浅春の山陰紀行(四)-出雲大社から荒神谷遺跡へ-

 石見銀山を後にして、次に向かったのは出雲大社である。今更説明も不要かと思ったが、ここは島根県の出雲市大社町にある如何にも荘厳な古社で、神々の国出雲を象徴する存在である。大国主命(おおくにぬしのみこと)が主祭神ということだ。出雲大社にも多くの神々が祀られているようだが、そのうちの中心的な神が主祭神と呼ばれる。大国主命というと何とも仰々しいが、いわゆるだいこく様のことである。調べれば他にも祀られてる神々の名が登場するが、私などには難しくてとても読めないし、振られているふりがなを読んでも覚えられない。こちらに覚える気がないからではあろうが…。

 山陰地方と言えば、たいていの人は鳥取県と島根県を思い浮かべる。人によっては、この二県に京都府、兵庫県、山口県の日本海側を加えるようだ。バスで大分走って出雲大社に着いた。記紀によれば、国譲りをした大国主命のために作られたのだという。国譲りというのは、天孫降臨に先立って大国主命が天照大神(あまてらすおおみかみ)に国を譲ったという出雲の神話のことである。そんなわけで、出雲大社にまで来るとここが神々の地であることが実感され、如何にも山陰らしい感じがした。

 ところでこの出雲大社の主祭神である大国主命は、縁結び(とりわけ男女の)の神としてよく知られている。私もそのことだけは聞いてはいたものの、何故そう呼ばれるのかは知らなかった。調べてみると、大国主命は絶世の美女として知られた八上姫(やかみひめ)を妻に迎えただけではなく、その後も美女の噂を聞きつけると言い寄るために各地に出掛け、最終的には100人以上の妻と200人近い子をもうけたのだという。とんでもない数である。

 こうして、恋多き神であり子沢山の神であったとの言い伝えから、男女の縁結びの神というイメージが出来上がったらしいのである。俗っぽく言えばモテ男や色男、女好きだったということか。何だか笑える話である。そんなことを知ってみると、出雲大社の荘厳な佇まいが急に色褪せてしまい、ガイドの方の懇切丁寧な説明もろくすっぽ聞かずじまいだった。時間の関係で本殿を拝観することは叶わなかったが、特に残念にも思わなかった。社前の庭には神話の世界を題材にした銅像もいくつか建てられていたが、無用の代物だったかもしれない。だが、拝殿の巨大な注連縄(しめなわ)には驚いた。下から眺めると、そのボリュームに圧倒される。

 ところで、後に詳しく触れることになるが、田宮虎彦に『私の日本散策』(北洋社、1975年)と言うタイトルの著作がある。そこに松江が登場しており、読んでみると彼が惚れ込んだ松江に来たついでに、一畑(いちばた)電車(通称バタデン)に乗って宍道湖を眺めながら出雲大社にまで出掛けた話が書かれていた。映画『RAILWAYS』(監督:錦織良成、2010年)では、二輛連結の旧式の電車の運転手になった男とその家族の物語が描かれているが、時折挿入されるされる緑なす田園風景が実に素晴らしい。そして雲もまた。そんな素朴な風景に魅入られた所為もあったのか、田宮が感じた出雲大社の印象は次のようなものであった。

 大社町は出雲大社の門前町である。長い参道がつづき、そこにはお土産を売る露店がならんでいる。この参道は明るすぎると私は思う。もし、ここに八重垣神社や熊野大社の森の深さがあると、出雲大社はもっと神さびて鎮まりますと感じられるであろうだが、参道の老松の並木までがあっけらかんと明るく、たどりつく大社本殿境内も、裏山がせまったあたりはともかく、拝殿のある社前の広い区域は中学校の運動場のようである。拝殿が焼失した昭和28年、境内の木々も焼けてしまったのかもしれない。

 中学校の運動場とまでは言わないが、私も似たような印象を抱いた。出雲大社での参拝を終えた後、われわれは近くにある稲佐の浜に向かった。この浜は先に触れた国譲り神話に登場するところらしい。だが、今ではここから見る夕陽の美しさで知られているようだ。夕暮れの雲が広がった日本海の彼方に日が沈みゆく様は、なかなかに美しくそしてまた寂しかった。岸辺には弁天島という小さな島があるので、日没の美しさと寂しさが際立っているようにも思われた。

 日本海の夕日も悪くはないが、できたら出雲の雲も見たいと思っていた。出雲国の別称として雲州(うんしゅう)という表現があることからもわかるように、出雲と言えば雲である。古事記には「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(ご)みに 八重垣作る その八重垣を」というよく知られた歌が登場する。角川ソフィア文庫の『古事記』からこの歌の現代語訳を紹介してみると、「巨大な雲がむらがり立つ出雲の国よ。雲は幾重にもめぐって大垣を作っている。それは愛する妻を住まわせる宮殿の八重垣のような、見事な雲の八重垣だ」となる。何とも雄大な歌である。その雲は、夏空に浮かぶ入道雲だったのか。

 この日は出雲駅側のホテルに泊まり、翌日このホテルからさほど離れてはいないところにある荒神谷(こうじんだに)遺跡博物館に向かった。1983年に農道の建設にともなって遺跡調査が行われたが、その際に古墳時代の須恵器(すえき)の破片が発見されたことから発掘調査が開始されたとのこと。1984年からの発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土している。とんでもない数である。銅剣は国の重要文化財に指定され、銅鐸や銅矛もその後追加指定されたとのことだが、1998年に一括して「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定されたのだという。

 その後遺跡一帯が「荒神谷史跡公園」として整備され、2005年には公園内に「荒神谷博物館」が開館している。銅剣の一箇所からの出土数としては過去最多であったこともあり、出雲の地でのこの遺跡の発見は、日本の古代史や考古学界に大きな衝撃を与えたようだ。記紀の神話では大きな存在感を示していた古代出雲だが、出土物が少なかったこともあって、今一つ実体が分からなかったという。だが、その後他の遺跡の発掘もあって、幻の神話の国という古代出雲のイメージは払拭されることになった。荒神谷で出土した青銅器が、いつどのような理由で埋められたのかは、まだ]特定できていないとのこと。古代史もなかなかミステリアスである。

 博物館では、置いてあった銅鐸を鳴らしてみた。もともとは鐘として音を鳴らし、合図を送るために使用されていたらしい。場所が場所だけに、その音色は古代出雲の響きのようにも感じられた。この日は朝早くに出掛けてきたので、公園には誰もいない。余計なものが何もない広々とした場所である。水田が一面に広がっていたが、そこには6月頃になると古代ハスが美し花を咲かせるのだという。小高い山の中腹まで登り、発掘現場を眺めながら遙か昔のいにしえの世界を偲んでみた。