処暑の岡山・倉敷紀行(六)-水島の公害に挑んで(下)-
今回の水島を巡る研修では、みずしま資料交流館(あさがおギャラリー)を訪ねて、福田憲一館長からレクチャーを受けた。話のタイトルは、「『一医療従事者』が取り組んだ『環境問題』の経験から~患者の想いに寄り添って~」となっていた。彼は1977年に倉敷医療生協水島協同病院に職を得て以来半世紀近くにわたって水島の公害問題に取り組み、まさに「患者の想いに寄り添って」来られた方である。
話を聞きながら、そんなふうにして生きてこられた福田さんの人生を思った。「地の塩」や「世の光」のような存在だとでも言えばいいのか。コンビナートが広がるなかでの水島の劇的な変貌振りは、50年に渡って水島を撮影してきた高田昭雄の写真集『水島の記録 1968-2016』(みずしま財団、2016年)に的確に写し撮られている。
1983年から始まった倉敷大気汚染公害訴訟の最大の争点は、患者の疾患が被告企業の排出した大気汚染物質によるものかどうかということだった。詳しくは触れないが、話のなかで被告企業が証拠として提出した「症例検討」なるものの実態が福田さんから紹介された。権威ある医学者たちの検討のその杜撰さに、聞いている私も驚き呆れた。原告の患者を診ている水島協同病院の医師に対する、軽侮もあったのだろう。最終的には、主治医の医師としての矜持が医学界の権威主義を打ち破り、94年の地裁判決では、原告全員が被告企業から排出された汚染物質によって発症したと認定された。全国の大気汚染裁判では初めてのことだという。
時代遅れで旧いタイプの私のような人間は、社会認識もステレオタイプなままなので、1996年に公害訴訟が和解に至ったところまで記せばそれでいいのかとも思ったが、この倉敷公害訴訟において特筆すべきことは、その先にもあった。もう少し強調して言うならば、その先にこそあったと言うべきなのかもしれない。和解を踏まえ、地域の環境を改善していくために、解決金の一部を基金として2000年に「みずしま財団」(正式名称は、水島地環境再生財団)が誕生したからである。そして財団は、2018年には環境学習を推進するために、「水島滞在型環境学習コンソーシアム」を立ち上げるのである。
コンソーシアムとは、互いに力を合わせて目的を達成しようとする組織や人間の集団のことをいうが、このコンソーシアムは、倉敷市、倉敷商工会議所、 岡山大学、 地元企業、 そしてまちづくり団体などが協力し合い、水島を平和・公害・環境学習のフィールドとして活用するための円卓組織として作られたのだという。「持続可能な開発目標」(SDGs) の達成に向けて、 水島の環境や歴史的背景を活かしながら地域社会の発展と環境保全に貢献しようとしているのである。
こうした動きは、これまでの対立・要求・陳情型の住民運動の活動スタイルから、協働・参加・学習型の住民運動の活動スタイルへの転換であると言ってもよかろう。分かりやすく一言で言うならば、「環境再生のまちづくり」が重視されることになったのである。住民が「まち」を「つくる」のである。ここに見られるのは、公害裁判終結後の新たな社会認識の広がりであり、新たな社会創造へ向けての旋回なのではあるまいか。では、何がこうした動きを生み出したのであろう、私としてはそこに興味が沸く。
その辺りのことを掘り下げているのが、みずしま財団理事長の石田正也が監修し除本理史(よけもと・まさふみ)・林美帆編著の『「地域の価値」をつくる』(東信堂、2022年)である。本書のはしがきで、編著者の二人は、これまでの先行研究である布施鉄治編著 『倉敷水島/日本資本主義の展開と都市社会ー繊維工業段階から重化学工業段階へ :社会構造と生活様式変動の論理』 (全3冊、 1992年) や先に紹介した『サステイナブルな地域と経済の構想』などを踏まえたうえで、次のようなことを指摘している。
そこで強調されていたのは、「『困難な過去』に向き合い『地域の価値』をつくりあげること、それを通じて地域の将来を展望することの重要性」である。別な言い方をすれば、「深刻な公害を経験した水島は、そのことによってむしろ将来の問題解決にむけた潜在力を蓄えてきた」のではないかとの、新たな評価軸の設定である。ここでは、「困難な過去」に向けられた眼差しが反転しているように思われる。
「困難な過去」が「困難な過去」のままに放置され、現実の社会から切り離されていくならば、それは「語りたくない」あるいは「語られたくない」過去として隠蔽されて、その結果風化していかざるをえないだろう。しかしながら、「困難な過去」への向き合い方如何によっては、それが「地域の価値」の新たな創造へと結びつく潜在力を持つというのである。先に紹介した高田の写真集のはしがきには、財団名で「私たちは、この写真集に期待しています。水島に暮らし、働く人にとって、地域の歴史とともに、懐かしい記憶を思い出すことを。学びたいと思う若い人々が、時間軸で地域の変遷や人々の行動を考えることができることを。水島の記録を次世代につなぎたいと思います」とあった。
