騒がしきことなど-松竹問題雑感-(下)

 このところ陽気が急に春めいてきた。しばらく前まで「寒い、寒い」と言っていたのが、嘘のようである。身も心も伸び伸びしてきて、心身の強ばりがゆっくりと緩んでいくように感じられる。こんな時に、表記のような文章を綴っているのも何とも野暮だなあと思ったりもするのだが、粋などとは縁遠い身から出た錆なので致し方ない。ただ、(上)(中)と書き継いできたので、だんだんといつもの調子が戻ってきた(笑)。前回『希望の共産党』という本の『しんぶん赤旗』紙上での取り扱われ方に偉そうに苦言を呈したが、同じようなことは中北浩爾さんの纏められた『日本共産党』(中公新書、2022年)についても言える。

 日本共産党は、昨年結党百年という記念すべき年を迎えたが、この年の9月に志位委員長は記念講演を行い、その内容が『しんぶん赤旗』に掲載された。読んでみて学ぶことも多かったし、結論部分の「どんな困難にも負けない不屈性、科学の立場での自己改革、国民との共同ーー統一戦線を追求する」といった特質の指摘にも、まったく異論はないのだが、百年という年に文書化されたものがこれだけだったので、少しばかり寂しい思いがした。そんな年に出版されたのが中北さんの本である。政治学者らしく、数多の文献を渉猟したうえで冷静な筆致で書き進められており、共産党の歴史と現状を知る上でたいへん参考になる本であった。だが、この本もまた『しんぶん赤旗』の書評欄で取り上げられることはなかった。おそらく結論部分が気に入らなかったからであろうが、他者が共産党のことを自由に論ずることを、いつも否定的にしか捉えられないとすれば、やはり大きな問題であろう。

 この機会に、昔の本を引っ張り出してあれこれ読んでみた。読んだとは言ってもせいぜいが斜め読みである。元々斜視なのでどうしてもそうなる(笑)。その中の一冊に『日本共産党への手紙』(教育史料出版会、1990年)があった。この本が出版されてからもう30年以上の歳月が流れたのであり、若かった頃を振り返ってとても懐かしい思いがした。そんな昔の本を再び広げることになったのは、『希望の共産党』の中で有田芳生さん(彼は『日本共産党への手紙』の編者であった)がこの本に触れていたからである。その中で加藤哲郎さんは、「科学的真理の審問官ではなく社会的弱者の護民官に」と題して一文を寄稿していた。ここでその中身に触れることはしないが、このタイトルの意味することは今でも重要であろう。

 私などは、共産党が「社会的弱者の護民官」であろうとしていることに敬意を払い、共感し、応援し、ともに運動し、選挙のたびに投票もしているのであるが、「科学的真理の審問官」であろうとすることに対しては、加藤さんと同じく同意できない。多様な議論があっていいし、あるべきだし、あって当然なのである。そして、共産党はそうした多様な議論を受けたうえで切磋琢磨し学べばいいのではあるまいか。中北さんの著作などは、書評欄できちんと取り上げたうえで、異論のあるところはその旨指摘すればいいだけのように思われる。大事なのは「社会的弱者の護民官」であろうとすることであって、そのためには、現実の政治にしっかりとした影響力を持たねばならない。心ある国民が共産党に期待しているのは、まさにそのことなのではあるまいか。異論というものに対してやたらに厳しくなるのは、依然として「科学的真理の審問官」であろうとしているからなのかもしれない。

 松竹問題は「騒動」などと評されたので、「騒がしきことなど」といったタイトルにしたのだが、この問題を今日の政治的な文脈のもとで捉えてみると、どんなことが言えるのであろうか。その点で参考になるのは、政治学者であり保守の論客でもある中島岳志さんの指摘である。中島さんは昔共産党のインターネット番組で書記局長の小池さんと対談したことがあり(『しんぶん赤旗』2018年10月11日)、そこで「自公政権が親米・新自由主義へと傾斜する中、それに抵抗する『保守』と日本共産党の立ち位置が限りなく接近している」と語り、「まっとうな保守」へと向かう姿勢を高く評価していた。面白い評価の視点だなあと思って、気になっていたのである。

 また中島さんは、党名を変えないという共産党の姿勢をも評価し、「共産党という党名でやってきて、戦争中、獄中で亡くなる人もたくさんいた。失敗もあった。そういうことも含めて『死者たちの英知』に縛られているという矜持が(党名を貫く姿勢に)あらわれている」と語っていた。党名に栄光の歴史のみを見るのではなく、「死者たちの英知」を見ているのである。同じことは憲法についても言えるのではあるまいか。共産党が憲法を護るという保守的な姿勢にこだわり続けているのは、そこに「死者たちの英知」を見ているからであろう。そんな中島さんだからこそ、今回の騒動をどう見ているのかが気になった。

 たまたまネットで見つけた『日刊スポーツ』の記事(2023年2月15日)によると、彼は次のようなことを語っている。共産党の「党首はずっと志位さん、僕が子どものころはずっと不破さんと変わらない。外から見ているとなぜ? 民主的な言論が与えられているのか? という印象を多くの人に与えてしまうのは事実だと思います」と述べたうえで、松竹さんの除名処分騒動に関して、「こういう状況は憂慮すべきものだと思います。というのは、誰が一番喜ぶのでしょうか。それは圧倒的に自民党です。1年半前に衆議院選挙があって、野党は敗れたものの、結構ギリギリで野党共闘がかなり力を発揮した。小選挙区で野党側を一本化することで接戦に持ち込んだ。そういう選挙区がたくさんあった。もう少し大きな形で、もっと早い段階で協力ができていれば、結果はわからなかった。自民の中心にいた人もギリギリの勝利で、浮かれていてはならない。野党共闘は脅威と認識していた」と指摘するのである。

