定年前夜のこと(二)
二 年賀状のことなど
これまで触れてきたものの他に、冊子に入れておけばよかったと思ったのは、毎年の年賀状に書いてきた文章である。今年も11月の半ばを過ぎて、そろそろ年賀状の季節が近付いてきた。いわゆる近況報告とは一味違った文章を書くようになってからは、年賀状を出すのがあまり面倒だとは思わなくなった。今年はどんな文章を書こうかと考えるのが、徐々に楽しくなってきたからである。
年賀状に書く文章は、勿論のことだがゼミ生ばかりが読むわけではない。だが、年賀状を受け取る相手の多くは卒業したゼミ生なので、彼ら彼女らが読むであろうことを意識して綴っていることは間違いない。知り合いからは、やけに長たらしい文章で野暮だと手厳しく酷評されたりもしたが、何人かのゼミ生からは、先生の年賀状の文章を読むのが楽しみだと言われたこともある。こちらは多分にお世辞が混じっているとは思うが…(笑)。まあ、どちらもほんとうなのであろう。
定年前夜というタイトルからすれば、せいぜい去年や今年の年賀状に書いた文章を載せておくだけでいいはずである。しかしながら、この冊子を手にすることになるはずの多くのゼミ生に読んでもらいたいので、この場を借りて過去10年分(2008年から2018年まで)の年賀状にしたためた文章を収録しておくことにした。どうにか読める文章になってきたのは、還暦を過ぎた頃からである。齢を重ねることの効用かもしれない(笑)。こうした短い文章にも(あるいは短いから尚更なのかもしれない。「小文」には「性分」が滲み出るとでも言えようか)書き手の人柄は現れているはずである。そんなものを感じとってもらえたならば、私の嬉しさは増すことになる(笑)。
このように年賀状の文章が長くなってきたのは、2007年に還暦を迎えてからである。それまでにも文章らしきものを書いてはいたが、さらに短いものでたいしたものではない。何故長々とした文章になってきたのであろうか。良く言えば、還暦を過ぎて定年に向かい始めた自分自身の心境を、こうした機会に吐露したいという欲求が募っているからなのであろうが、悪く言えば、年寄りになって話がいささか(いや、かなりか-笑)くどくなっているからでもあるだろう。しかしながら、これから「裸木」に向かっていけば、案外短くなっていく可能性もある。長々と書いているうちが華であろう(笑)。
定年を目前にした2018年の年賀状には、少々気が早いとは思ったものの、退職の挨拶も載せておいた。そんなこともあって、これ以上詰め込めないほど文字を詰め込むことになってしまった。野暮と言われれば確かに野暮ではある。しかしながら、これもそう簡単には治らない病なので、やむを得ない。田舎者の私が今更粋を気取っても様になるはずがないので、野暮な人間は最期まで野暮を通すしかなかろう。
●2008年
健やかに新年を迎えられたことと思います。還暦を迎え、孫もできる頃になってようやく研究者の生活に復帰はしたものの、日暮れて道も見えぬ有様です。世俗の塵芥にまみれながらも、「自分に従った」生き方を大事にしたいと願ってはいますが、はたしてどうなることやら。「生きること」と「死ぬこと」があまりにも近いことを自覚させられるにつけ、感傷と非情が背中合わせに張り付いた田宮虎彦の作品に、無性に心奪われていく今日この頃です。
今年もどうぞお元気にご活躍下さいますよう。
●2009年
健やかに新しい年を迎えられたことと思います。勤務先のMさんからいただいた『木山捷平全詩集』(講談社文芸文庫)のなかに「五十年」と題する作品があります。
濡縁におき忘れた下駄に雨がふってゐるような
どうせ濡れだしたものならもっと濡らしておいてやれと言ふような
そんな具合にして僕の五十年も暮れようとしてゐた
一見すると「孤独」とか「寂寥」が漂っているような感じですが、しかしその裏には「自負」とか「自恃」が潜んでいる気配もあり、さらにはそれらを「洒脱」とか「飄逸」で包み隠そうとしているようでもある、そんな複雑な味わいの詩ではないでしょうか。それほど鋭敏な感受性を持っているわけではない私は、還暦を過ぎてようやくにしてこうした新たな境地を身に染みて感得できるようになりました。
今年もどうぞお元気で大いにご活躍下さいますよう!
