瀬戸内周遊の旅へ-2017年暮、鞆の浦、尾道、松山-(四)
「東京物語」断想
尾道と言えば、小津安二郎についても触れておかなければならないだろう。誰もが一度は見ているに違いない彼の不朽の名作「東京物語」(1953年)の、冒頭と結末の舞台として登場するのが尾道である。私はそれほど多くの映画を観てきた訳でもないので、映画ファンや映画マニアなどと自称出来るような人間だとはまったく思っていない。ファンやマニアと言うなら、同行した所長の伊吹さんや根岸さんの方がずっと相応しいだろう。根岸さんは、大林宣彦の尾道三部作について書きたいと言っていたが、私などは新三部作は無論のこと、三部作のどのひとつも観ていない。
しかしながら、映画を観ることは好きだし、映画に関する本を読むことも好きである。文学作品と同様に、映画のなかに人生を見たり、映画を通じて人生を語りたくなるような、何とも古いタイプの人間だからである。言い換えれば、生きる構えといったものを映画にも求めているのである。
そんなこともあって、ゼミナールでは毎年夏合宿の前に名画を2、3本指定しておいて、学生たちにそれを観て合宿に参加するように求めてきた。そして合宿では、観てきた映画について、彼らや彼女らといろいろと語り合ってきたのである。そこで指定した映画は、普段学生たちが目にしないであろう古いものにすることが多かったが、そのなかに「東京物語」を入れたこともあった。今では懐かしい思い出である。
こんな話を書いているうちに記憶が蘇ったのだが、だいぶ昔に伊吹さんから「お薦めの一本」について語ってくれと頼まれたことがあった。彼がそんな企画を立てて、何人かの教員に推薦する映画の話をさせたのではなかったかと思う。昼休みに少人数の学生を前に話をした記憶がある。その時に取り上げたのは、たしか「十二人の怒れる男」(監督シドニー・ルメット、1957年)だったはずである。「また逢う日まで」や「にごりえ」で知られる映画監督今井正の孫だという学生が、ゼミに参加したこともあったし、「社会教養特別講座」のゲストの一人として、監督の山田洋次さんに専修大学に出向いて話をしてもらったこともあった。
余りにも著名かつ多忙な彼に、専修大学に来てもらうのはとても無理だろうとは思ったが、ダメ元でラブレターを書いて口説いてみたのである。案に相違して、山田さんはおおよそ次のようなことを言って、引き受けてくれた。「人を集めるためだけの講演依頼であればいつもお断りしていますが、若者を育てている大学からの依頼であれば別です。なんとか都合をつけて行きましょう」。彼のその言葉に、私がいたく感激したことは言うまでもない。今から思うと随分と大それた依頼をしたものである。当時は若かったから、そんなことが平気で出来たのであろう。
小津安二郎については勿論のこと、「東京物語」についても数多くの著作があり、私などがあれこれ語る必要など何もない。ここで書きたいのは、なぜ尾道が映画の舞台として選ばれたのかということだけである。人物の造型にも、様々な家具や調度品にも、切り取られた風景にも、カメラのアングルにも、こだわりなどと言った表現では表しきれない程の執着を示してきた彼のことだから、尾道を舞台とするに当たっても、当然周到な意図が働いていたはずである。
しばらく前に貴田庄の『小津安二郎文壇交遊録』(中公新書、2006年)を読んでいたら、そこに「志賀直哉、そして『暗夜行路』」という章があり、読むと小津は志賀直哉が好きであり、大変尊敬していたとあった。戦争中に書かれた小津日記によると、「激しいものに甚だうたれた。これハ何年にもないことだった。誠に感ず」と記されているとのことである。戦地という特殊な状況で読んだとはいえ、その感動が並大抵のものではなかったことがよくわかる。著者の貴田は、「小津はその60年の人生において、『暗夜行路』ほど感動した小説はなかったようだ」と書いているが、その後の二人の親密な交友を知ると、きっとそうだったに違いなかろう。
