「労働の世界」の変容とその行方(二)
第1章 新自由主義の改革とその帰結
市場原理主義とも呼ばれた新自由主義の改革は、わが国では「構造改革」と称されてきた。規制緩和の同義語とも言うべきこうした改革によって、労働の世界は大きく変容した。その様相を、『新自由主義-その歴史的展開と現在-』(作品社、2007年)の著者デヴィッド・ハーヴェイは次のように描き出している。「各国内では、労働組合をはじめとする労働者階級の諸機関の力が押さえ込まれ解体される(必要とあらば暴力によって)。フレキシブルな労働市場が確立される。国家は社会福祉の給付から手を引き、雇用構造の再編を技術的に誘導する。それによって個人化され相対的に無力にされた労働者は、資本家の個々の要望にもとづく短期契約しかない労働市場に直面する」と。
こうして、新自由主義の下では「『使い捨て労働者』が世界的規模で労働者の典型として現れ」、多くの人々が「最も安く最も従順な労働供給を見出すための『底辺へ向かう競争』に巻き込まれていく」と言うのである。100名を超える自殺者を出しつつ強行された国鉄の分割民営化と国鉄労働組合の破壊、労働市場の規制緩和の野放図な拡大、そして大量のワーキング・プアの堆積と続いてきたこの間のわが国の動向などは、まさにこうしたハーヴェイの指摘が的を射ていることを証明しているかのようである。
ではハーヴェイの指摘するような深刻な事態に、労働者と労働組合はどのような対応を見せたのであろうか。違法な解雇に対する裁判闘争も取り組まれ、集会もパレードも行われ、これまでの企業別組合とは異質の新しいユニオンが組織され、ついには政権交代さえもが実現したのであるから、そうした形で怒りは表面化したかのようにも見える。しかしながら、それでもこうした動きが「企業社会」の深部を揺り動かすようなものとはならなかった。『市場独裁主義批判』(藤原書店、2000年)の著者ピエール・ブルデューによれば、こうした事態は次のように説明されると言う。つまり、労働者の置かれた「客観的不安定」が「主観的不安定」を生み、それが、「士気喪失」と「動員不能」をもたらしているのであると。「客観的不安定」を放置したままでは労働運動は前進しない。労働運動を前進させるためには、「客観的不安定」を克服することが大事だということなのだろう。
1980年代には「豊かな社会」が論じられ、過剰なまでの「富裕化」(馬場宏二)さえもが話題となったが、今から振り返るとまさに隔世の感がある。もともと「二重社会」(山田鋭夫)でもあった「企業社会」が達成した「豊かさ」は、その広さにおいてもあるいはまたその深さにおいても、明らかに脆弱なものだったと言わねばならないだろう。言い換えるならば、われわれは社会的な保障や保護や規制、あるいは制度やルールに対する関心を弱めたまま、私的消費の領域における「豊かさ」に幻惑され続けてきたようにも思われるのである。
男性の正社員に限定するならば、かれらを企業に深く統合することに成功し、自己決定の自由主義を抑制して、企業内に擬似的な「共同体」を作り出したかに見えたわが国の「企業社会」は、その成功故に、「社会」における生活と労働のバリケードを構築することを軽視し、自己責任の自由主義を抑制することを忘れてきたのであった。言い換えるならば、企業の「内部」においても「外部」においても、社会が社会であるための根幹が弱められてきていたのである。新自由主義の改革がさほどの抵抗もなく受容されたのはそのためであり、そうした受容の素地は、「企業社会」の形成と成熟を通じてかなり前から準備されてきたと言うべきなのだろう。
ところで、労働分野における新自由主義の改革の総決算は、当時「労働ビッグバン」という形で表面化した。のであるが、これを推進しようとした「経済財政諮問会議」(この会議は、当時「構造改革の司令塔」と呼ばれていた)では、その目的を、①働き方に多様性を持たせ、②労働市場での移動やステップアップを容易にし、そしてまた③不公正な格差を是正すること、に置いていた。こうしたシュガー・コーティングされた文言だけを見れば、一見誰もが了解可能な目的ででもあるかのように思われたのであるが、そこには一体どのような現実的な含意が込められていたのであろうか。問われなければならないのはそのことである。