●2010年
健やかに新しい年を迎えられたことと思います。「晴耕雨読」の合間に新聞の切り抜きなどを整理していたところ、昔好きだった作家畑山博さんの小さな文章を見つけました。彼は、高校中退後旋盤工などの職を経て、1972年に「いつか汽笛を鳴らして」で芥川賞を受賞し、2001年に亡くなりましたが、その彼が、丹沢に出かけた折に、群生している仲間の木々から少し離れて立つブナの枯れ木を見て、書いています。
枯れ木は、そいつが本物なら、どこから生えているのか、異質なその姿からすぐに根元を見分けることができる。拠り立つ所が分かる。きっ先が天のどこを指しているかも、むだな葉や花がないのでよく分かる。そんな枯れ木になりたいものだ。
「本物」とはほど遠いので、とても畑山さんの言うような枯れ木になどなれそうにはないけれど、こんな文章を読むと、「枯れる」というのもなかなか味わい深い人生の営みなのかもしれないなどと思えてきて、ちょっとばかり心が和みます。
今年もどうぞお元気で大いにご活躍下さいますよう!
●2011年
穏やかに新しい年を迎えられたことと思います。昨今はもっぱら自室に閉じ籠もって仕事らしきことを続けていますので、時々無性に旅に出たくなる時があります。たとえ学会ついでに出かけてみても、古本屋や美術館を巡ったり、鄙びた街並みを一人彷徨うぐらいがせいぜいですが、それでも波打ってしまった心がゆっくりと落ち着きを取り戻していきます。同僚のMさんに教えていただいた島村利正さんは、「妙高の秋」で書いています。
「人間の世界ばかりを思い描いていると、それがたまらなく嫌になることがある。そんなとき、風景を思い出すと救われる。風景には惨烈な人間模様に負けないつよさがあるようだ。しかし、自然の美しさの移ろいばかりを追っていると、こんどはまた、人間の世界に還りたくなる。このごろ思い出す風光の彩りが、以前に比べて淡くなったように感じられるのは、年齢と精神の衰弱からくるのだろうか」。
この文章は、「まだまだ人間の愛憎を、いっぱい描かなければ死ねない筈だ」と続くのですが、端正で静謐な文体の寡作な作家がふと垣間見せたそんな勁さに、密かに心励まされました。
今年もまた「飾った世界」に流されることなく、「余執」や「妄念」に煩わされることなく、大いにご活躍下さいますように!
●2012年
昨年は何と多くの人生が喪われ、壊されたことだろうか。静かな年の瀬の午後に、そのことをひっそりと思い返してみる。われわれは弱い存在だから、見たくないものに目を塞ぎ嫌なことはすぐに忘れたくなる。だからだろうか、喪われ壊された人生を悼み記憶し続けることもほどほどにして、「絆」だ「復興」だなどといった空疎な言葉がやたらに溢れかえった1年でもあった。福島に育った私などは、そうした現実を苦々しく思うあまりか、今でもそんな言葉に時折冷静ではいられなくなる。
失言や妄言が続いたこともあって、政治家の言葉が軽くなったとよく言われる。そうだろうとは思う。だが軽くなったのは彼らの言葉だけなのか。「生きざまに人生がない」と批判する阿部昭は、『言葉ありき』のなかで「私は、昔の文士たちがよく使った、人生、という言葉が好きだ」と書く。その人生という言葉が古めかしく感じられるところを見ると、われわれの言葉もそしてまた生活も思想も、思いの外軽くなっているに違いない。新年の意味は、そんなお目出たき我が身を振り返り、深く恥じ入るところにもある。淋しき福島の林檎を一人奥の歯で噛み締めながら、ふとそんなことを思った。
今年もまた、「飾った世界」に流されることなく、お元気でご活躍下さいますように!