 しかしながら、「その後、野党共闘の在り方を巡って激しい対立が続き、共闘はボロボロになった。いつまでこんなことを続けるのか、結局政権交代、日本を変えるチャンスをどんどん失っていき岸田内閣は全然支持されていないのにもかかわらず、ズルズル続いていく。そんなことに、私たち日本国民は政治自体にシラけてしまう。野党の在り方についてしっかり向き合わなければいけない重要なポイントであると思う」と述べている。彼が言うように、大事なのは野党のあり方なのである。大軍拡の時代に突入しつつある今日だからこそ、幅の広い抵抗の戦線を築かなければならないはずである。

 そのうえで、「共産党の言い分もわかります。野党共闘に至るプロセスで共産党はすごい我慢をした。立憲民主党にいろいろなことを譲り、新たに連立を築くためには自分たちも変わっていかなければならないということに踏み出しました。しかし、最後にこの問題『民主集中制』という党内の強いトップダウンの組織論をどう考えるのか、防衛的な態度だけでなくもう一度、共産党の中でもしっかり議論をしてこの問題を世の中がどう見ているのか分析してほしいと思います。党首選は世の中に共産党はどんな考えを持っているかを訴える重要な契機だと思う」と、中島さんは語っているのである。

 中島さんは、この間の野党共闘を巡る動きの中で、共産党の対応をきちんと評価しているし、「民主集中制」に関しても頭ごなしに批判するのではなく、「この問題を世の中がどう見ているのか分析」しなければならないと述べているのである。きわめて大事な視点であろう。内閣支持率の低下などに関しては詳しく報道し、分析もするのであるが、共産党自らの支持率が低位に平準化しているのは何故なのか、そこを真剣に問うてみなければならない時期にあるのではないか。松竹さんが問おうとしているのも、まさにそのことなのである。今回の松竹問題に対して、共産党の規約上の話のみを持ち出し、「結社の自由」を声高に語れば語るほど、「世の中がどう見ているのか」という中島さんの折角の問題提起からは、遠ざかっていかざるをえまい。

 志位委員長は記者会見の場で、これまで行われてきた共産党の党首の選び方が、もっとも民主的かつ合理的であり、公選制の方が党首に権力が集中してしまいがちなので弊害が多い、そんな主旨のことを語っていた。気になったのは、そうした見解がいったいいつ何処で検討され、議論されたのかが分からなかったことである。これまでに、党首公選制の導入の是非に関して論じられたことなどなかったのではないか。こんなことを書くと揚げ足取りをしているかのように思われるかもしれないが、私にそんな趣味はない。中島さんは分析の必要性を提起しているにもかかわらず、既に分析済みであるかのような話となっていることが、何とも不可解でありかつまた残念なのである。

 語ることは得意でも、聞くことは苦手だという人など、世の中にはいくらでもいる。かく言う私も、家人から常々そう言われている。聞きたくもない話ではあるのだが…(笑)。「反共キャンペーン」だなどと声高に反論する前に、耳をそばだてて他者の話を静かに聞かなければなるまい。そんな姿勢の先に、もしかしたら活路は浮かび上がってくるのかもしれない。「未来社会」を論ずることなどよりも先に大事なことは、こうした姿勢なのではあるまいか。この世の中、語りたがり屋のなんと多いことか。うんざりするほどである。他者の話をきちんと聞くこともなく、すれっからしの感受性を恥じることもなく、あることないこと喋り散らかしている。そんな時代に、共産党が対話の姿勢を打ち出し、感受性の鋭さを示しえたならば、なんと素晴らしいことだろう。

 柄にもなく偉そうなことを書いてしまった所為なのか、いささか気恥ずかしくなって、手元にあった茨木のり子の詩集を手にしてみた。読んでみたかったのは、「自分の感受性くらい」と「倚りかからず」である。「ばかもの」である私にできることは、できあいのものに「倚りかからず」に、自分の感受性を自分で守ろうと努力することぐらいであろう。そんな思いで3回に渡った文章を綴ってみた。単細胞の私のことなので、それ意外の意図など特にない。 

ばさばさに乾いてゆく心を                                                                       ひとのせいにはするな                                                                         みずから水やりを怠っておいて

気難かしくなってきたのを                                                                       友人のせいにはするな                                                                         しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを                                                                              近親のせいにはするな                                                                                なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを                                                                          暮しのせいにはするな                                                                         そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を                                                                          時代のせいにはするな                                                                         わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい                                                                          自分で守れ                                                                              ばかものよ

(追 記)

 先日高校時代の友人から電話があり、久方ぶりに雑談を交わした。その話の中で、期せずして松竹問題が話題に上った。誰も「人が心に思うことを止められない」のだし、また誰も「人の口に戸は立てられない」のだから、そうなっても別に不思議ではない。私はと言えば、この間ブログに書いてきたようなことをそのまま彼に語った。ところで、その彼から、チャイコフスキーの「イタリア奇想曲」を、ゆったりとした気分の時に気合いを入れて聴いてみるように勧められた。大分念の入った勧め方ではないか。そうでも言わないと、人の話を聞かない人間だと思われているからであろう(笑)。

 奇想曲という名称は、イタリア語のカプリッチョからきており、「気まぐれ」という意味だとのこと。特定の音楽技法や形式に縛られない楽曲のことを言うらしい。音楽に縁遠いので、詳しいことは知らない。もしかしたら、彼は私に自由であれと直言したかったのかもしれない。チャイコフスキーのイタリアへの愛や熱情が迸(ほとばし)る素晴らしい曲だった。「自分の感受性」ぐらいは何とか自分で守りたいと願っている私のような人間にとっては、何とも時宜にかなった曲のような気がした。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2023/03/15

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