定年前夜のこと(完)

 四 暮れから正月へ

 そのほかにも書き留めておきたいことがある。専修大学での教授歴が20年以上の教員であれば、余程のことがない限り、定年退職時に大学から名誉教授の称号が授与されることになっている。そんなわけで、特に辞退などしなければ、ひとりでに名誉教授となる。そんな流れに黙って身を任せておくのも無難でいいのかもしれないなどとも思ったが、退職後の身の処し方をあれこれ考えて、結局辞退することにした。辞退する人などは滅多にいないので、周りから「どうしたのか?」と直接あるいはメール等で尋ねられた。そんな問い合わせに書いた返事が以下のような文章である。自分の言いたいことがうまく伝わるかどうか自信はないが、私としては、その時の気持ちを素直に表現したつもりである。
  
 ところで、名誉教授の称号については、いろいろと考えた挙げ句辞退させていただくことにしました。何か嫌なことがあったために、拒否の意思を示そうとして辞退したというような、そんな代物ではまったくありません。昔からその気があるのですが、何かやらなければならなくなったらその時は全力でやるけれども、それが終わればすべて過去のこととして忘れ去って次のやるべきことに向かってる、そんな癖があるようなのです。そうしないと、どうも次の人生がうまく切り開かれないような気もしておりまして…。定年後は、〇〇さんをはじめ皆さんとは違って研究者の仕事を終えるつもりでおりますし、あとは好きな雑文でも書いて過ごそうかと思っております。暇にまかせて老後の楽しみとしてやるようなものですから、勿論たいしたものになるはずもないのですが…。そんなわけで、これまで大学との間にあった種々の「しがらみ」のようなものをすべて断ち切って、次のステップに進んでみようかと考えている次第です。どうにも勝手な振る舞いで、何だか皆さんに申し訳ないような気もしております。もちろん定年後も〇〇さんをはじめ友人の皆さんとは、個人としての交わりを続けていきたいと思っておりますので、今後ともよろしくお願いします。

 名誉教授の称号などそれほど特別なものではないのだから、黙ってもらっておけばいいのではないかといった意見も多かったが、自分としては、定年を機にこれまでの自分から脱して身軽になってみたかったのである。藤沢周平は「大石内蔵助の真意」というエッセー(『周平独言』中公文庫、1984年)で書いている。「大きな動きが必要なときは大きく動くが、何事もなければ小さく静まって、格別それを苦痛とも感じない。内蔵助はそういうひとだったようである。人物の幅が卓越して広い人間にのみ出来ることである」。きっと私も、できることならそんな幅の広い人間になってみたいなどと夢想していたのであろう。これからはますます「小さく静まって」いくことになるが、今の私には何の苦痛もない。

 そんなこんなでいささか開放的な気分になった所為もあったのか、12月15日にもたれたある忘年会に顔を出した際には、その後の二次会にも喜んで付き合った。二次会はまったく別世界に住む男三人となったが、それがかえって親密な会話をもたらした。話がいつになく盛り上がったのである。盛り上がったのはいいのだが、それがいささか過ぎてしまい、神田の「マキアベリの食卓」という店で飲み明かすことになってしまった(笑)。そんなわけで、始発の電車と始発のバスを乗り継いで「朝帰り」するような羽目に陥ったのである。年の瀬の迫る日の早朝、しらじらと夜が明けていくなかを帰宅した。
 
 「朝帰り」などというのは実に久し振りのことである。10年以上前にゼミのOB・OG会のあとカラオケに出掛け、終電を逃してこんなことになったことがあったが、それを除けば昔々の若い頃にまで遡る。その頃には、同性や異性と語り明かして何度か「朝帰り」をした。こちらは「若気の至り」である(笑)。こんな話をゼミ生にしたら、今は「オール」と呼ぶらしく(オールナイトの省略形なのか)、「オールとは先生若いですね」などと冷やかされた。今回の場合は文字通り「年寄りの冷や水」である。きっとこれが最後の「朝帰り」となることだろう。

