党の決定を広く県民・国民に知らせ、実践する立場から、この決定について少し詳しく説明します。私が総会で述べた発言の要旨は次の通りです。本当はもっと長いものですが、それを記すことが本稿の目的ではなく、県委員会総会の決定がなぜこのような構成になっているのかを理解するためのものに過ぎないので、要点をごく簡単に記します。松竹さんを除名処分とした決定ではその理由を4点述べていますが、私はその4点がいずれも成り立っていないと考えました。除名は「もっとも慎重におこなわなくてはならない」(党規約54条)以上、1点でもその根拠に疑問があれば除名処分を見直す必要があります。
第一は、「松竹さんは綱領に反している」と言われていますが、松竹さんは安保廃棄と自衛隊の解消という党綱領が民主主義革命(民主連合政府)においてめざす政策は共有しており、綱領には反していないということです。松竹さんが「安保堅持、自衛隊合憲」だと述べているのは、野党連合政権についての話であって、これは党自身が野党連合政権の政策として述べていることです。なお「野党共闘の障害」と松竹さんが述べているのは安保・自衛隊という「テーマ」についてであって、党への悪口・攻撃ではありません。
第二は、「松竹さんは規約に反している」と言われていますが、松竹さんは、規約の範囲での党首公選も提案しており(党員全体が投票して、その結果をへて中央委員会が委員長を選ぶなど)、規約に反していないということです。また、現在の党の委員長選出が選挙によって行われていることを見れば、選挙が「必ず派閥を生む」ものでないことは明白です。さらに、党内での議論ののち決定をして外部には行動の統一をはかる(人によって言うことがバラバラでない)のが規約の制度設計ですから、「党内に存在する異論を可視化するようになっていない」というのは悪口どころか現行の民主集中制がめざす“理想”のはずです。
第三は、「松竹さんは分派をつくって規約に違反した」と言われていますが、党員でない人も大勢いる出版社で、編集者という職業上、出版物の中身を知り、販促の立場から「同じ時期に出したほうが売れる」と言っただけで、私も複数の出版社で体験したことがあり、そのような発言は分派でもなんでもないということです。
第四は、「松竹さんは中央委員会等に意見を言わなかった」とされていますが、そもそもそれは義務ではなく権利であり、除名処分理由にはならないということです。松竹さんは本の中で述べている通り、綱領と規約に反していないことを自分でよく調べ、考えた上で、その範囲でモノを言っているだけで、そうであれば自分の公開する発言を、いちいち党中央にお伺いを立てて許可を取る義務はありません。ジャーナリストであればなおさらです。
大軍拡に反対する共産党を反動勢力が攻撃しようと待ち構えていることはその通りですが、以上の経過に照らせば、今回の事態は党のミスにより自ら招いたオウンゴールです。処分を見直せば攻撃の口実はなくなります。党の命運とともに、一人の党員の人生がかかっている大問題であり、真摯な是正を求めます。このような趣旨で私は発言しました。
以上が神谷さんのブログに記された大事な部分である。私などには、その通りのきわめて真っ当な主張なのではないかと思われた。そしてまた、こんなことをブログに書いたからといって、それが「福岡県党の前進を何としても妨害しようと躍起」になっているなどとはまったく思えなかった。そんなふうに理解する人がいるというのが何とも不思議であり、唖然とせざるをえない。同じことは松竹さんに関しても言える。松竹さんの著作である『シン・日本共産党宣言』を読んで、これを反共攻撃だなどと居丈高に語る人の神経が、凡庸な私にはまったく理解できない。決定を信頼して除名処分もやむを得ないと判断している周りの人を見ていると、読みもしないで松竹批判に同調しているのではないかと時折疑いたくなってくる。
神谷さんの指摘はなかなか的を射ており、素直に読めば、別に共産党を攻撃しているわけでも何でもないことがよく分かるだろう。まずは落ち着いて人の語るところを聞いてみるべきではないのか。共産党は、政治の世界で日頃厳しい政権批判を繰り返している。そしてまた国会やテレビでのそうした論戦を、小気味よく思っている支持者の方も多いことだろう。しかし他方では、議論というよりも最初から論難の姿勢で臨んでいるようにも見えるので、世間の眼差しは思いの外冷やかである。だが当の本人はそんなことに気が付いてはいない。