「東京物語」の主人公は、尾道に住む老夫婦であるが、尾道が映画の重要な舞台に選ばれた背景には、志賀直哉の存在があったのである。先にも触れたように、直哉は千光寺に通ずる道の崖上にあった棟割長屋のひとつを寓居にしたのであるが、小津らはそれを頼りにしたかのように、近辺の家々を入念に見て回ったのだという。こうした事実を私はまったく知らないでいたが、それを知ると、「小津は『東京物語』において志賀直哉や『暗夜行路』を十分に意識して、尾道を舞台のひとつに選んだ」ことがわかるだろう。他にもあれこれ好都合な事情があったとも貴田は書いているのだが、私にはそれらは付随的な要因のようにも思われた。
田中眞澄の『小津安二郎周游』(文藝春秋、2003年)にも、次のような文章がある。「志賀直哉は小津にとって生涯を通じて最高の畏敬の対象だった」し、しかも彼は、「現実の志賀に接して、作品以上にその人柄に魅せられた」という。それ故に、家族の崩壊という「主題の趣旨だけを問題とすれば、そこは東京以外であれば論理的にはどこでもよいはずである。どこでもよいそこに尾道が選択されたに就いては、やはり志賀直哉への傾倒の記念と考えざるを得ない」のだと。しかも、「小津はこの時期、志賀との直接的な交渉が最も頻繁だった」というのであるから、尚更である。
もっとも、「尾道という設定がこの作品の要求に適していたことも確かだった」ようで、映画が封切られた1953年当時の東京、尾道間は、列車で15時間ほどかかったらしく(現在では東京、新尾道間は新幹線で4時間程である)、上京や帰郷が容易ではなかったので、帰途に老妻が体調を崩す程度の距離と時間だったと書かれている。
田中のこの著作は、小津安二郎とその周辺の人々の消息を微に入り細に渡って渉猟した大変ユニークな本で、ここまで調べ上げる人がいるのかと驚かされる。小津に偏執的なところがあったことは先にも触れたが、その性格が田中にも乗り移ったかのようである。
偏執的と言えば、先の貴田庄にもその匂いはあるが、齋藤愼爾編の『キネマの文學誌』(深夜叢書社、2006年)なども同類であろう。映画マニアにはそんな人物が多いような気もするが、そんなふうに思うのは私だけなのであろうか。私自身は、こだわりをこだわりとしてそのまま表出することに恥ずかしさを感ずるタイプの人間なので、そのことだけをもって高く評価している訳では勿論ないのだが…。
「編集余滴」と題した齋藤のあとがきを読むと、「本書はわが国に映画が入ってきた明治中葉から平成までのおよそ百年の文学史、映画史を縦貫させた初の〈キネマの文学誌〉である。作家による映画評論、随筆ばかりでなく、日記、対談、インタビュー記事も収載した。いわば明治・大正・昭和・平成四代の〈近現代日本の精神史〉もしくは〈近現代日本の大衆文化史〉とも呼べるものである」と記されている。
作家による映画評の集大成のような本なので、当然ながら志賀直哉のものも含まれており、その中には「東京物語」についてのごく短い推薦文も収録されていた。「嘘がない、いい小説を読んだあとのやうな感銘を受けた。僕が見た小津君の作品の中では一番いいと思ふ」との評価である。
母親の死と相前後して、仕事と暮らしに追われている息子や娘たちがあたふたと集まって来る。そんな時に、戦死した次男の嫁役の原節子が、夜明けを見に庭先に出た老父役の笠智衆を迎えに行く。その二人を撮った、短い会話であるが故に余りにももの悲しいシーンは、千光寺の東に位置し山陽線に沿って建つ浄土寺で撮られている。今回の旅では、浄土寺までは足を延ばせなかったので、少しばかり心残りではあった。しかしながら、たとえそこまで行ったとしても、当時の面影などはとうに残ってはいないような気もしないではなかったが…。
古きものの美しさ
