この一年のブログ暮らしから
毎年この時期になると、「敬徳書院」のことやシリーズ「裸木」の冊子のことについて何かしら書く。何故かと言えば、「敬徳書院」のホームページを立ち上げて「第二の人生」に足を踏み出し、「店主のつぶやき」欄に初めてブログを投稿したのが2018年の8月なので、私にとって8月は特別な月だからである。そしてまた、このブログの文章を元にして毎年作成している冊子が、私の誕生日を前にして9月初めには我が家に届くことになっているので、9月もまた特別な月なのである。繰り返し書いているように、ともに老後の道楽にすぎないのではあるが…。
何故道楽、道楽といつも繰り返しているのかと言えば、そうでもしないと、私が心密かに目指しているのが、どうでもいい文章を綴るたんなる雑文家であることを忘れそうになるからである。忘れれば何とも鼻持ちならない人間になりそうなので(もうなっているとの声もある−笑)、それを警戒しているのである。それに、こんなふうに思い定めていることが、ブログや冊子を続けていく秘訣のような気もしているからである。自称「女優」や自称「エッセイスト」の類いを、私はまったく信用していない。もしかしたら、雑文家も同じなのかもしれないのだが…。
これまでは、「敬徳書院」に関する話とシリーズ「裸木」の冊子に関する話をそれぞれ別々に書いてきた。しかしながら、毎年特記すべきことがあるとは限らないので、今年は両者を合わせて一文を綴ることにした。まずは「敬徳書院」の話から。今年の8月から7年目に入った「敬徳書院」であるが、ここまでの新規ユーザー数は11,000名を超えた。毎週毎週飽きもせずにブログを書き続けてきた賜物に、違いない。勿論ながら「チラ見」や「ちょいと見」のユーザーがほとんどであろうと思われるが、それにしても、6年前にここまでの数になるとは予想もしなかった。まさに想定外の事態であり、根が単純な私は驚くとともに素直にはしゃぎ廻ってしまった。ブログにもわざわざこんなことを書いて、今もってはしゃぎ廻っている次第だ。
とにもかくにも数だけは万の大台に乗せることができたので、これを機に、新規ユーザーの数を数えたりすることを止めることにした。ここまできたのだからもうそれで十分である、そんな心持ちになった。また、これまでのところ、毎週金曜日に2,500~3,000字程度の文章を投稿してきたが、シリーズ「裸木」が10号の終刊号まで刊行できたなら、その後はブログの投稿間隔をもっと空け、また字数もかなり減らすつもりである。年寄りなのだから、10日に一度ぐらいが丁度いいのかもしれない。今のところはたいした苦労もなく書き綴っているので、すぐにどうこうといった話ではないのだが…。
ブログに関して書くべきことは上記のようなことぐらいだが、今後大きな変化が生まれそうなのは冊子の方である。今号はシリーズ「裸木」の第8号となる。タイトルは『空と雲と風と』としてみた。私自身の自由への憧れを、このタイトルに託してみたのである。この先元気でいるようであれば、先に触れたように、当初の計画通り10号まで出してそれを終刊号とするつもりである。今回も例年通り三部構成とし、一部には日々の暮らしを切り取った情景描写を、二部には少し固めのテーマ性のある文章を、三部には調査旅行に関する紀行文のようなものを載せてみた。すべてブログに書いた文章を用いている。こんなふうにスタイルが決まっていると、冊子も案外作りやすいものである。愉しみながらゆったりと作業ができる。
今回変えたのは二つ。一つは印刷部数である。これまでは200部印刷して知り合いに贈呈していたが、それを250部に増やすことにした。何故そうしたのかと言えば、今年で年賀の挨拶を辞したので、これまで年賀状を送り続けてくれた律儀な方々には、この冊子を贈呈することにしたからである。こちらが勝手に送り付けるものなので、かえって迷惑がられるかもしれないのだが…。印刷費自体は200部刷ろうが250部刷ろうがそれほどの違いはない。増えるのは送料である。既に作成済みの送付先名簿に新たな送付先を付け加える作業も、それほどの手間を取ることなく完了した。
もう一つ変えたものがある。冊子の冒頭に風景写真を8葉入れたことである。前号は4葉だったから倍に増やしたことになる。春夏秋冬の4葉と調査旅行に出掛けた際に撮った4葉である。次号や次々号ではさらに増やすつもりである。こんなことを試みているのは、私が写真に興味を持ち、それが昂じて私家版の写真集を2冊も作成するまでなってしまったからである。ブログの「店主のつぶやき」欄にも、「私の写真帖」と題した赤い印のカテゴリーを設けて11集まで掲載した。「病膏肓(こうこう)に入る」とはこうした事態を指すに違いなかろう。
パソコンの前に座って、コーヒーでも飲みながらゆったりした気分で雑文を綴るのも至福のひとときであるが、カメラをカバンに放り込んで写真を撮りにふらりと出掛けるのも結構面白いものである。出掛ければいろいろな発見がある。これからは、少し遠出して、同じ場所で定点観測ならぬ定点撮影なども試みてみようかと考えている。旨いものが食べられて、ついでに温泉にでも入れるようであれば申し分ないのではあるが…。今頭に浮かんでいるのは、三浦海岸や真鶴半島、奥多摩、葉山、鎌倉あたりである。そんなことを考えているだけでも愉しい。
ところで、冊子を作るに当たって意外にたいへんなのは、校正作業である。追われるようにしてやるのは嫌なので、今回はかなりゆとりを持って取り掛かった。勿論ながら、毎回見つかる校正ミスを何とかなくそうとの魂胆である。そこまではよかったのだが、7月から8月に掛けては暑さが本格化してくるので、作業を始めると直ぐに飽きてしまい睡魔が襲ってくる。富士には月見草が、そして年寄りには居眠りがよく似合っているのかもしれぬ(笑)。文章を読んでしまうと校正にならないので、文字を目で追わなければならないのだが、それがあまりにも単調な作業なので嫌になるのである。いつもどうにかならないものかと思うのだが、自分の文章に手を入れるのだからこればかりは自分でやるほかはない。
先程、シリーズ「裸木」の冊子の作成は10号で終わりにすると書いたが、ではその後はどうするつもりなのか。今密かに目論んでいるのは、現在の冊子と同じ判型でページ数をもっと少なくし、前半は写真集、後半は雑文集といったものを、シリーズ物にして作ることである。世の中には、画文集といったものがあるようだが、それに倣って言えば、写文集とでもなろうか。フォトエッセイなどといった今風の洒落たネーミングもあるが、ハイカラすぎて私のような旧い人間にはまるで似合わない。写真を主にしたいので、おとなしく写真集「裸木」ぐらいにしておくのが身の丈に合っているのかもしれない。
年金生活者にとって気になるのは、何と言っても費用である。よく色男は「金と力はなかりけり」と言われるようだが、年寄も同じである(笑)。知り合いの写真愛好家から聞かされたこともあって、写真集を作るには結構な費用がかるのではないかと案じていた。しかしながら、現在冊子の作成を依頼しているYさんに調べてもらったところ、今の費用とそれほどの違いはなくできるとのことであった。そんなわけで、ますますその気になってきた。もしかしたら、この暑さで妄想が暴走して狂騒状態になっている可能性がなきにしもあらずなので、もう少し涼しくなってから再度考えてみなければなるまい。それにしても、こんな形で老後の道楽が続けられるのであれば、それに勝る幸せはない。
PHOTO ALBUM「裸木」(2024/09/06)
空と雲と風と(1)
空と雲と風と(2)
空と雲と風と(3)