 70歳を過ぎているのに「朝帰り」をすることになったのは、イタリアンの店の食べ物もワインも旨かった所為もあったかもしれない。その後20日にも神田で忘年会があった。早めに目的の場所に着いたので、時間を潰さなければならないこともあって、件の店を探し歩いてみた。どこかで気になっていたからである。しかしながら、あれこれ探し廻ったがとうとう見付けることができなかった。酔眼で他の人に付いて行っただけだと、なかなか同じ場所にはたどり着けない。痴呆も徘徊も近付いている証拠である(笑)。このブログを更新している今日は12月1日、もう師走である。「朝帰り」をした1年前のあの日が近付いてきた。

 年末には他にもさまざまな出来事があった。最後の講義には家族が顔を出してくれた。私は最後の講義もまったく普段と変わらずにやるつもりだったし、また、今日が最後の講義ですなどと感慨深げに語る気もなかった。さらには、わざわざ出向いてまで聞いてもらうような講義だとも思っていなかったので、家族には「来なくていい」と伝えておいた。しかしながら、朝早い一限の授業に大人四人が顔を出していたので、かなり驚いた。家族としては、長い間教員を務めてきた夫や父親の講義を、一度も聴いたことがないというのでは余りにも薄情だと思ったのかもしれない。そんなこんなで2017年は暮れ、新しい年2018年を迎えた。

 年が明ければ、期末試験があり、その採点があり、ゼミ合宿があり、種々の入学試験がありで、いつものように慌ただしい日々が過ぎていった。少し落ち着いてくるのは2月の下旬辺りからである。その頃、大学の広報課が毎月発行している『ニュース専修』の3月15日号に、二つの短い文章を書いた。一つは、退職する教員の一人として書いたメッセージであり、もう一つは、最後の研究書として専修大学出版局から刊行してもらった『「企業社会」の形成・成熟・変容』の紹介、宣伝文である。ともに広報課の田村さんから依頼を受けて書いたものである。

 「『見る目』が変わるとき」と題した前者から紹介してみる。「人気のお笑いコンビ『サンドイッチマン』のイントロではないが、世の中に興奮することはいっぱいあれど、教員が一番興奮するのは、入学してきた若者たちが、大学での生活を経るなか大きく変わる様子を目の当たりにするときだろう。変わると言っても、見目形の変化ではない。そんなことで私は興奮しない。興奮するのは、大学で学ぶことを通じてかれらの世の中を見る眼が変わったとわかるときである。変わるためには、大学で得たものを生かしつつ、大学の外に出る覚悟が求められる。言い換えれば、自分の足で大地に立ち、自分の頭でものを考え、自分の声を発しようと決意しなければならないのである。そうなって、初めて「社会知性」を獲得したと言えるのではあるまいか。『社会知性』なしには、『ちょっと何に言ってんだかわかんない』とか、『もういいぜ』などと言われかねない。専修大学が、いつまでも『興奮する大学』であり続けることを願っている」。

 短い文章にあれこれ盛り込もうとして言葉足らずのところはあるが、思いの一端を素直に書いてみた。もう一つの方は、自著の紹介、宣伝文なので、いささか面白みには欠ける。これもそのまま紹介してみる。「日本の民間大企業における労使関係が、企業が圧倒的に優位に立つ労使関係、あるいは、労働者と労働組合が企業に包摂、統合された労使関係であることは、よく知られている。本書では、こうした労使関係を基盤にして成立した日本社会を『企業社会』と位置付けながら、それがどのような歴史的経緯を辿って1980年代に成立したのか、そしてまた1990年代における成熟によって、わが国の働き方や雇用、賃金、労使関係がどのような特徴を帯びるに至ったのか、更には、その後の新自由主義の改革が、『企業社会』をどのように変容させたのかを明らかにしようとしている。昨今『働き方改革』なるものが大きな論議を呼んでいるが、その『深層』と『真相』を知るうえでも興味深い一冊である」。自らの著作を、本人が「興味深い一冊」と書く「興味深い」文章ではある(笑)。

 いよいよ3月に入って、3月6日には大学が開いてくれた定年退職者の慰労会があり、翌週の13日には、教員組合主催の「退職教員を囲む会」があった。この二つの会が印象深かったのは、そこで贈呈された慰労金やお祝い金が予想よりも多かったせいもあるかもしれない(冗談である-笑)。前者では、退職する教職員が色紙を書いてくることになっており、それが会場の片隅に飾られるのである。私は「三月の風と四月の雨が美しき五月をつくる」と書いて出した。美しい言葉である。イギリスの古い諺のようで、英語ではMarch winds and April showers bring forth May flowers.となる。そして、その次の週の20日には最後の教授会があり、教授会終了後には教職員食堂で学部の送別会が催された。教授会で退職の挨拶をするにあたっては、事前に話の中身を考えそれを頭に入れておいた。何の準備もなしに面白い話が出来るような才は、私にはもともとないからである。準備した挨拶は次のようなものである。