フィルムアート社の『小津安二郎を読む』の表紙には、「古きものの美しい復権 永遠の静止 すべては小津の眼差しに守られて ただ画面のなかに生きつづける 沈黙と抑制 ノスタルジーと余韻 失われたものが美しくよみがえる」とあったが、私のような古いタイプの人間が期待するものなどは、「抑制」された「静止」のなかに「余韻」を漂わせながら、「ただ画面のなかに生きつづけ」ているだけなのであろう。
こんなふうに書いてきて、宿泊先のホテルで手に入れた『尾道の本』(Ver.2)を眺めていたら、そこには次のような話が紹介されていた。今では尾道は「映画のまち」と呼ばれたり、それを町おこしの柱のひとつにしているようなのだが、映画の黄金期であった昭和30年代には市内に20館ほどあった映画館が、2001年にはとうとうゼロになったらしい。そのことを残念に思った人々が、2,700万円の募金を市民から集めて、2008年に念願の映画館「シネマ尾道」の開館に漕ぎ着けたのだという。そしてその「シネマ尾道」では、毎年「東京物語」を上映しているとのことである。
先に、志賀直哉の寓居近くのおかみさんたちが、朗読される『暗夜行路』を傾聴したという話を紹介したが、「東京物語」にもそれと似たような話があったのである。この雑誌の編集部によると、「『東京物語』のセリフの中で『尾道』が発せられるのは、合計10回」だという。更にこの雑誌には、9ポイントあるロケ地の詳細とその地図までが紹介されていたが、こんなことまで調べあげて雑誌でわざわざ紹介しているのは、地元の人々が尾道を愛し、そしてまた「東京物語」の舞台となったことを今でも誇らしく思っているからに違いない。
この映画の主人公は、尾道に住む老夫婦である平山周吉(70歳)ととみ(67歳)である。小津自身が語っているように、「永遠に通じるものこそ常に新しい」からでもあろうし、それに加えて、私も周吉と同じ年齢となったからでもあるのだろうが、今から60年以上も前の老夫婦の会話にも拘わらず、妙な親近感を覚えて何とも切ない気持ちになるのである。例えば次のようなやりとりを見てみよう。
とみ「-でも、思いがけのう大阪へもおりて、敬三にも会へたし、わづか10日ほどの間に子供らみんなに会へて」
周吉「ウーム」
とみ「孫らも大きうなつとつて…」
周吉「ウム。-よう昔から、子供より孫の方が可愛い云ふけえど、お前、どうぢやつた?」
とみ「お父さんは?」
周吉「やつぱり子供のほうがえゝのう」
とみ「さうですなァ」
周吉「でも、子供も大きうなると、変わるもんぢやのう。志げも子供の時分はもつと優しい子ぢやつたぢやにやァか」
とみ「さうでしたなァ」
周吉「女の子ァ嫁にやつたらおしまひぢやァ」
とみ「幸一もかわりやんしたよ。あの子ももっと優しい子でしたがのう…」
周吉「なかなか親の思ふやうにァいかんもんじや…。欲ゥ云や切りァにやァが、まァえゝ方ぢやよ」
とみ「えゝ方ですとも。よつぽどえゝ方でさ。わたしらァ幸せでさ」
周吉「さうぢやのう…。まァ幸せな方ぢやのう」
とみ「さうでさァ。幸せな方でさァ…」
亡くなった父や母も、もしかしたら周吉ととみのような会話を交わしたのであろうか。あるいはまた、言葉としては口の端に上らなかったかもしれないが、心の中では似たような感懐を抱いていたのであろうか。もはや確かめる術もないのだが、十分にあり得たようにも思われる。それどころか、周吉と同じ年齢に達した私などにも、こうした感懐の兆しは現れているし、これから似たような会話を交わすことになるのかもしれない。
老夫婦は優しかった頃の子供のことを思い出すのであるが、それによって「失われたものが美しくよみがえる」ことになったに違いない。こんなふうに書くと、孫が可愛くないのかとか親子関係に何か問題でもあるのか、などと勝手に憶測されそうで困るのであるが、現実の世界における具体的な問題の有無などには拘わらず、親と子の関係はこうした形で緩やかに、そして確実に崩れていくものなのではなかろうか。老いるということは、こうした諦念を胸底に仕舞い込んでいく営みでもあるのだろう。