こうした新たな社会認識の萌芽は、実は布施鉄治編著の著作のなかにもわずかながら見られた。あまりにも大部の著作なので、何処にあるのか見つけるのに一苦労する。とてもすべてを読み切るほどの元気はないので、それぞれの巻に置かれた序や結、それに第3部の総括部分にのみ目を通した。気になった叙述は、編者の布施鉄治が執筆した総括部分にあった。
私はそこに登場している「倉敷市の文化は、旧倉敷にある”美観地区”のみではない」との一文に強く心引かれた(この私は、もしかしたら「水島を美観地区に!」といったスローガンも面白いのかもしれないなどと、勝手に思ったりしたのではあるが…)。ここに示された萌芽を育てつつあり、水島に新たな文化を創造しようとしているのが、「みずしま財団」なのではあるまいか。折角だから、先の著作から気になった部分を引用しておこう。何とも興味深い文章である。
この倉敷地域社会には、水島重化学コンビナート造成に伴い、広汎な公害がもたらされた。それに対する反対運動はい ろいろな形で生起した。 公害病患者の社会的救済を除いて、現段階では、公害発生源の有毒ガスの “総量規制〟によって、一応の決着に成功しているといわれる。この公害防止のためには、広汎な形での科学的・創造的・人間的英智が動員された。公害問題は、まだ最終的な決着がついたとはいえないが、地域住民各階層は、こうした地域ぐる みの 公害反対闘争をすでに体験していることを忘れてはならない。
地域住民各階層の日々の生活の中で現実的に作りつつあるもの、定着しつつあるもの、創意的なもの、”文化の形”も吸 い上げることが必要であろう。その意味で地域住民各層が日々の生活の中で創りつつあるものを広く吸い上げ、一つの造形にする営為も必要となろう。倉敷市の文化は、旧倉敷にある”美観地区”のみではないのである。この地域社会の中には、すでに史的に評価の定まった数々の文化遺産もある。 その上に現在つくりつつあるもの、これを現実の 生活を生き抜く地域の人々の現実の生産・労働・生活の姿として、文化として定着することが何よりも必要となるであろう。
(追 記)
「困難な過去」は公害にだけ現れているのではない。先のコンソーシアムのパンフレットには、研修のためのコースが8つ紹介されており、その中の一つに「平和と多文化共生について学ぶ」と銘打たれたコースがあった。その概要欄には、「水島には岡山県最大級の戦争遺跡・亀島山地下工場があります。軍用機の製作所が空襲を避けるために作られた秘密の工場です。工場を掘ったのは朝鮮人労働者です。戦争遺跡を体感し、平和と人権の大切さを学びます」とあった。もう少し詳しく知りたいと思ってあれこれ探していたら、今回の研修で受け取った資料の中に『水島メモリーズ(朝鮮学校編)』があった。薄いパンフレットだが中身はたいへんに濃い。そこに「水島と朝鮮人労働者」と題して、大要次のようなことが記されていた。
水島は、1943(昭和18)年に操業を開始した三菱重工業水島航空機製作所のためにつくられたたまちである。東高梁川の廃川地に社宅がつくられ、埋め立て地に工場が建設された。この工場造成のために、日本が植民地として支配していた朝鮮半島から労働者が集められたのである。「軍都水島」とも言われるように、三菱重工業水島航空機製作所では海軍のために爆撃機や戦闘機が製造されていたが、戦争末期には、空襲に備えて工場の疎開先として亀島山に地下工場がつくられることになった。また王島山の麓には、1944(昭和19)年11月に倉敷海軍航空隊が開隊されて、予科練教育が行われたという。この予科練養成所や亀島山地下工場の土木建設工事を担ったのも、朝鮮人労働者であった。こうした背景から、水島が岡山県内で在日コリアンのもっとも多い地域となったようだ。
在日の人々は、戦後働く場所を求めてとんちゃんやホルモン食堂を開き、今もなお多くの店が焼き肉屋として残っているとのこと。私はとんちゃんという言葉を今回初めて知った。豚ちゃんかと思っていたら、韓国語で腸のことだった(笑)。受け取ったチラシの中には「水島焼き肉マップ」まであり、地域おこし協力隊として活動する若者のプロフィールも紹介されていた。我々の調査旅行のために事前の学習会でわざわざ報告の労をとってくれた藤原園子さんや、当日案内役として我々に付き添ってさまざまな質問に的確に答えてくれた塩飽(しわく)敏史さん(ともにみずしま財団の若い研究員の方である)を囲んで、焼き肉屋でビールでも飲みながら水島の未来について語り合うことが出来たら、どんなにか愉しかったことだろう。私が勝手に思い描いた晩夏の夜の夢である。