瀬戸内周遊の旅へ-2017年暮、鞆の浦、尾道、松山-(三)
『放浪記』と尾道
次に取り上げたいのは、志賀直哉や小林和作とはあまりにも対照的な世界から、逆境に負けることなく、文壇に這い上がってきた林芙美子である。「文学のこみち」にあった彼女の碑文は、『放浪記』の二部から引かれていた。「海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい。汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える。山は爽やかな若葉だ。緑色の海、向うにドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしている。私は涙があふれてゐた」。こちらは、碑文もパンフレットもともに、原文とわずかに読点の違いがある。この碑文の筆者は、尋常小学校の恩師であった小林正雄という人物である。
『放浪記』の三部にも尾道は登場する。あまりに暑いので母と夜更けに浜に出た芙美子は、腰巻きひとつで海に入って泳ぐのである。「暗い水の上に、小舟が蚊帳を吊って、ランプをとぼしているのが如何にも涼しそうだ。雨上がりのせいか、海辺はひっそりしている。千光寺の灯が、山の上で木立の中にちらちらゆれて光っている」とある。
旅回りの行商人だった両親の元で育ったこともあって、芙美子は自分では故郷を持たないと言っていたようだが、そんな彼女が故郷に似た感情を抱いてたのは、高等女学校を卒業するまで暮らしていた尾道だったに違いない。そのことは、先の碑文に刻まれた心に滲みる美しい文章からもわかるだろう。
旺文社文庫の『風琴と魚の町』(1976年)にはかなり詳細な年譜が付けられているが、それによると、一家三人は1916年に尾道に移り、これまでの木賃宿を追って歩いた放浪生活から定着した生活となり、尾道で7年もの歳月を過ごすことになる。彼女の処女的な短編である「風琴と魚の町」(1931年)には、当時の尾道での彼女の暮らしの一端が描かれている。尋常小学校に編入した彼女は学校でも孤独であったが、担任の小林正雄は芙美子の境遇とそれに耐え忍んできた純情可憐さを哀れみ、更には彼女の文学的な才能をも認めて、長らく彼女の庇護者であり保護者であったという。
小学校を卒業した芙美子は、小林の強い勧めと援助で、高等女学校に進むことになる。芙美子の家の経済状態からすれば、とても思いもよらないことだったと書かれている。昔そんな教師がいたのである。先の年譜には、小林は「芙美子に単なる教え子以上の愛情を注いでいたとも考えられる」と記されていた。いささか気になる一文である。
尾道高等女学校時代の教師に関しては、武藤康史編『林芙美子随筆集』(岩波文庫、2003年)に収録されている「私の先生」と「文学的自叙伝」と題した二つのエッセーが興味深い。ここには当時の教師が何人か登場する。「社会の暗黒面を知るような本を読んではいけない」と言う校長や、この校長に阿って「小説を読むふとどきな生徒がいることは困ったことです」と訓示するような若い教師もいた。
他方で、森という国語を教えてくれた担任の教師は、芙美子らを伸び伸びと育てようとしたらしい。自由にものを書かせ、ときどき生徒の作文を読んでは批評を加えたという。芙美子ともう一人の少女の作文は、いつも読まれたと書かれている。
更には、外国の詩人たちの詩を読んで聞かせてくれたようだが、芙美子は心温かになり、ノートも採らずに「眼をつぶってその詩にききほれた」とある。彼は頭が禿げ上がっていたので、クラスでも「おぼろ月夜」とあだ名されていたが、大変無口で叱ったことがなかったと書かれている。
商業都市であった尾道では、課外で珠算をやらなければならなかったようだが、芙美子同様教師の森も珠算が嫌いだったようだ。文学を好んだ二人には、肌が合わなかったのであろう。彼女が二年になって、この森先生は他の中学に転任することになるのだが、目立たない教師だったので誰も悲しまず、「先生の家族を停車場へおくって行ったのは生徒で私ひとりであった」と書かれている。芙美子はそれからも森先生の恩に報いるために、先生の子供のために「母にねだっては時々名物の飴玉を少しばかり送った」のだった。苦労して生きてきた芙美子の優しさが偲ばれるエピソードである。
私も1985年に大学の教員となり、そして2018年の3月に32年間の教員生活を終えて定年退職した。その所為なのか、芙美子が描くような師弟関係に深い郷愁を感ずるのである。壺井栄が「二十四の瞳」(原作は1952年、木下恵介による映画化は1954年)で描いた、大石先生と生徒たちにも通ずる感覚である。甘いと言われれば確かに甘いのではあろうが、この年になると、こうした感受性を共有し得ない人と言葉を交わすのが面倒になってくる。だから年寄りは厄介なのである(笑)。
私自身小学校から大学まで、生徒や学生として様々な教師と出会ってきたし、また逆に、専修大学の教員になってからは、様々な学生と接してきた。先のような思いを強く抱くのも、そこに育まれた関係がどのようなものであったのか、あるいは有り得たのかを、振り返ろうとしているからなのだろう。