真夏の出来事から(二)-展覧会を放浪して-

 

 この夏もあちこちに出向いた。正確に言えば出向くように心掛けてみた。あまりに暑いので外になど出たくないという気分は勿論あるのだが、もう一方では、家に籠もっているだけでは退屈だし身体にも悪い、そんな気もしたからである。退職前のことになるが、知り合いの教員から「退職したら教養教育が大事だ」と教えてもらったことがある。一瞬何のことかと訝ったが、「今日用」、「今日行く」のことであった。つまり年寄りは意識的に外に出ることが大事だという話である。語呂合わせにしてはうまくできているなあと感心した。外に出ないと、いつもいつもパソコンの前に座りっぱなしになりかねない。これではやはりまずかろう。

 教養教育の中身についてはこの後詳しく触れるが、では対となって使われる専門教育の方はどうだろうか。私は老後の道楽でブログ三昧の暮らしを続けているが、こんなものが専門と言えるのかどうかは疑問であろう。だが辞書を引いてみると、専門には二つの意味があって、ある特定の分野に関する研究や職業を指すのがひとつ。これは通常の使い方なのでわかりやすい。もうひとつは、一つのことだけで押し通すことで、「食い気専門」が例としてあげられていた。なるほどそんな言い方もするなあと妙に納得した。昔「ハゲ専」なる面白い言葉を聞いたことがあったが(笑)、この専は後者の専なのであろう。現在の私の専門教育は、言うまでもなく前者ではなく後者である。もっとも、押し通すと言えるほどの専門でないのは勿論なのだが…。

 そんなわけで、「専門教育」については今のところ体裁だけは整えることができているので、「教養教育」の方に話を戻してみよう。郵便局や銀行、区役所などに用事があったり、近くのスーパーやコンビニ、文房具店、ユニクロ、百均などに買い物に出掛けたり、あれこれの病院に通院したりするために外出することはよくある。最近私はプールにも通い始めたので、これなども似たようなものであろう。だが、こうしたものを「教養教育」とは呼びにくいのではあるまいか。「教養」とはほとんど関係がないからである。上記のような日々の暮らしに絡んだ外出を除いてみると、「教養教育」の中身は大分限られてくるのではあるまいか。

 この夏の私の教養教育としては、まず知り合いの方々が出品している美術関係の展覧会や年金者組合の文化展などに顔を出したことがあげられるだろう。そのために合計4回ほど外出した。まず、8月半ばに長津田駅の近くにある緑区民文化センターで開催された、年金者文化展に出向いた。去年初めて写真を3葉出品させてもらったことに味を占めて、今回も出してみた。去年はA4のプリントだったが、広い会場に飾ってみるといささかインパクトが弱いように思われたので、今年はA3に拡大してみた。大きくすると印象は大分違う。会場で自分の作品をじっくりと眺めるのもなかなか良い気分である。自己満足の極致とでも言おうか(笑)。

 中身は、去年と同じように毎月出掛けている年金者組合のウオーキングで撮ったものから選んでみた。そのうちの2葉は、今年作成した冊子『いつもの場所で』にも収録してある。タイトルは「屹立する裸木」(中山の大蔵寺にて)、「囚われた世界から」(都筑中央公園にて)、「地表に描く」(立川の昭和記念公園にて)とした。写真に凝るだけではなくタイトルにも少しはこだわったつもりである。ウオーキングに出掛けた際に、皆が見落としそうな所に美を見つけ、自分の心象風景を表現してみたかったからである。これまでは額装になど大してこだわってはいなかったのだが、やはり見せ方にも工夫が必要である。そんなことにも改めて気付かされた文化展だった。

 9月の初めには、同じ団地にお住まいの宮内淳吉さんの作品を見に、あざみ野アートフォーラムに出掛けた。ここでは毎年「モザイク展」が開催されており、宮内さんは夫妻でいつも出品されている。だから毎回見に行くのだが、今年はちょっと趣が違った。1階の会場はいつもの「モザイク展」なのでここには夫妻の作品もあったが、2階は宮内さんの個展会場となっており、彼の「モザイク・フレスコ展」となっていたからである。壁に直接描かれた大きなフレスコ画は、建物があれば残るが壊されればなくなってしまう運命にある。そうなると写真で見るしかない。現物も、見に出掛ければ話は別だが、離れた展覧会場であればこれまた写真で見ることになる。モザイク画にもそうしたものがある。移動が可能であることがごく当たり前の絵画とは大分違っているのである。

