(続)騒がしきことなど-その後の松竹問題雑感-(中)
この間も、結党100年を迎えた共産党に関連する著作の出版が続いている。私が手にしたものだけを紹介しておくと、前著『シン・日本共産党宣言』の続編ともなる松竹伸幸さんの『不破哲三氏への手紙-日本共産党をあなたが夢見た21世紀型に-』(宝島社新書)があり、この松竹さんも執筆者の一人となっている『続 希望の共産党-再生を願って-』(あけび書房)があり、そして碓井敏正さんの『日本共産党への提言-組織改革のすすめ-』(花伝社)がある。碓井さんもまた『続 希望の共産党』にも顔を出しておられる。多くの方々が共産党の行方を気にされておられるのだろう。
共産党も『日本共産党の百年 1922-2022』(新日本出版社)を単行本として出版した。その最後には、「全国各地で奮闘が続けられてきたものの、党はなお長期にわたる党勢の後退から前進に転ずることに成功していません。ここに党の最大の弱点があり、党の現状は、いま抜本的な前進に転じなければ情勢が求める任務を果たせなくなる危機に直面しています」とあった。それだけ事態は深刻であるとの認識が、率直に語られているのである。問題となるのはその次である。
ここで指摘されているような「長期にわたる党勢の後退」から脱するには、党勢拡大に向けた「大運動」の前に何故そうした事態が生じているのか、その原因をしっかりと掘り下げてみなければならないはずである。そんなことは、普通の人が普通に思うことであろう。だとするならば、党の内外の識者から多様な意見(批判的な意見も含めて)を求めることなども、十分に検討に値する試みなのではあるまいか。私には、今回が共産党の自己改革のためのラストチャンスのようにも見えるので、尚更そんな気がするのである。
だが、現在の共産党は、「結社の自由」を擁護し結果として除名処分を行ったことに理解を示す方々の意見を紹介するのみで(例えば小林節さんなど)、残念ながらそうしたことに着手しようとする考えはなさそうである。党勢拡大に没頭する余りなのか、自己改革への挑戦があまりにも弱すぎるように思われるのである。だとするならば、先のような試みは、心ある出版社の出版活動に期待するしかなかろう。先に触れた3冊の著作の中でとりわけ注目されるべきは、さまざまな分野の識者が登場している『続 希望の共産党-再生を願って-』なのかもしれない。私にはそんなふうに思われた。
この著作は、『希望の共産党-期待をこめた提案-』の続編として緊急出版されており、その帯には、「閉塞する日本政治の変革を左右する日本共産党の存亡の危機。10人の識者が同党の自己改革を期待こめて提案する」と書かれていた。私もまた「存亡の危機」にあると強く感ずるが故に、共産党の自己改革を願うこうした著作の刊行を、しばらく前から心密かに期待していた。それ故に、余計なことかと思わなくもなかったが、この本の紹介を兼ねてあえてブログに今回のような一文を綴ろうとしたわけである。
一読してみて実にさまざまな貴重な提言に溢れている本だと思ったが、そのなかできわめて強烈な印象を与えているのは、「会計学者、東京大学名誉教授」の肩書きを持つ醍醐聰さんの一文である。彼の名前は時折『しんぶん赤旗』で見かけていたから、共産党にシンパシーを抱いている学者の方なのだろうぐらいに思っていた。その彼が、共産党の実状をよく観察し、鋭く分析し、そして厳しい言葉で批判していたのでたいへん驚いた。
気の弱い私などは、とてもここまでは書けない。タイトルは「財源提案・結社の自由論・大本営体質の抜本的改革を」となっている。私があれこれいじって纏めるよりも、そのまま読んでいただく方が醍醐さんの真意が正しく伝わるだろうと思い、いささか長くなるがとりわけ大きな衝撃を受けた部分のみを以下に紹介してみる。この章のタイトルは「大本営体質の根絶が共産党再生に不可欠の条件」となっており、タイトルからして何とも刺激的である。
(1)実態と乖離した美辞麗句