①については、正社員を可能な限り圧縮し、多様な名称の非正社員に代替していくことが目指されていた。この間繰り返し称揚され、今日でも改めて強調されている「雇用形態の多様化」や「働き方の多様化」は、結局のところ、非雇用という働き方をも含んだ非正社員の多様化に過ぎなかったと言うこともできるだろう。②については、「解雇の自由化」をも射程に入れつつ、労働市場の流動性を更に一段と高めることが目指されていた。これは雇用保障の更なる弱体化を狙ったものであったと言ってよい。
そして③については、格差の是正を口実にしながら労働諸条件の低位平準化が目指されていた。賃金について言えば、正社員賃金の非正社員化であり、男性賃金の女性賃金化であり、中高年者賃金の若年舎賃金化である(これらの動きは、「ウェイジ・シェアリング」などと称されたりもした)。このようにして、わが国でもハーヴェイの指摘そのままに、「フレキシブルな労働市場」が確立されて「使い捨て労働者」が活用されるとともに、「底辺へ向かう競争」が作り出されてきたのであった。
しかもジャーナリズムの世界では、深刻な格差や貧困の現実が告発される一方で、こうした「労働ビッグバン」の目指す方向をさまざまな装いで代弁するような議論がもてはやされ、活発化していた。それらの議論の多くは、「労使対立」を「労労対立」(正社員対非正社員、男性対女性、中高年者対若者)へと誘導するものであったと言えよう。総「中流」化された「平等」社会の幻想が脆くも崩れたこと自体が、こうした議論を正当化し合理化するとともに、世俗化させてきたのであった。
同類の議論は今でもある。「幸福に働き、生きるヒント」(大内伸也『勤勉は美徳か?』光文社、2016年)を授けようとする学者が、他方では、解雇しやすくなれば働くチャンスが広がり、「限定正社員」が働き方を変え、有期雇用を規制しても正社員は増えず、派遣をもっと活用すべきであり、ホワイトカラー・エグゼンプションは悪法ではなく、定年延長で若者が犠牲になるといった議論を展開しているのである(『雇用改革の真実、日経プレミアシリーズ、2014年』)。総じて言えば、法による規制の有害性を論じて余すところない議論なのであるが、果たしてそうしたところに「幸福に働き、生きる」ことが可能となる「社会」が生み出されるのであろうか。余りにも能天気な言説である。
人々が「幸福に働き、生きる」ことが可能な「社会」形成していくためには、かれらが自らの運命を自己決定出来ることが重要であろう。そうであるならば、「とりわけ企業などの巨大な社会権力が介在する分野では、個々人の自己決定は、国家法的規制や労働者集団による社会権力の規制に支えられて初めて、現実的な意味を獲得する。つまり、問題を国家―企業―労働者という三者関係においてとらえるならば、企業に対する規制が個々の労働者の自己決定を現実化させるため不可欠の条件なのである」(西谷敏)と語る論者の指摘をこそ、重視すべきであろう。オーソドックスな議論の重要性を再認識してみなければなるまい。
労働組合の歴史的な獲得物をも「既得権」として批判し、自由な「市場」の下での「平等」を実現しようとするような議論は、新自由主義の主張そのものではなかったか。政財界は、この間一貫して「高コスト体質」の是正のために長期雇用慣行を可能な限り限定し、労働市場の流動性を高め、わが国の賃金が生活賃金であるが故に帯びざるを得なかった年功的性格を、「能力」や「成果」や「実績」や「役割」などをたてに一掃しようとしてきたのであるが、先の大内のような議論は、こうした動きに連動しかねない危険を当初から孕んでいたと言うべきだろう。
格差や貧困の拡大は、現代資本主義の変容と深い関わりを持っている。今日における労働の世界の動向をとらえようとする時、現代社会のどのような変化に着目すべきであろうか。『働きすぎの時代』(岩波新書、2005年)の著者である森岡孝二が注目したのは、地球大の競争の激化に示されるグローバリゼーションや、情報化社会における情報通信技術の発達、消費社会における利便性の徹底した追求、新自由主義の改革がもたらす労働の弾力化、そして最後に従業員重視から株主重視の経営への転換であった。きわめて包括的かつ興味深い指摘であろう。