 こうした事情を考えると、個人の「モザイク・フレスコ展」などを開催することは、なかなか大変なことであるに違いない。80歳を優に過ぎた宮内さんが、よくぞ個展を開催するところまでこぎ着けたものである。私は常日頃彼に敬意を払っているので、初日の朝っぱらから会場に顔を出してみた。ご夫妻ともに喜んでくれたので、こちらもなんだか嬉しくなった。彼は、高齢にも拘わらず何時もすっきりした姿勢なので、とても若々しく見える。そしておしゃれである。口数は少なく人の話をよく聞いているし、物腰は柔らかで偉ぶったり奇を衒うこともない。

 しかしながら、ただ優しくて静かなだけではなく、飲み会の折などに寸鉄人を刺すような批評を口にすることもある。それを聞くのが私の密かな愉しみである。そんなわけで、高齢者はかくありたいと思わせるような人なのである。モザイク会議の初代議長でもあった彼のモザイク画やフレスコ画を見に行ったはずなのだが、私はその先に宮内さんという人物を眺めていたような気もしないではなかった。展示されていたのは小品が多かったが、それはやむを得ない。とても気に入った作品は、四季と題して春夏秋冬を描いた4枚のモザイク画であり、静物と題されたフレスコ画だった。それらには得も言われぬ柔らかさや温もりや静けさが感じられた。

 もう一つは、9月中旬に開かれた水彩画展である。ここにはやはり同じ団地に住む江幡正之さんが出品していた。江幡さんから案内状をもらったので出向いてみたのである。11人の水彩画を描く仲間の作品展である。私は知り合いから案内状をもらえば、大体は顔を出す。絵や写真が好きなので、出掛けるのはそうした分野に限られてはいるのだが…。江幡さんの作品を見るのは今回が2度目である。水彩画は柔らかで繊細で静謐なタッチなので、のんびりと眺めていると日頃の波立った心が落ち着いていく。見る方がそんな気になるぐらいだから、描く方もきっとさらにゆったりとした気持ちで対象に向かっておられるのであろう。気忙しそうにしている人間には、こうした絵は描けない。

 江幡さんは今回4点の作品を出品していた。どの作品も何時もの作品よりも大ぶりだったから、一昨年の作品とは違った印象を受けた。外で短時間のうちに描くことが多いためなのか水彩画は小品のことが多いが、今回はこれまでの殻を破って新たな挑戦を試みられたのかもしれない。4点のうちの2点は地元にある緑道に架かった橋を描いたものであった。私も散歩の際に時折見ている橋なので、それをどんなふうに描いているのかと興味深く眺めた。何だか懐かしい感じのする絵だった。水彩画の柔らかさがそんな気持ちにさせたのであろう。

 私は、これまでどちらかと言えば原色の色使いや鋭い描線の絵を好んできた人間なのだが、この年齢になってみると、モザイク画やフレスコ画や水彩画の良さも身に染みるようになってきた。妙な力みがないところが何とも心地よいのである。江幡さんの水彩画を見に行った帰りに、ビルの谷間にあった巨大な造形作品を見た。妙に気になったのでカメラに収めてみた。帰宅してからプリントしてみたら、なかなか面白いものが撮れていた。「混沌とした未来へ」などと題して出品してみるのも、悪くはないのかもしれない。外に出れば必ず何かしらの発見がある。「教養教育」の意義はそんなところにあるのではなかろうか。 

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2023/10/13

宮内淳吉 「四季 春」

 

宮内淳吉 「四季 夏」

 

 

宮内淳吉 「四季 秋」

 

宮内淳吉 「四季 冬」

 

江幡正之 「緑道に架かる橋 Ⅰ」

 

江幡正之 「緑道に架かる橋 Ⅱ」

 

 

混沌とした未来へ