最近の『しんぶん赤旗』紙面には「政治対決の弁証法」「双方向・循環型の党活動」 「法則的な党活動」といった言葉が何度も登場します。出所は2023年6月24日から開かれた同党第8回中央委員会総会(以下「8中総」)における志位委員長の常任幹部会報告と結語です。私はこうした言葉を見るにつけ、それぞれが共産党の直面する困難をはぐらかす美辞として使われているように思えてなりません。
共産党と野党共闘が前進すると、それに脅威を感じた反動勢力の共産党封じ込め攻撃が強まる、現状はその攻防の途上にある、そうした歴史の大局的な流れに確信を持って奮闘しよう、というのが「政治対決の弁証法」の要点です。しかし、国、地方の議会選挙の結果を大局的に見れば、共産党は一進一退ではなく、退潮が続いていることは明らかです。 2015年、安保法制反対を掲げて台頭した野党共闘も、その後は先の見えない混迷が続いています。 現在の政治状況は、共産党の前進とそれを封じ込めようとする反動勢力が対峙する局面にあるとは、とうてい言えません。ありていに言えば、現在の保守勢力は、共産党が自認するほど同党の存在を脅威と感じているとは思えません。
「双方向・循環型の党活動」というフレーズのリアリティはどうでしょうか?共産党はしばしば「支部が主役」と言います。 しかし、 最近の『しんぶん赤旗』からは、8中総報告と結語の読了、志位委員長の対話集会での講演と質疑のビデオ視聴、130%の党勢拡大のための「折り入って作戦」の段取りの討論、各種の報告やパンフの読了率と党勢拡大運動の進捗状況の把握など、党中央からの相次ぐ指示をこなすのに支部が四苦八苦している上意下達の状況が読みとれます。このような共産党の日常活動のどこに「支部が主役」、「双方向・循環型」の党活動があるのでしょうか?部外者ながら、私には「逆が真なり」と思えます。
最後は「法則的な党活動」の真偽です。共産党は130%への党勢拡大を党の死活的課題として掲げていますが、党員、機関紙読者ともに減勢が止まらないのが実態です。私が不思議に思うのは、「今月こそ」という熱い訴えはあっても、「なぜ減勢が止まらないのか」という原因分析が見当たらないことです。 「なぜ」に代わって、しばしばしんぶん赤旗に登場するのは「やればできる」という精神論です。 そして、「増やした」支部の成功体験は繰り返し紹介されますが、「減らした」支部がぶつかっている壁をリアルに紹介する記事は稀です。このように、 減勢が止まらない原因分析を疎かにして、「やればできる」と奮起を促すのは法則的活動ではなく、精神主義的活動です。
(2)党内のパワハラ根絶は共産党の差し迫った課題
8中総の幹部会報告の中に「こんな人権後進国でいいのか-二つの根を断つ民主的改革を」という見出しが付いた項があります。しかし、昨今、日野市、草加市、 富田林市、 神戸灘地区など、私が知った限りでも、各地の共産党組織で男尊女卑や経験の差に由来するパワハラ被害や党内・党周辺の不正を告発する動きが起こっています。また、松竹、鈴木両氏の除名が報道されたのを機にネット上では、不本意に共産党を除名 除籍された人々、共産党に失望して離党した人々が、自身の蒙ったハラスメントを告発する共産党版 “Me too”の動きも現れています。
草加市の場合は、共産党所属の同僚議員のパワハラ、セクハラ行為を厳正に処分するよう求めた3名の共産党市議及びその支援者が、党内問題を党外に持ち出した、所属する支部を超えて連名で意見を発信するという分派行為を行ったなどの理由で、党中央も関与して、除名、除籍されました。これを不服として草加市の共産党後援会長、 女性後援会長なども党を離れました。被害者と加害者を逆立ちさせるようでは共産党は「人権後進党」です。
8中総での志位報告は共産党内にも年齢、経験、性差などを理由にしたハラスメントが残っていると指摘し、あらゆるハラスメントを先延ばしせず、根絶する取り組みを呼びかけました。当然の訴えですが、「先延ばしせず」というなら、各地の党内ハラスメントを把握しながら、機敏な対応を取らず、その間、被害者の精神的苦痛を放置した党中央の深い反省と謝罪が先決です。
(3)異論や不都合な真実にも真摯に向き合う党に脱皮してほしい
