玄界灘を渡って-2017年春、釜山、対馬、大宰府-(四)

 「太古の心性」と笑い

 こんなことを紹介して一体何が言いたいのかといえば、韓国の人間も日本の人間も、玄海灘を行き来してきただけあって、いかにも似た者どうしだとの素朴な思いである。社研の『月報』582号で、「性にまつわることが哄笑をさそうのは、太古の心性をもちえている諸国民に共通のことがらであって、性は、人間の元気、活気、生産といったことと深くむすびついている」との多田道太郎の言(『しぐさの日本文化』筑摩書房、1972年)を引いたことがあるが、そのことを改めて思い出した。朝鮮文化の影響を深く受けてきた日本も、ほぼ共通の「太古の心性」を持っているはずなので、お互いが似ていて当然である。

 日本の場合、「太古の心性」にもとづく笑いは、『古事記』に描かれた神話の世界にも現れている。角川ソフィア文庫には、「ビギナーズ・クラシックス日本の古典」シリーズがあり、その一冊である『古事記』の訳文から紹介してみよう。

 さて、天上の神々の合議により、イサナキ・イザナミの男女二神に、「この浮遊している国土を固定し、整備せよ」という命令が下った。そのときに天の沼矛(ぬぼこ)という神聖なる矛を授けて委任した。そこで、この二神は天と地の間に架かる天の浮橋に立って、天の沼矛を地上にさしおろし、かきまわした。海水をコオロコオロとかき鳴らして、引き上げる時に、矛の先から滴る潮がつもり固まって島となった。これが、潮がおのずから凝り固まってできたというオノコロ島である。

 イザナキ・イザナミはこのオノコロ島に降りて、結婚のための聖なる太柱と広い神殿を建てた。そしてイザナキがイザナミに、「あなたの体はどんなふうにできていますか」と尋ねた。イザナミは『私の体は完成しましたが、塞がらない裂け目が一か所あります」と答えた。するとイザナキが「私の体も完成したが、よけいな突起が一か所ある。だから私の体の突起したものを、あなたの体の裂け目に差し入れて塞ぎ、国生みをしようと思う。国を作りたいがどうだろうか」と誘うと、イザナミは「それはいいですわね」と賛成した。そこでイザナキは「それじゃあ、二人でこの聖なる柱を回り、出会ってから交わりをしよう」と言った。

 これが神話の世界における天地創造の物語であるが、考えてみると、後段は勿論のこと、前段も男女の媾合を暗示させるような実に妖美な表現なのではあるまいか。後段のように、「成り成りて、成り合わぬ処」とか「成り成りて、成り余れる処」とかと書かれると、フランスの艶笑小咄でも読んでいるかのようである。

 この文庫の解説者は、後段の「この一段、かなり露骨な性行為の描写でよく知られている。世界の神話にも類例のない奇抜な場面だが、眉をひそめることなく、古代の性教育のなごりくらいに考えるのも楽しいではないか」と書いているが、私などには「眉をひそめる」人がいることの方が不思議である。何でもかんでも「下ネタ」で一括りするような、怠惰な評言ばかりが溢れているが、実に馬鹿馬鹿しいことである。もっと大らかに笑うことは出来ないものか。

 林芙美子は、「古事記のなかの、天のぬぼこも、古代人の品のいいイマアジュであり、これほどエロティックな由来記があるであろうか。こうした洒落の深い歴史を、あとになって、大真面目に書きたてゝあるところに、後代の日本人の洒落やほほえみを忘れたいじましさが哀れなものになるのである」と書いているようだが(『田辺聖子の恋する文学 一葉、晶子、芙美子』新潮文庫、2015年)、さもありなんと思う。

 「大きな海に棒をつゝこんで、したたった滴が島になって日本が発生するという歴史を、何と云うありがたい国かと人しれずほゝえむことが知らされてないのだ。この位、洒落たエロチックな神話は仲々他国にないのである。まことの人間が生きてゐたしるしであろうか」。こういう文章を読んで素直に微笑みたいものである。

 ついでに、日本最古のストリップについても触れておこう。あまりに有名なので、誰もが知っている話であろうが、ここで重要なのは、それを見て八百万の神が大いに笑っていることである。わが国の神々も結構猥褻だったんだなあと思ってもらってもいいし、昔は性をめぐって大らかな笑いがあったんだなあと思ってもらってもいいだろう。

 わが国最初のストリップショーは、敗戦から1年半ほどたった1947年に新宿の帝都座で催されたらしいが、その中身たるや、名画に扮して上半身裸の女性が数十秒間、額縁の中に立つといったもので、これがいわゆる「額縁ショー」と呼ばれたものである。古代の神々のおおらかな笑いと比べると、何ともいじましい限りである。

 次に、強力の男神アメノタジカラオが天の岩屋戸の脇に隠れ立ち、芸能の女神アメノウズメは天の香久山の聖なる日陰葛を襷にしてかけ、聖なる真折の葛を髪飾りにして、天の香久山の笹の葉を束ねて手に持ち、天の岩屋戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神がかりして乳房を露わにし、藻の紐を陰部に垂らした。それを見て、天上界が鳴り響くほどに大勢の神々が爆笑した。