そのような姿勢でいるものだから、自分が論評の対象になることなど予想もできず、そうした場面に遭遇すると、突然度を失ってしまうようにも見える。いつもいつも自分が正しい、自分だけが正しいなどとは思わないことであろう。そしてまた、周りの普通の人々がどう見ているのかということに、もっともっと関心を払わなければならないだろう。我が身を振り返ること出来るということは、思いの外大事なことなのである。国民の共産党への信頼は、我が身を振り返ることができるような柔軟な姿勢から生まれてくるものなのではあるまいか。
「『松竹氏の処分は間違いだ』と党内で議論するのは自由だが、それを党外に出したら明確な党規約違反となる」とのことだが、こんなにも自由な言論を嫌い警戒するのが革命政党のあるべき姿だと言うのであれば、今時そんな党に誰が興味・関心を覚えるのであろう。共産党が堅持するという民主集中制の「民主」が泣くというものではないか。問題は党外に出すか出さないかではなく、どんな内容のものをどんな目的で出したのかということなのではあるまいか。松竹さんの著作についても、そしてまた神谷さんのブログの文章についても思ったことだが、いったいそのどこが反共攻撃だと言うのだろう。この私にはそれがわからない。
神谷さんは、自分の提案は否決されたことをたんたんと述べているのみであって、そのことをもって党を批判しているわけでも何でもない。にもかかわらず、彼のブログの文章を問題視するのは、もしかしたら党員に対する最高の処分である除名処分が、あまりにも根拠薄弱で浅はかであったことを内外に知られるのが嫌だからなのかもしれない。そしてまた、いったん下された決定は絶対に撤回しないと決めているからなのかもしれない。これでは、共産党が公言している「不断の自己改革の努力」が積み重ねられているなどとはとても言えまい。こうした、決定を絶対視しそれに寄り掛かるような思考様式が、いわゆる「無謬神話」を生み出しているに違いなかろう。私などは特にそうだが、間違いは誰にでもある。志位さんにも小池さんにもありうる。当然のことである。除名処分などはもっとずっと慎重でなければならなかったはずである。
このところ、小春日和の気持ちの良い日が続いている。もうすぐ師走だとはとても思えない陽気である。しかしながら、私の心の内はどんよりとくすんだままである。こんな味も素っ気もないそしてまた何とも後味の悪い文章を綴っている自分が、情けないだけではなく嫌なのである。自己嫌悪に陥りそうである。だったら止めておけばいいようなものだが、それは卑怯というものであろう。老い先短くなったそしてまたついでに気も短くなった年寄りの、世迷い言と思っていただければ幸いである。振り返ってみれば、迷いのある人間や迷いのある組織が私は好きなのである。迷いがないことを評価するような気持ちなどさらさらない。
この間3回に渡ってブログに綴ってきたこうした雑文さえも、もしかしたら反共攻撃といった粗雑な言葉に一括りされてしまうのであろうか。そんな想像などしたくもないが、しかしまあそうした評価など今の私にとってはある意味どうでもいいことである。そんなふうに思えるのは、「焦らず、慌てず、諦めず」に最期まで生き切ること、そのことしか眼中にはないからである。ところで、神谷さんはその後どうされたのであろうか。何処にも報道されていないので何だか妙に気になる(こう書いていたら、11月14日付の『しんぶん赤旗』に「党規約違反で除名された人物が福岡県党の党勢拡大を失敗させようと攻撃を集中している」と書かれていたから、もしかしたら除名でもされたのであろうか)。小春日和ももうすぐ終わり、本格的な冬の到来も間近に迫っている。そんな予感がするうそ寒い朝に、ふと思い出された山頭火のあまりにも有名な二句。
うしろすがたのしぐれてゆくか
この道しかない春の雪ふる
PHOTO ALBUM「裸木」(2023/11/21)
小春日和の一日(1)
小春日和の一日(2)
小春日和の一日(3)