盛夏の北海道アイヌ紀行(八)-帯広から釧路へ-
帯広では、馬の資料館を見た後帯広百年記念館にも立ち寄った。この記念館は広々とした公園の敷地内にあった。ここで注目すべきは、開拓当時の様子が詳しく紹介されていたことであろう。この私でさえ先人たちの並大抵ではなかった苦労が偲ばれたぐらいだから、十勝の人々はこの記念館に足を運んで、きっと辛酸を嘗めた昔を懐かしんだに違いなかろう。そしてまた、あらためて郷土愛を噛みしめたのかもしれない。ではどんな人々が十勝に足を踏み入れ、開拓に向かったのであろうか。受付で入手した『十勝開拓日記』と題したパンフレットには、おおよそ次のようなことが書かれていた。
1896(明治29)年の移住者受け入れ以降、翌年に北海道国有未開地処分法という入植をうながす法律ができたこともあって、本州から入植者が続々とやってきた。彼らは、道庁から土地の貸下げ(かしさげ)を受けて開墾し、一定期間の後に正式に土地を所有することができた。移住のパターンは3つあったという。同郷の人々が規約を作って入植する 「団体移住」、個人で移住する 「単独移住」、土地を持たず大農場で働く小作人としての移住、この3つである。
役所に申請せずに勝手に開拓を始める人もいた。こうした入植を「無願開墾」といい、当時の調査官は、「実のところ『無願開墾』の人々が一番熱意があり十勝開拓の中心的存在」であったと記録している。1883(明治16) 年に依田勉三(よだ・べんぞう)の率いる開拓団体晩成社が静岡県から入植したが、十勝内陸部に一定の計画性を持って集団で入植した初めての事例だという。晩成社の主導者であった依田は、帯広・十勝の先駆的な開拓者として知られているとのこと。晩成社は当初、行政の許可を待たずに開拓を始めるのだが、その後、 区画測量中の道庁職員と交渉するなかで所有地の内定を得て土地の取得に成功するのである。
以上が帯広・十勝地域の開拓の概要であるが、こうした入植、開拓、土地取得、そして成功と発展の物語は、先住民族であるアイヌの立場からすれば、自らの暮らす静かな大地を失う過程でもあったわけで、勿論ながら素直に喜べるようなものではなかったであろう。そこには、開拓者の「幾多の困難」に立ち向かった「パイオニア精神」を称揚するだけではすまないものがあったはずである。帯広百年記念館にそうした視点があったかどうかは、私には分からなかった。「百年記念」という名称から察するに、おそらくかなり弱かったのではあるまいか。見学に飽きてしまった私は、館内に置かれた堂々たる裸婦像を眺めてから、公園の散策に出て写真を撮った。北海道らしく樹木豊かで静かな公園が広がっており、白樺林のなかに一人佇んでみた。
翌日は、午前中にビート資料館を見学し、池田ワイン城にも立ち寄った。この日の空はすっきりと晴れ渡っており、ワイン城からは北海道の広々とした景観が堪能できた。実に素晴らしい眺めである。私のような人間には、畑に何が植えられているのかなど知る由もないが、その緑があまりにも眼に鮮やかである。こうしたところで撮る写真は月並みなものにしかならないことなど頭では分かっているのだが、それでもついついシャッターを押してしまう。その後釧路市湿原展望台に向かったのだが、ここもまた実に眺めのいい場所であった。視界を遮るものが何もない。湿原に立つ展望台も、小振りだが美しい姿を見せていた。
次の目的地は釧路市立博物館であった。この建物の外観は、通常の博物館とは違ってなかなかユニークな作りであった。学芸員の方が展示物を説明する前に博物館の姿形について解説してくれたのだが、それだけの価値は十分にある。この博物館は、 道東屈指の歴史と規模を持つ総合博物館として、釧路の豊かな自然とそこに育まれた歴史・文化を幅広く展示しているとのことだが、私が気になったのはそこではなく、建物のデザインであり玄関前に立つ彫刻の方である。まずは彫刻の方から紹介してみる。作者は本郷新であり、「朔北(さくほく)の母子像」と名付けられていた。朔北とは珍しい表現だが、北方の地のことである。清楚で優美な作品であり、広々とした玄関前によく似合っていた。
次に建物であるが、これを設計したのは釧路出身の異色の建築家毛綱毅曠(もずな・きこう)である。私は建築に関して何の知識も持ち合わせていないので、初めて聞く名前だった。姓も名もともにたいへん珍しい。この釧路市立博物館と釧路市湿原展望台のデザインによって、彼は1985年に日本建築学会賞を受賞している。楕円形の円盤を階段状に積み重ねたデザインは、博物館が位置する春採(はるとり)台地の等高線をモチーフにしており、垂直の背面は太平洋に面する釧路段丘の海食崖(かいしょくがい)を表し、ドームを中央に配した左右対称の造型は、タンチョウが両翼を広げた様子をイメージしているとのこと。
