いも寄らなかった(笑)。これからも、機会を見付けてどんどん未来社会を先取りしたいものである(笑)。これぞ本物の道楽ではなかろうか。放蕩老人は、何とも不埒なことを考えるものである。Aさんの論文を褒め、就職を祝福し、偉そうに励ましたりしているうちに、すっかり飲み過ぎてしまい、少しばかり足下をふらつかせながら帰宅した。何とも心地のよい秋の夜更けだった。