(続)騒がしきことなど-その後の松竹問題雑感-(上)  

 前回のブログでせっかく何時もの調子に戻ったはずだったが、またまた面倒な話に触れなければならなくなった。私のこれまでのブログに対する基本的なスタンスが崩れそうなので、何とも気が重いのであるが、大事な話なのでやむを得ない。見て見ぬ振りをして沈黙を決め込むのは、もうやめにしたからである。私のことだから、前回同様あまり面白くもない話に終わりそうな気もするが、どうかご了解願いたい。私はこのブログで、「騒がしきことなど-松竹問題雑感-」と題して、例の松竹伸幸さんに対する除名処分に関し3回に渡って触れたことがある。今年の3月のことである。

 そしてまたその続きのような思いで、大塚茂樹さんの著書『「日本左翼史」に挑む』の紹介かたがた、やはりブログで「もう一つの視点から-ある日本共産党論を読んで-」と題して2回に渡って触れたことがある。こちらは4月のことである。そして、この2つの文章を纏めて、シリーズ「裸木」の第7号『いつもの場所で』の第二部に、「騒がしきことなど」というタイトルを付して収録しておいた。もしも関心のある方の目に留まるようであればそれだけでいい、そんな気持ちであった。

 冊子を贈呈した方々のうちの数人から、私の指摘するところに賛同しており同感だとのメールや葉書や電話をもらった。ある方は、「『公選制』論の提起は、千載一遇のチャンスだというのに逸機してしまう可能性大」と書いてきたし、また共産党の動静に詳しい別の方は、「 最近の松竹、鈴木問題を巡っては、藤田・土井・中祖論文、小池、田村、穀田記者会見その他を読み聞きながら、ちょっと絶望的な気分になっています。 6 全協、7大会・8大会、部分核停問題、民主文学問題、原水協問題、新日和見主義等の経験と教訓が生かされないまま、社会的孤立を一直線に進んでいるようにしかみえません。今回の対応は、原理的・ 戦略的には問題が大きく、戦術的には全く間違っていると思います。 このまま進めば、組織として大きな打撃を受けることになるのは確実で、悲しい思いでおります」と書いてきた。

 まさにそうした指摘通りなのである。共産党に対する関心は人によって好悪や深浅や遠近の違いがあるから、皆同じだなどと言う気はさらさらないが、それにしても、「騒がしきことなど」を読まれ返事をくれたいずれの方も、松竹さんに対する除名処分を批判し、その処分を正当化することに汲々としている(ように見える)共産党の組織体質に強い違和感を感じ、そしてまた、この党の将来に深い危惧の念を抱いているようなのである。きっとそれぞれの人が常日頃感じていることと重なったのであろう。この私は、冊子が出来上がってきたのを機に、あれこれ考えた末あけび書房とかもがわ出版にも贈呈しておいた。

 私はどちらかと言えば目立つことが好きではない人間なので、こんなことをしたのは今回が初めてである。何の手紙も添えなかったから、どうしてこんな冊子を送ってきたのかと訝しく思われたかもしれない。では何故先の2つの出版社に冊子を送ったのかといえば、あけび書房からは、『希望の共産党-期待こめた提案-』や先に紹介した大塚さんの『「日本左翼史」に挑む』が出版されていたし、そしてまた松竹さんは、著書の自己紹介欄にあるようにかもがわ出版の編集主幹を務めておられたからである。私としては、除名処分に反対している人間が世の中にいることを知らせたいとの思いであった。またそれとは別に、「高橋さんが推薦していたので、大塚さんの本を買って今読んでいます」といったお礼の言葉もあった。こちらは嬉しい限りである。著者の大塚さんが聞けば、きっと喜ぶに違いなかろう。

 ところで、共産党の実像や実情を知るには、『しんぶん赤旗』を読むだけではまったくもって不十分である。自分の全身は鏡でしか見ることが出来ないように、外部からの目(とりわけ批判的な目)なしには本当の姿は見えてこないからである。これは、共産党だけではなくどの政党に関しても言えることであるし、またどんな人間に関しても言えることであろう。実際のところ、私は『シン・日本共産党宣言』が出版されるまで、共産党内に党首の公選を求める意見があることさえ知らなかった。正確に言えば、知ることが出来なかったのである。これはあまりにも大きな問題ではないか。

 共産党を論じた著作が当たり前のように出版され、共産党に関心を持つ党の内外の人々がそれらを自由に読み、そしてまた何時でも何処でも誰に気兼ねすることもなく意見を交わすことが出来る、こうしたごく当たり前の市民社会の常識こそが大事なのではあるまいか、そんな思いであった。当の私は別に何の反応も期待してはいなかったが、私の冊子がたまたま松竹さんの目に留まったらしく、しばらくして次のようなメールをもらった。

 そこには、「先日久しぶりに出社したところ、『裸木』第7号が机の上にありまして、何だろうなと思ってめくってみましたら、高橋様の「松竹問題」の文章に接しました。世間をお騒がせしておりますが、こうやって真摯に考察し、居住地でも発信しておられる方がいると分かり、心が安まりました。ありがとうございます。今後どう推移していくのか分かりませんが、私が党に貢献できるとすると、この道を進むことしかありませんので、真面目にやっていきたいと思っています」とあった。

 松竹さんからわざわざ丁寧な礼状をもらったので、私も一言返事を書くことにした。この私は、松竹さんを反共攻撃に狂奔する(あるいは反共攻撃に屈した)反党分子だなどとはまるで思っていないので(そんなことは『シン・日本共産党宣言』を一読すれば直ぐに分かることである)、市民社会の常識として次のように返しておいた。「わざわざご連絡いただき、大変恐縮です。勝手に一人で応援団を買って出たというわけです(笑)。松竹さんの主張に共鳴している方は、私のまわりにもそれなりにおります。できましたならば、共産党を除名された方のその後の新しい生き方を、この機会に模索していただけたらと願っております」。

 もしかしたら、共産党を除名された人とのこうした個人的な遣り取り自体を危険視したり問題視するような、やたらに生真面目な人がどこかにいるのかもしれない。私の周りにもいそうな気がしないでもない。だが、組織の論理を優先して市民社会の常識から離れていけばいくほど、共産党の衰退の度が加速するだけであろう。何とも残念なことではないか。私には先のような人が多すぎることこそが共産党を駄目にしているようにも思えるのだが、果たしてどうだろうか。そう言えば、『希望の共産党-期待こめた提案-』に寄稿した内田樹さんは、「100年生き延びてこられたのは日本共産党が『原理的正しさ』より『市民的成熟』を選んだせいであると私は考えている」と書いていた。何とも的確な指摘である。今頃になって改めて「革命政党」であることを強調したりするのは、「原理的正しさ」に舞い戻ろうとするかのようであり、この私はどうも素直にうなずくことが出来ない。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2023/11/10

古木の表情(1)

 

古木の表情(2)

 

古木の表情(3)