王禅寺から琴平神社へ
年が明けて、年賀状の代わりとなる新年の挨拶のようなものを書いたので、今回からいつものブログに戻ることにしていた。夏から秋にかけての年金者組合がらみの話を、のんびりと書くつもりで準備していたら、元日の夕方に能登半島で大地震が発生した。その後刻々と飛び込んでくる現地の惨状を目の当たりにして、正月気分はすっかり吹き飛んでしまった。能登には二度ほど家人と出掛けたことがあり、二度目の時にはレンタカーで半島を一周した。思い出深い地なので、とても他人事とは思えない。
極寒の下で、水や電気や食糧に加えてトイレも風呂も暖房も不足したままの、あまりにも過酷な避難所暮らしを余儀なくされている被災者の方々のことを思うと、いたたまれなくなる。あらためて心からのお見舞いを申し上げたい。政府は、被災地支援のために予備費から47億円ほど支出するとのことだが、それにつけても、万博会場に作られる木のリングに350億円もかけるというのであるから、その違いがあまりにも際立っていてもはや笑うに笑えない。こちらもまた、もう一つの日本の惨状なのだろう。
そんな状況だから、エアコンの効いた暖かい部屋で旨いコーヒーを口にしながら、ブログを綴る気にはなかなかなれないのだが、あえて気持ちを切り替えてみる。年金者組合のウオーキングに出掛けて、あれこれの話を書くのがいつものパターンであるが、その話は6月に出掛けた川崎市にある夢見が﨑動物公園で止まっている。組合は毎月ウオーキングを企画しているから、どこかには出掛けているのだが、11月に出掛けた王禅寺と琴平神社までは、ぽっかりと空白になっている。この間、大和市にある図書館を訪ねたり、川崎宿の探訪があったり、わたらせ渓谷鐵道に乗る日帰りの旅があったりしたのだが、さまざまな事情ですべて不参加となってしまった。毎回参加をモットーにしている私としては珍しいことである。顔を出したのは、8月に開催された年金者文化展のみである。
別に体調が悪かったりしたわけではない。こちらも夏にあちこちに出掛けることがあり、そのために不参加となったこともあるし、あまり興味が湧かなかったので参加を見送さったこともある。わたらせ渓谷鐵道には是非とも乗車して秋を愉しみたかったし、星野富弘美術館も眺めてきたかったのだが、こちらは手違いが重なってしまったために参加が叶わなかった。企画担当者に口頭で申し込んでおいたのだが、忘れられてしまったようだ。年寄りどうしの連絡は、口頭だけでは危ないし1回だけでも危ない。そんなことを思い知った出来事だった。
地元の年金者組合が毎年8月に主催している文化展には、今回も写真を3葉出品させてもらった。写真を撮ればやはりいろんな人に見てもらいたいとの気持ちが湧く。素人のくせに図々しいと言えば図々しいのだが…。今回は2回目となるので、随分と要領よく準備できるようになった。心掛けていたのは、年金者組合のウオーキングに出掛けた場所で撮影した作品を出品することである。わたらせ渓谷鐵道に乗ることができたならば、もしかしたらもっといい写真が撮れたかもしれない(笑)。
11月は久しぶりにウオーキングに参加した。しばらく休んでいたので、知り合いのFさんから「久しぶりですね」と声を掛けられた。出掛けたのは、川崎市の麻生区にある王禅寺と琴平神社である。この日もハイキング日和に恵まれた。恵まれすぎて汗ばむほどの陽気である。この日もと書いたのは、このところいい天気が続いていたからである。そのためかなかなか秋が深まらない。この季節だから、紅葉を愛でようとの思いだったのであろうが、既に散ったのか、それともこれからなのかがどうも判然としない。私としては紅葉にそれほどの関心はなかったので、まあどちらでもいいわけではあるが…。それよりも、自分なりの秋景色を撮ってみたかった.