●2013年
大震災後迎える二度目の新年である。そんな単純なことを、いったいどれだけの人々が覚えているのであろうか。そのことさえもが疑わしく思われるような師走の総選挙の結果であった。勤め先の専修大学では短大教員が解雇され、身辺も難題続きで、いつまでも心がざわつき続けた一年だった。そんな時間の流れを区切るために、冬晴れの昼に昔の本を開いてみる。 広津和郞は言う、「私は弱い。それだから物にこだわらずにいられない。『大局』によって、小事を割り切れない。所謂実社会の人間からいう『大人』になれない。-それだから、文学に引かれ、文学に携わっているのである」と。文学に惹かれるとはそういうことだったのかと、今更ながらあらためて思う。
もっとも、彼の言う「弱さ」はそれほど単純ではない。その「弱さ」は、時代と自己を凝視する「散文精神」に支えられてもいるからである。彼の言う「散文精神」とは何か。それは、「現実をありのまゝに見ながら、而もそれと同時に無闇に絶望したり自棄になったり、みだりに音を揚げたりしない精神」であり、「対象に肉薄しながら、或る時は黙々と忍耐し、抵抗し、対象にゆるみの出来た時には、直ぐ攻撃に転ずる精神」のことである。何と静謐で揺るぎなき闘いの精神であろうか。
今年もまた、無闇に「幻想」も抱かずまたみだりに「幻滅」もせず、お元気でご活躍下さいますように!
●2014年
6年前に還暦になって、定年後の生き方を考えるようになり、昨年前期高齢者になって、ぼんやりとながら老いと死をも静かに受け入れようとする気持ちが生まれてきた。隠居して残日録でも綴りたくなる気配が少しずつ濃くなってきたのである。藤沢周平の「三屋清左衛門残日録」には、残日の語感を気遣う息子の嫁に、「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ」だと答える場面がある。読み返してみると、意外にも老後の生き方が節々で励まされているようにさえも感じられる作品である。
藤沢さんは、「私は所有する物は少なければ少ないほどいいと考えているのである。物を増やさず、むしろ少しずつ減らし、生きている痕跡をだんだんに消しながら、やがてふっと消えるように生涯を終えることが出来たら幸せだろうと時どき夢想する」とも書いている。
私もまた、残日のなかで浮かんできた彼のような夢想を実現したいのだが、そのためには、成長ばかりが最優先され、国家ばかりが強調されているあまりにも愚かしき世情を峻拒し続けるとともに、「社会知性」を標榜しながら短大教員を解雇するわが大学のありようをも問うていかなけらばならないのかもしれない。「昏ルルニ未ダ遠シ」とはそんなことなのかとも考えた。
この一年どうぞお元気でお過ごし下さいますように。
●2015年
人間は年を取ってくると、だんだんと回想に生きるようになる。そんな様を批判する友人から、たっぷりと昔話を聞かされて一人苦笑した。年に一度ぐらいしか帰省しない福島だが、ふと懐旧の念が沸いたりすることもある。昨年『福島の文学』(講談社文芸文庫、2014年)を手にしたのもその所為だろう。この本で飯野に生まれた斎藤利雄を初めて知った。戦前プロレタリア作家同盟の書記を務め、その後病気と弾圧 のために帰郷し、戦後は共産党の村会議員や阿武隈川漁業協同組合の飯野支部長となり、亡くなるまで農民作家として過ごしたという。1970年に解放運動無名戦士の墓に合葬された。
生前に出版されたのは、小冊子風の『橋のある風景』(冬芽書房、1950年)一冊のみ。没後30年もたって遺族の手により作品集がようやく世に出たが、そこに付けられた年譜によれば、彼は佐藤幸一郎編集発行の『麦』に四度ほどエッセーを書いている。高校時代の恩師が力を注いでいた『麦』には、私も学生の頃に一度だけ寄稿したことがある。広く世に知られることのなかった斎藤であるが、書かれたものを読むと、世俗の評価を気にすることもなく、志の気高さと心映えの美しさを大事にしながら生きていたようにも思われる。遠い昔の話である。
今年2015年がどうか良い年でありますように。
●2016年
しばらく前から、賀状にいささか長ったらしい文章を気儘に書き綴るようになった。自分の勝手な思いを吐き出す場所が、こんなところにしかなくなってきたからだろう。昨年は、知り合いから、重苦しい文章を賀状の添え書きにするのは何とも「野暮」であり「屠蘇がまずくなる」と酷評されてしまった。他にも同じような思いを抱かれた方がいるかもしれない。まったくもって不徳の致すところである。しかしもう高齢者なので、野暮を承知で今年も思うがままに書き綴ることにした。