 とうとうと言うのかいよいよと言うのか、教授会の場で退職の挨拶をしなければならないことになりました。この間いろんな方からずいぶんたくさんの送別会を開いていただきましたが、そうした場である種の「引導」を渡されているうちに、退職の気分が頭だけではなく、身体全体に拡がってくるのを感じました。私は還暦を迎えたあたりから定年後のことを考えるようになり、前期高齢者になったあたりから人生の終末を思うようになりましたが、しかしそれらは、やはり頭のなかだけの観念的なものであったようで、具体的な実感とはほど遠かったように思います。特段の感慨などを感じることもなく、さらりと自然体で去ることができるのではないかと思っていましたが、やはりなかなかそうはいかないようです。外面はハードでドライなように見せていますが、内面はかなりソフトでウエットだからなんでしょうね。

 私は大学卒業後15年ほどこの生田校舎の近くにある労働科学研究所に勤め、その後1985年に専修大学に転職しました。私が38歳の時です。ですから、専修大学には32年間お世話になったわけで、随分と長い歳月が過ぎたものです。そんなに長い時間が過ぎたとはにわかには信じられません。その間私なりに教育と研究に力を注いできたつもりですが、悔いはないなどと断言できるほどの自信はありません。あれこれの悔いはいつも残るものなんだろうと思います。退職が近づいてきますと、そのこと自体が気力の衰えを自覚させますし、それに肉体的な衰えも加わって、この辺りが限度なんだなあとあらためて感じたりもいたします。

 先日大学が開いてくれた定年退職者の慰労会に顔を出してきましたが、そこには退職者全員が色紙を書いてきて出すんですね。ゼミ生向けの寄せ書きに何か書いたことはありましたが、色紙を書いたのは初めてです。ふざけて言えば、自分で書く「戒名」のようなもので、私は「3月の風と4月の雨が美しき5月をつくる」などと、品良く書いて出しました。最初は、「志の気高さと心ばえの美しさを求めて」などと書こうとも思いましたが、余りに気恥ずかしくなってそれはやめました。とてもそんな立派な人物でないことは、よくわかっておりますので。

 私はもともと「普通が一番」と思って生きてきましたが、それでも、常識を疑わない非常識な人や羞恥心のない厚顔無恥な人やただ明るいだけの脳天気な人を好んではいませんでしたので、ついつい余計なことを偉そうに言ってしまうこともあり、言った後で慚愧の念に駆られたことも多々ありました。ついでに言えば、セクハラまがいの発言もこれまた多く、こちらでもだいぶご迷惑をおかけしたことと思います。先日夜布団に入って恥ずかしきことの数々を数え上げていましたら、両手でも足りないくらいで、穴があったら入りたいと布団を被って潜りました。同僚の先生方のなかにも、きっと不快な思いをされた方もおられたはずです。この場を借りてお詫びを申し上げます。

 70歳を過ぎた私のような年寄りなどは、花も実も葉も落ちた枯れ木のようなものですので、次の若くて元気な新しい世代に交代するのは当然です。そんな気持ちになったこともありまして、定年後は研究活動に終止符を打つことにし、学会もすべて退会しました。これからは自由の身になって、「自分ファースト」で好きなことを好きな時に好きなようにやろうかと思っております。そんな人間が、退職の挨拶であれこれの訓戒を垂れるは愚の骨頂だろうと思いますので、やめておきます。

 最後になりますが、経済学部の再構築も最終版にかかっているようです。とりまとめの責任者である内山学部長を始め、新学科の責任者の方々にとって、いろいろと御苦労は多かろうと思いますが、そうした苦労の末に経済学部が「美しき5月」を迎えられることを願っております。「福祉と環境コース」の先生方を始め、同僚の先生方にも、そしてまた我々教員を長らく支えていただきました職員の皆さんにも、長い間たいへんお世話になりました。心からの感謝を申し上げて、私の退職の挨拶とさせていただきます。ありがとうございました。