 こんなふうにみてくると、百歳以上も生きた天皇が続々と登場するような、そしてまたいたのかいなかったのかわからない神武天皇を始祖とするような『古事記』や『日本書紀』を大真面目に持ち上げ、あれこれの遺物をさもいわくありげに祀っている多くの神社の方が、どうかしているのではあるまいか。

 そう言えば、対馬にも「神功皇后の三韓征伐」といったありもしない謂われに由来した八幡宮神社などもある。韓国の人が「三韓征伐」などを知ったら、いったいどう思うであろうか(吉岡吉典『「韓国併合」100年と日本』新日本出版社、2009年)。神功皇后ついでに思い出したが、福岡にはこの皇后を祀った香椎宮があり、昔学会のついでに足を延ばしたことがあったが、今でも戦前の腐臭がプンプンと漂うようないかにも胡散臭い神社であった。

 それはともかく、歴代の天皇も天皇制も始まりは結構いい加減なものだったと思えば、気は楽になるはずである。ついでに、三谷茉沙夫の『淫の日本史』(桜桃書房、1999年)でも紐解いてもらうと、もっとすっきりするのではなかろうか。これまでも元号の使用については必要最低限に留めてきたつもりだが、平成天皇が退位されたら、私はもう元号などからすっかり足を洗おうと思っている。もはや「君が代」でも「我が世」でもなく、「我々が代」なのである。天皇の死や退位によって時代を画そうとすること自体が、今ではすっかり時代遅れとなっているのではあるまいか。天皇がそれほど偉い訳でもなかろう。

 金田城と防人

 対馬では、北端の比田勝から南端に近い厳原までバスで縦断した。対馬は島の八割方が山だというから、急峻ではないものの山また山が続く。途中和多都見神社や圓通寺、大船越、万関橋を通ったので、その由来をいちいち知った。圓通寺には、室町時代に朝鮮国王の使節として日本を幾度となく往復して、日韓の交流に尽力した李藝の、その「人柄と底知れぬ度量に感動」して建てられたという碑があった(どんな人物であったのか興味がわいたので、戻ってから調べてみたら、彼に関する本もDVDもあることを知った)。翌日は、歴代の対馬藩主であった宗家代々の墓所である万松院や金石城も訪ねた。こんなふうに一瞥しただけでも、対馬が多くの歴史遺産を抱えた島であることが窺われた。

 さまざまな歴史遺産のなかで、私にとってもっとも興味深かったのは、浅茅(あそう)湾の南岸にあった金田城(かなたのき)である。海に面した山崖を利用して築かれた古代の山城が金田城であるが、由来によれば667年に作られたという。少しばかり歴史的な背景を紹介しておくと、7世紀の朝鮮半島では百済・新羅・高句麗の三国が抗争を繰り広げており、倭国は半島南部の百済と同盟関係を結んでいたという。

 660年に唐と新羅の連合軍が百済を滅亡させるに至り、百済再興のための救援要請を受けた倭国は、朝鮮半島に援軍を送ったものの、663年の「白村江の闘い」で大敗するに至る(土生田さんに言わせると、「コテンパンにやられた」らしい)。そのため、唐と新羅が日本に侵攻してくるかもしれないとの強い危機感から、壱岐や対馬や筑紫などに防人を配置して、急を知らせる烽(のろし)が設置されたのだという。こうして西日本各地に山城が築かれたようで、金田城の朝鮮式の山城もその一つという訳である。

 バスから降りて山道をしばらく登ると、山肌に岩を積み上げた山城跡の城壁や石塁が現れる。この日も天気は良く、汗ばむほどの陽気だった。入り江が深く切り込まれた浅茅湾を山城跡から望むと、山々の深い緑と蒼く澄み切った海、そして晴れ渡った空が対照的で何とも美しい。東国から徴発された防人たちは、荒海で知られた玄界灘を渡って、こんな山奥にまで来ていたのである。そこで露営を続けながら、3年もの間見張りを続けていたというのであるから、今更ながら驚く。

 いくら大君の命とはいえ、辛い任務であったことだろう。防人たちは、海と山を眺めながら望郷の念に駆られていたのではあるまいか。往時を思ってぼんやりと浅茅湾の景色を眺めていたら、自分もまた防人の一人になったような気さえしてきた。

防人たちは武具や食糧を自前で準備して任地に向かったというし、任地では自給自足の暮らしだったらしい。生きて帰れる保証などなにもなかったから、防人本人も大変だったろうが、彼らがいなくなった東国の農村も深刻な労働力不足に陥って、残された家族も苦難を強いられたという。防人と言えば『万葉集』であり、巻二十には「防人歌」が収録されている。そこには、望郷の念や、故郷に残してきた親や妻や子供たちへの思いと惜別の情に満ちた歌がある。よく知られているのは次のような歌である。

父母が 頭掻きなで 幸くあれて 言いし言葉そ 忘れかねつる
唐衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてこそ来ぬや 母なしにして
防人に ゆくは誰が夫と 問ふ人を 見るが羨しさ 物思ひもせず