石坂洋次郎の戦前の快作「麦死なず」を読んでいたら、東北人には「気鬱を発散する機会に出会う」と、「悲壮深刻な言葉を魚の腸のようにモッテリ吐き出して一人合点な感激に溺れる」といった「野暮臭い」傾向があると書かれていた。私も東北の人間なので、場所柄もわきまえず野暮臭い文章をモッテリと吐き出しているのだろう。一人苦笑いした。粋とは無縁な人間なので、野暮を通すしかないが、野暮に宿りがちな精神の緩みまでともにしようとは思わない。「アベ政治を許さない」と言い続けるぐらいの張りは野暮でも持てるはずであり、それが私のような人間にとっての粋なのかもしれない。
今年2016年が皆様にとって良い年となり、普通の平凡な暮らしがゆったりと続くことを願っております。
●2017年
65歳を過ぎたあたりから、同窓会や同級会が開かれるようになった。仕事も終え人生の先も見えてきて、昔懐かしい思いが募るからなのであろう。私も3.11以来故郷を振り返ることが多くなった。昨夏には小学校低学年の頃の同級会があり、個人的にあれこれと思うところもあって顔を出してみた。
当時担任だった長田イナ子先生は、一昨年亡くなった詩人長田弘の母親で、私は彼のことを学生の頃に東京で先生と会った時に聞いてはいた。しかし当時は自分が生きるのに精一杯で、詩を味わうようなゆとりはなかった。今でも彼の詩には縁遠いが、詩人が福島をどんなふうに描いていたのかは知りたくなる。「心の拠りどころとなる鮮やかな記憶」は、「感情よりも、具体的な場所や情景に、はるかに深く根ざしている」と述べる彼は、当時の木造校舎や信夫山、摺上川などに触れて、「やわらかな曲線と開かれた眼差しをもつ風景の記憶を、子どもの私にくれた」のが、故郷の福島という街だったと結んでいる(『なつかしい時間』、『小道の収集』)。
酷い現実を前にすると、私などは「やわらかな曲線」や「開かれた眼差し」を忘れがちになる。詩人の言葉は、身心に付着したこわばりを優しく和らげてくれるようでもある。そんなことも教えられた同級会だった。
●2018年
この賀状で、退職の挨拶も兼ねさせていただくことにした。昨年9月に70歳となったので、この3月には定年退職を迎える身となる。大学卒業後(財)労働科学研究所に15年間厄介になり、その後専修大学に転じて32年間教員の仕事を続けてきた。ずいぶんと長い歳月が過ぎ去ったものである。古希を迎えたという特別の感慨が湧くわけでもないが、心身にはあれこれの老いの兆候がたっぷりと絡みついてきたので、歳相応あるいはそれ以上の日常となっている。
定年後は、教育は勿論だがついでに研究にもピリオドを打つことにした。あとは閑居の身となって気儘な暮らしを続けながら、好き勝手に雑文を綴ってシリーズものの冊子にでもしてみようかと考えている。冊子のタイトルは「裸木」(「はだかぎ」よりも「らぼく」の方がぴったりか)にした。花も実も葉も落ちて、幹と枝のみが誰にも煩わされることなく飄々と残照に立つ、そんな老後に憧れているからだろう。
「抹香町」で知られた川崎長太郎に、「裸木」という作品がある。主人公だけではなく登場人物のすべてが、何だか「裸木」のようにも見える。こんな話を書いている作者も、きっと「裸木」のような暮らしを続けてきたのだろう。「口数の多くない男の声は、低く錆びて長い人の世を生き抜いてきた者の響をつけていた」とある。弛みのない勁さを心中に秘めながらも、そんな響をつけてみたくなってきている。
本年が皆様にとって良き年となり、普通の平凡な暮らしが穏やかに続いていくことを願っております。
近年は、メールでの新年の挨拶も珍しくなくなった。私なども、数は少ないがそうしたものをもらうことがある。時代の変化なのであろう。悪くはないが、もしも教師の文章を読みたいと思うようだったら、年賀状を書いてもらいたい。まったくの型どおりの文章を印刷しただけの年賀状にまで返事を出す気はないが、もらえば必ず返事は出すことにしている。
また、結婚した時には年賀状ででもその喜びを知らせてもらいたい。知らせがあれば、小生からペアのコーヒーカップのお祝いが贈られるはずである(笑)。ゼミのOB・OG会で、先生からのお祝いが届いていないと伝えてきた卒業生がいた。こちらに悪気はない。年寄りなのですっかり忘れてしまったのであろう。これからはそうしたケースが増えるかもしれない(笑)。