 以上が最後の教授会での私の挨拶である。準備してきたことをこの通りに再現できたわけではないが、おおよそこんな話をしたのである。では送別会の方はどうか。こちらもある程度は準備しておいたが、酒が入る席でもあるし、退職者も4人と多かったし、本人だけではなく関係者からの送別の辞もあるので、きちんと話をする機会絵を逸してしまった。準備しておいた挨拶は次のようなものである。せっかくなので、そのまま紹介しておくことにする。

 送別会もいよよ最終版となりまして、残すは卒業式のあとのゼミ生との懇親と、週末の私的な会合だけになりました。暮れからこの3月にかけて実によく飲みました。普段の倍、いや3倍ぐらいは飲んだような気もします。体内のアルコール消毒の度が過ぎて、すっかり普段の毒気が消え失せてしまいました。ふざけて何人かの方には書きましたが、古希を迎えて足腰がこきこきし始めました。寄る年波には勝てませんね。目も歯もだめになって、元気なのは頭の中の妄想ぐらいです。まあこんな言わずもがなのことを言うからお叱りを受けるわけですが。

 ごくたまに、退職された先生の訃報が掲示されているのを見ることがありますが、そんなときにふと感慨深く思うのは、亡くなられた先生に最後に会ったのは、この送別会の場だったんだなあなどということです。退職後も何人かの先生とはあれこれのところで会うこともあろうかとは思いますが、ほとんどの先生方とはもう会うこともないでしょう。

 聞くところによると、鈴木さんや福島さんはもう少し研究活動を継続するということですし、徳田さんはビジネスの世界で大事な仕事が待っているということですが、先ほど教授会でも述べましたように、私は研究活動から足を洗うことにしました。そうしますと、ほかの先生方は別ですが、私に限っては、この場はある意味「生前葬」のようなものです。「生前葬」の場でのマナーできわめて大事なのは、言うまでもなく香典と弔辞です。偉そうに香典を出せなどとは申しませんが、弔辞では褒めて褒めて褒めまくっていただきたいものです(笑)。何とも図々しい話ではありますが。亡くなってから褒めていただくよりも、「生前葬」の場で褒めていただくと、70年の間にたまった煩悩も清められて、迷わず成仏できそうな気がします。勿論本心じゃなくても結構ですから(笑)。

 退職後は何をするのかとよく聞かれます。蓮実重彦さんのようにポルノ小説を書くという手もあるのでしょうが、私にはとてもとてもそんな文才はないので、好きな雑文でも書いてシリーズものの冊子でも出そうかと考えております。いつまで続くのかわかりませんが、自分としてはなかなか面白そうなセカンドライフのような気がしております。今日「生前葬」で褒めあげていただいた方には、そのお礼として只で贈呈させていただくつもりです。悪ふざけの冗談はこのぐらいにして、その続きの品のいい冗談は福島さんにお任せいたします。

 ここまでそれなりに元気に過ごせたのは、本当に皆さんのおかげです。素直に感謝しております。どうもありがとうございました。

 最後の教授会から一日おいて、翌々日の22日には卒業式が行われた。日本武道館での卒業式は、私にとっての卒業式でもあり、専修大学での文字通り最後の行事となった。定年退職者はゼミ生から花束を受け取り、大きな拍手に送られて会場をあとにする。その時、常務理事の富山尚徳さんが、壇上から私に手を差し伸べてくれた。私も素直に手を伸ばして彼と握手を交わした。この握手に込められた思いについても書きたいことはいろいろとあるのだが、そう簡単には書けない。だからこそ万感の思いが胸に迫った。彼もきっと同じような思いだったに違いない。控え室に戻ってしばし懇談していたら、そこに昔ゼミ生だった宮崎麻子さんが駆けつけてくれた。こうした振る舞いは、教師に対する思いやりの溢れた優しい女性にしかできない(笑)。

 卒業式のあと、最後となったゼミ生たちと会食し、別れ、帰宅した。この別れが、ゼミ生と教師やゼミ生どうしの永久の別れとなる可能性はかなり高いのだが、そのことにまだ若いゼミ生たちは気付いていない。受け取った大きな花束を花瓶に移し、一人でしばし眺めた。この日を境に、私は第二の人生のスタートラインに立った。

身辺雑記

前の記事

定年前夜のこと(三)
身辺雑記

次の記事

理事長奮戦中!