日中・太平洋戦争の渦中で大本営は戦果を誇大に発表し、戦況の悪化を伏せる偽りの発表を続けました。この20年ほどの間、共産党は議席が後退した時は得票(率)に焦点を当て、得票(率)も減った時は野党共闘の成果を強調し、野党共闘も不振の昨今は 「共産党包囲網を押し戻す過程の一局面」という言い回しで選挙結果を総括しています。そして、近年の『しんぶん赤旗』では、党勢拡大運動をめぐる 「成果」、党の主張への「賛辞」は大きく伝える反面、党勢の「後退」、党の主張への「異論」は忌避する傾向がいっそう強まったように思えます。このような紙面を見続け、私は日本共産党を「大本営政党」と呼ぶようになりました。
本書の書名は『希望の共産党』ですが、私の今の心境を素直に言えば「失望の共産党」あるいは「絶望の共産党」です。そのような私ですが、共産党に望むことを一言で言えば、「偽善とダブル・スタンダードがこびりついた大本営体質を根絶してほしい」ということです。
以上紹介してきたものが、醍醐さんの提言である。直截な言葉であまりにも赤裸々に綴られているので、私などは愕然としまた悄然とした気持ちで読んだ。事実無根のでたらめな話であると一蹴できれば別だが、とてもそうとは言えないのではあるまいか。きわめて屈辱的な評価が下されているので、共産党の幹部の方々は怒り心頭に発しているかもしれない。この私は、草加市の事例はもちろんのこと他の地域のことなどもまったく知らないでいたので、いたく驚いた。共産党の行く末に関心を払ってはいても、熱心なウオッチャーではないからなのかもしれない。
醍醐さんの一文を読んで、『しんぶん赤旗』だけでは知り得ない情報がたくさんある、そんなことをあらためて思い知らされたのである。必要なのは、情報の「統制」ではなく「共有」であろう。情報に関しても、「双方向・循環型」であるべきような気もするのだが…。「由らしむべし知らしむべからず」という『論語』由来のよく知られた諺がある。意味は時代によって変化しているようだが、情報化が著しく進んだ今日の時点から言えば、由らしむるためには知らしめなければなるまい。無理に抑え込もうと思っても、情報は流出し拡散していくからである。いまさら言うまでもなかろうが、自分に都合のいい情報だけを拡散するわけにはいかないのである。
もしかしたら、「大運動」の最中に公表された彼の一文を、許しがたい反共攻撃ででもあるかのように捉える向きもあるかもしれない。いや、きっとあることだろう。だが大事なことは、共産党に少しは親近感を抱いてきたような人からもそれぐらい厳しい目で見られていることを、そしてまた、そう見られても仕方がないような現実があることを、共産党自体が深く自覚することなのではあるまいか。そこにしか「失望の共産党」あるいは「絶望の共産党」を脱する途はないようにも思われるのだが…。
ブログの読者の方々には、『続 希望の共産党-再生を願って-』(あけび書房)を是非とも手に取って一読してもらいたいと思う。そしてまた、生意気なことを承知で書けば、自分の頭で共産党の行く末に思いを巡らして欲しいと思う。「科学的社会主義を土台に、不断の自己改革の努力を続けてきた」(『日本共産党の百年』)ことを内外に公言し自負するのであれば、そしてまたそれがたんなる美辞麗句でないのであれば、「異論や不都合な真実にも真摯に向き合う」ことができるはずではないか。この私にはどうもそんなふうに思えて仕方がないのである。
松竹さんに対する誤った除名処分がもたらした波紋(もう一人の鈴木さんは除名処分の撤回を求めているわけではないようなので、ここでは除く)は、こうした形で広がり燻り続けているのであり、既に終わってしまった過去の出来事なのではない。先の『論語』には、「過ちを改めざるこれを過ちという」とか「過ちては改むるに憚ること勿れ」といった諺もある。何とも意味深長な諺ではないか。肌寒さを感じる曇り空の冬近き朝に、ふとそんなことを思った。
PHOTO ALBUM「裸木」(2023/11/15)
深まりゆく秋(1)
深まりゆく秋(2)
深まりゆく秋(3)