あざみ野駅で待ち合わせた我々は、そこから新百合ヶ丘駅行きのバスに乗り、王禅寺ふるさと公園のある裏門坂で降りた。広々としたなかなか立派なそして落ち着いた公園である。多摩川をイメージした水辺、自然林を活かした散策路、富士山を眺望できる展望広場などがあった。ここでしばし休憩し自由行動となった。年金者組合のウオーキングは土日に企画されることが多いが、この日は珍しく平日だったので、公園は人影もまばらである。この秋を存分に堪能するために枯れ葉を踏みしめながらゆっくりと散策路を歩いてみた。
目的地の王禅寺は公園の隣に位置する。地元の観光協会の紹介によると、王禅寺は、「星宿山王禅寺と称し、真言宗豊山派にて、921(延喜21年)年に高野山三世無空上人が開山。関東の高野山と呼ばれていた。周囲には大きな樹木が茂り、この地を愛した北原白秋の歌碑がある。前庭には、樹齢450年と伝えられる禅寺丸柿の原木がある。これは『柿生』という地名・駅名の由来となったといわれている。2007(平成19)年に国指定の登録記念物になり、文化庁から贈られた登録証銘板が埋め込まれた記念碑が柿生禅寺丸柿保存会により設置された。また、川崎市選定『まちの樹50選』、『ふるさと麻生八景』にも選ばれている」とある。
東の高野山と呼ばれていたと言うことだから、古寺(歴史ある寺)でもあり名刹(名高い寺)でもあるのだろう。歴史ある名刹は古刹と呼ばれるようだから、王禅寺などは典型的な古刹と言うべきなのかもしれない。山門とそこの石段には歴史を感じたが、本堂の周りは少しばかり雑然としており、あまり古刹の雰囲気を感じにくかった。あれこれの記念碑が多すぎるので、そうなってしまうのであろう。ここにも日露戦争の戦勝記念と戦没者の慰霊を兼ねたような碑があった。案内人のSさんに、「こういう碑があちこちにありますね」と話しかけたところ、「戦争に勝ったものだから、調子に乗っていっぱい建てたんでしょう」との返事が返ってきた。
周辺をのんびりと歩きながら、次の目的地である琴平神社に向かった。途中にあった公園で昼食を摂ることになったが、朝食の遅かった私は昼食を持参しなかったので、その間写真の撮影に精を出した。昼食後歩き始めたら程なく琴平神社に着いた。ここでも、地元の観光協会の紹介を利用してみると、「琴平神社の地には、1570(元亀元)年頃神明社が祀られていた。その後、1826(文政9)年王禅寺村の名主、志村文之丞が讃岐、金刀比羅宮の分霊を勧請し神明社を合祀する。祭神は天照大御神、大物主神。旧御本殿は、2007(平成19)年6月御神体を安置する奥宮を残し火災により焼失。江戸時代の文人画家渡辺崋山が描いたと伝えられる天井の63枚の花鳥・山水画も焼失したが、2011(平成23)年6 月 本殿再建に合わせ復元され、歴史を伝えている」とのこと。
まだ再建されて間もないということもあって、旧きものの良さを見つけることはかなわなかったが、それはやむを得なかろう。琴平神社を眺めてからバス停に向かうことになったのだが、階段があまりにも急なので驚いた。ちょっと回り道をすれば良かったのだが、そうしなかったのがまずかった。体力が低下し、足腰が弱っているにも拘わらず、なかなかそれを素直に認められない自分がいる。ついつい強がってしまうのである(笑)。老いを自覚できないことが老いの始まりだとでも言うべきか。手すりを握って慎重に降りた。
バスでたまプラーザ駅に着き、そこで解散となった。帰りの電車が一緒だった高齢の女性から、あれこれと昔話を聞かせてもらった。50年以上も前の青葉台の様子である。農家には電灯がなかったところもあったようだし、電車の車両はたった2両で終点は長津田だったという。さまざまな公的書類は川和まで取りに行ったとのことだった。今では青葉台は田園都市線の沿線でオシャレな町として知られるが、当時は草木が生い茂る広々とした台地だったらしい。市が尾駅で降りて、駅構内にある蕎麦屋で遅い昼食を摂った。余り期待もせずにネギ蕎麦を注文したのだが、予想に反して旨かった。きっとかなり歩いて空腹だったからであろう。新年1月には、町田近辺の寺社巡りが予定されている。今から楽しみである。
PHOTO ALBUM「裸木」(2024/01/09)
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