全体のデザインからは寺院や古城が連想されるような作りである。博物館の内部も独特である。3層にわたる展示室は、過去と未来、自然と歴史を象徴する2つのらせん階段で相互に結ばれ、秩序だてられている。外観だけではなく内部に関しても、建築家毛綱の設計思想が貫かれているのである。そんな風変わりな博物館の展示を眺めていたら、そこにシャクシャインの叛乱後に松前藩の商場知行制が場所請負制に変わっていった話が紹介されていた。その移行が、アイヌをさらなる苦境に陥れることになる。博物館で入手した『展示ガイドブック』や湿原展望台の売店で入手した『釧路昔むかし』(釧路新書、1989年)などをもとに、近世の釧路の姿を紹介してみよう。
17世紀のなかばには、釧路川河口付近に松前藩の交易所(クスリ場所と呼ばれた)が設けられ、松前藩とアイヌの人々との交易が行われていた。その後18世紀の後半にはクスリ場所における交易は松前藩から請け負った商人が行う場所請負制へと移行していった。クスリ場所は、ニシン、 コンブ、 サケの漁場として栄え、コンブは清国まで運ばれるほどだったという。蝦夷地東部を直接支配した江戸幕府は、北辺警備の必要が高まったことから、各地を結ぶ道路の開削に力を入れたために、釧路は交通の要衝ともなった。また、1854(寛政元)年に日米和親条約が締結されたために、箱館 (函館)に立ち寄る外国船に供給する石炭が必要となり、その石炭がクスリに次いでシラヌカで掘り出された。北海道で初めてのことである。このように、江戸時代の釧路は漁業・交易・交通の中心地であった。
ここで問題となるのは、商場知行制から場所請負制への移行が何をもたらしたのかということだろう。商場知行制においては、知行主たる松前藩の家臣たちが蝦夷地の商場に繰り出してアイヌと直接交易を行っていたのであるが、18世紀に入ると彼らはアイヌとの交易を和人の商人たちに請け負わせ、運上金のみを手にするようになるのである。これが場所請負制であり、請け負った商人たちは場所請負人と呼ばれた。こうした仕組みができあがった背景には、アイヌとの交易が複雑化して、武士の手には負えなくなったことも一因であったろう。松前藩の武士たちは、不慣れな交易によって収益を上げるよりも、もっと手っ取り早く確実に現金を手にしたかったのである。
当初場所請負人に任されたのはアイヌとの交易だけだったが、その後請負人たちはアイヌや和人を労働力として使用して、生産活動にまで手を広げるようになった。場所請負人にとっては、運上金を超える利潤を生み出すことが目的であり、一攫千金のためには手段を選ばない利益の追求が行われるようになっていく。本州から来た商人たちの金銭への執着は、松前藩の家臣たち以上であったようである。利益の追求のためには、交換比率を自らに有利となるように勝手に変更したり、値の安い粗悪品と交換したり、あるいは労働力として酷使・虐待することなどもごく当たり前に行われた。
何故そんな事態が生まれてしまったのか。シャクシャインの叛乱が鎮圧されて以降、アイヌは力では和人には勝てないことを身をもって知らされたからである。さらには、アイヌ自身も和人との交易を通じて生計を立てざるをえなくなっていたこともあったろう。場所請負人に逆らえば、生活が成り立たない状況が生まれていたのである。場所請負人は、こうしたアイヌの弱みを巧みにそしてまた徹底的に利用したと言ってもいいだろう。アイヌの女性たちが和人たちの慰み者とされることなど、日常茶飯の出来事となっていく。しかしながら、こうした屈辱的な事態がアイヌの人々の恨みを買わないはずはない。その恨みが、近世最後の大蜂起となった1789年のクナシリ・メナシの闘いを引き起こすのである。クナシリは現在の国後島のことであり、メナシは対岸の地方のことである。
話を現在の釧路に戻してみよう。暇に飽かせて調べていたら、我々がこの日の夕刻に訪れた釧路フィッシャーマンズワーフMOOも毛綱毅曠の設計によるものだとのこと。ここは弊舞(ぬさまい)橋の袂にある大きな飲食・商業施設であり、内部には庶民的な店が立ち並ぶが、外から見るとなかなかに斬新な外観である。施設のネーミングもなかなか興味深い。フィッシャーマンズワーフとは漁師の波止場という意味であり、MOO(ムー)はMarine Our Oasisの頭文字をとった造語で、海は私たちの憩いの場だという意味だった。
弊舞橋には、4人の著名な彫刻家が制作した四季を現す裸婦像が4体建てられている。よく知られていることだろう。堂々たる橋に立つ何とも優美な姿である。13年前の2011年2月にも社会科学研究所のグループ研究で釧路を訪れたが、その際にも裸婦像を眺めた。その時には、前日に降った雪が朝日に映えて、彫刻の美しさを際立たせていたが、今回のように、曇り空の夏の夕暮れに眺めるのも悪くはない。北海道はもうすぐ晩夏の季節へと移っていくのだろう。そのためなのか、一抹の寂しささえ感じられた。