筆者のような視野の狭い人間が付け加えることなど特にはないが、敢えて一言だけ言えば、新自由主義の改革が労働の弾力化をもたらしたことは言うまでもないが、彼が指摘しているような現代資本主義の構造的とも言える変貌のすべてが、自由な「市場」を指向した新自由主義と深い関わりを持ち、また、そのすべてが労働の世界に大きな衝撃を与え、労働者の働き方を変えてきたことに注目すべきであろう。そうした衝撃がわが国において生み出したものこそ、いささか三題噺めくが、非正社員の増大であり、成果主義賃金の導入であり、労働組合の組織率の低下であったと言ってよい。日本的経営における「三種の神器」と言われてきたものの大きな変貌である。
だが、われわれが今肝に銘じておかなければならないことは、労使関係における「階級妥協」のあり方もそしてまた「社会」のあり方も、ともに双方向に可変的だということである。今更のように、そうした言わずもがなの原理や原則を持ち出すのには訳がある。新自由主義の改革は、長期雇用慣行や年功重視の賃金の維持を「時代遅れ」の「空理空論」であり、「無理難題」ででもあるかのように描き出し、その一掃を主張してきた。そうしたこともあって、世の中の常識を疑い批判することで注目を集めてきた「識者」の間にも、それこそ大した疑問も抱かずに、今後は終身雇用や年功賃金を維持することは難しいなどと述べて、新自由主義の改革が描き出す「常識」に大人しく従っているようにも見えるからである。
しかしながら、きわめて興味深いことに、普通の労働者の多くは、非「常識」にも長期雇用慣行を支持し年功賃金を擁護しているのである。しかも、近年その支持率が上昇し続けてきていることが注目されよう。第7回の「勤労生活に関する調査」(労働政策研究・研修機構、2016年)によれば、終身雇用の支持率が87.9%、年功賃金の支持率が76.3%で、いずれも過去最高の水準となっているのである。非正社員の増大によって雇用が不安定化したり、成果主義賃金の導入によって生活が不安定化していることに対して、人々は明らかに不安と不満を抱き続けており、問わず語りではあれ、結果として新自由主義の改革に懐疑の眼差しを向けているようにも思われる。
普通の労働者が、雇用や労働条件に関して「保守的」であったり「現状維持」を望んだりすることを、嗤うべきではない。雇用に大きな不安がなく将来にわたって仕事を継続出来る見通しが持てること、セニョリティが重視されて、勤続が評価の対象となった右上がりの賃金カーブによってそこそこの生活が保障されること、こうしたことを「公正」なものとして期待するのは、普通の労働者にとってはごく自然な成り行きだからである。さらに付け加えておけば、こうした願望は何も日本の労働者にだけ見られるものでもない。
リーマン・ショック前の10年程の間に、一方では雇用者報酬が11兆円も減少していたのに対して、他方では配当が7兆円、企業貯蓄が16兆円も増大しただけではなく、富裕層への減税がたびたび繰り返されてきたし、その後も、長期にわたって実質賃金が低下・低迷したにも拘わらず、企業の内部留保が過去最高の406兆円(2016年度「法人企業統計」)にまで達するという事態も生まれた。度重なるこうした「不都合な真実」の累積こそが、普通の労働者の不安と不満を醸成してきたのであり、労働と生活の安定への願望が、終身雇用慣行と年功賃金に対する高い評価を生み出しているようにも思われる。
こうした現実がある限り、格差と貧困に彩られた社会から平等や保障を重視したオルタナティブな社会へと向かう可能性は、依然としてあると言うべきだろう。持続可能な労働と生活への執着、そして格差と貧困によって「士気喪失」と「動員不能」に見舞われ、ディス・エンパワーメントされた人々への共感、それらを土台とした包摂する「社会」の再生こそが、今われわれに求められているものなのではなかろうか。新自由主義の改悪がもたらした帰結、そしてそこから導かれる新たな可能性、そうしたものを凝視することが必要であろう。