ジム通いの日々(下)

 そこで、正月明けに早速ジム探しに出掛けてきた。2つのジムを見に行ったのだが、施設も会費もまちまちである。年金暮らしの年寄りが今更あまりにも立派なジムに行ってみても仕方がなかろう。当然ながら安い方にした。自宅から自転車で12~3分のところにあるのも魅力的だった。近くにあれば通いやすいし、継続しやすい。日曜日にも夜にもジムには行かないから、そうなると会費はさらに安くなる。知り合いの紹介だということで、半月分の会費も割引となった。入会金もキャンペーン期間なので無料だとのこと。どの業界もそうなのであろうが、ジムもまた会員の獲得競争が激しいのかもしれない。

 私が入会したジムは、少し女性が多いようだが、男性も結構いる。私の出掛ける時間帯に若い人がいないのは当然なので、周りは中年から高齢者ばかりである。結構なお年寄りのように見受けられる人もいる。そして皆が皆熱心にトレーニングに励んでいる。この私までもがジムに行くぐらいだから、自分の身体に気を配り健康寿命を延ばしたいと考える人が、世の中には結構多いのであろう。これまでそんなことにまったく無頓着だった私の方が、変わり者だったのかもしれない。 

 会費が安い方のジムだとはいっても、マシンやスタジオやプールやシャワーなどは当然ながら完備している。それどころか、3人は優に入れる風呂もあり広めのサウナもある。何とも申し分ない。そんなわけで、ジムに行った日は家で風呂に入る必要がなくなった。余計なことなど考えずに身体を動かして汗を流し、一風呂浴びるとなかなか爽快である。家から近いので、思い立ったらすぐに出掛けることができるのがいい。午前中はブログを書くためにパソコンに向かい、午後からジムに出掛けるというパターンが自分には向いていそうである。週に3日ぐらいは行くつもりなのだが…。

 一月の初旬に入会したのだから、今日で2ヶ月が過ぎたことになるが、飽きたり嫌になったりする気配は、今のところない。それどころか、家人には「頑張りすぎて無理しないように」と注意されるほどである。「年寄りの冷や水」となっては元も子もない。マシンを使って一人で身体を動かしたり、プールでのんびりと泳いだりするのは、自分のように群れることが苦手な人間には案外向いているのかもしれない。それに比べると、スタジオでのエクササイズは肌に合わない。音楽に合わせた速い動きについて行けないからである。恥ずかしがり屋で照れるためなのか、いつももたもた、ふらふら、ばたばた、ぐらぐらしてしまう。向いていないものを無理にやる必要もなかろう。

 このところ日々のトレーニングが徐々にパターン化してきた。まずはウオーキングを20分、そしてエアロバイクと呼ばれている自転車こぎを20分やる。ただ動いているだけでは飽きてしまうので、スマホを持ち込んで「午後のジャズ」などを聞きながらやっている。テレビもあるが見る気がしない。それが終わると、コーチが私の要望を聞いたうえでアドバイスしてくれたマシンを5種類ほど動かす。負荷の量は自分で決められるから、あまり無理のないレベルにしている。

 ジムに着いて運動着に着替えシューズを履くと、何となく気持ちがシャキッとしてやる気になる。運動自体はその気になれば家でだってできるはずだが、ジムに行けばやはり気構えが違ってくるからであろう。私のようなずぼらな人間には向いているのかもしれない。周りに運動している人がたくさんいるから、ついついその気にさせられることもあるだろう。あちこちに鏡があるので、時折自分の姿を映して姿勢を眺めてみる。

 しかしながら、見えてくるのは姿勢だけではない。何とも奇っ怪な姿が映っている(笑)。筑波山麓に棲息する蝦蟇(がま)は自らの醜い姿に脂汗を流したようだが、この私もまた鏡に映る奇っ怪な姿を何とかしようと、身体を動かして汗を流しているわけである。ジムで全身を眺めるだけではなく、年老いた自らの顔をじっくりと眺めたりもした。

 ところで、顔の話から思い付いたことではあるが、多くの画家は自画像を描いたのに、写真家が自分の顔写真を撮らないのは何故なのだろう、ふとそんなことを考えた。写真にもセルフポートレートというものがあり、これは自画像ならぬ自写像(あるいは自撮り)ということになるのだろうが、両者の趣はまったく違う。写真愛好家の撮ったセルフポートレートなどを見ていると、どこかに自己愛の匂いが感じられる。

 もっと奇っ怪な自写像があってもいいのではないか。禿げあがった頭、額や眉間に刻まれた皺、窪んだ目とその下のたるみ、あちこちにシミの浮き出た頬、そのいずれもが「老い」というものをリアルに感じさせ、さらにはその人物の「人生」というものを浮かび上がらせるのではあるまいか。それを凝視したときに、初めて画家が描いた自画像の境地に近付いていくのかもしれない。ただただ綺麗なだけの写真から意識的に離れようとしている自分がいることに、改めて気が付いた。