騒がしきことなど-松竹問題雑感-(上)
前回までで、溜まっていた年金者組合のウオーキングに関する散策記のようなものをすべて書き終えたので、次は今年の正月明けに出掛けた五島列島と島原の調査旅行に関する旅日記を、書き出すつもりでいた。五島列島の福江島ではたくさんの教会を眺めてきたが、もともと宗教に関する関心がきわめて薄く、基礎的な知識もまるでない私のような人間が、いったい何を書けばいいのか迷いもあった。しかし、せっかくの機会なのだから少しは勉強しながら書くしかあるまいと思って、腹を括りかけていたのである。
だが、その前にどうしても触れておきたいことが「突如」生まれた。共産党の「内部」で発生した例の松竹問題である。「突如」であり「内部」であるというのは、私には一見そう見えたからであるが、考えてみれば問題の根はかなり広く深いのではないかと思われる。政治に直接関わるような話には触れないでおくというのが、私のこれまでのブログに向き合う基本的なスタンスである。そのスタンスはこれからも維持していくつもりであるが、今回だけはそうしたスタンスからいささか逸脱した文章を綴ってみることにした。
そんな気になったのは、どうしても言っておかなければならないと思ったことは、黙っていないで言わなければならないような気がしてきたからである。その背景には、老い先が短くなったこともあるのかもしれない。年寄りの戯言のように、誰に遠慮することもなく思いの丈を綴ってみたいのだが、だからといって「声高」に「正義」の論陣を張ろうなどというつもりは毛頭ない。もっと気軽に、いつもの調子で(笑)などを入れて文章を綴れればいいのだが、こと共産党に関してはどうにもそうした態度が取りにくい。共産党に内在するある種の強ばりが、こちらにまで伝わってきてしまうような気がするからである。
松竹伸幸さんの著書である『シン・日本共産党宣言』が文藝春秋新書として出版されたのは、今年の1月20日のことである。副題には、「ヒラ党員が党首公選を求め立候補する理由」とある。次回にでも詳しく紹介するつもりだが、私の場合、広い意味での左翼、とりわけ共産党に関する本が出版されれば、余程のものでない限りは読む。松竹さんの本もすぐに手に入れて読んでみた。タイトルにシンなどと付いていたので、映画「シン・ゴジラ」を思い出したが、要はこの本が新しい宣言だと言いたいのであろう。
共産党を扱った本のなかには、「誹謗中傷」や「罵詈雑言」を浴びせて相手を貶めるだけの著作もあるが、そうしたものは一度読めばあとはだいたい同じ話を繰り返しているので、そうそうは読まない。著者が今の日本をどうとらえ、またどう改革しようとしているのかといった問題関心を示すことのないままに、左翼あるいは共産党という存在を全否定してみても、批判者が「品性下劣」であることが浮かび上がってくるばかりで、読んでみてもあまり意味はないと思っているからである。
しかしまあ、「誹謗中傷」だの「罵詈雑言」だの「品性下劣」だのといった表現の、何と通俗的で手垢にまみれていることだろうか。私としては、そうした言葉を使う気になれないのは勿論だが、それとともに、右であれ左であれ先のような言葉に類いすることを平気で口にする人物を、まったく信用する気になれない。口汚く罵れば批判したことになると思い違いしているからである。そんなことはともかくとして、批判のための批判を行おうとする人物が書いた著作は、読んでみればその意図が奈辺にあるのかはすぐに分かる。そして、意味のある批判を行おうとする人物が書いた著作とは異質であることもすぐに分かるはずである。
ただし、それが分かるには「読んでみれば」という条件が付く。つまり、批判はすべて同質ではないということである。それを一緒くたにして「反共攻撃」だなどと反論することも、これまたあまりにも粗雑すぎる対応だと言うしかない。では松竹さんの著作の場合はどうであろうか。今更私などが言うまでもなく、この著作は意味のある批判を行おうとする人物が書いた著作である。その意図がどのあたりにあるのかは、読んでみればすぐに分かる。
善意の人なのかそれとも善意を装った人なのか、その区別を云々するよりも、やはり中身が大事だということではあるまいか。メディアで紹介される彼の肩書は、元共産党本部の職員であったり、ジャーナリストであったりするが、そうした肩書に私はそれほどの興味・関心はない。重要なのは、やはり彼が現役の党員であるということだろう。現役の党員であることを明らかにし、実名で著作を出版した人はごくまれである。そんな勇気を持ち合わせている人は、そうそういないからである。昔東京大学の院生が伊里一智というペンネームで『気分はコミュニスト』(日中出版、1986年)という本を出版し、在任期間が長きにわたった宮本顕治議長の退陣を求めたことがあるが、それ以来ではないかと思う。
もちろん、理論問題を巡っての論争はたくさんあった。だがそれらの論争の多くは、かなり学問的な形式を取って行われていたので、インテリ層にはきわめて興味深いものではあったろうが、その影響力は限られていたような気がする。『前衛』誌上での不破・田口論争などは、雲の上の出来事のように見られていた節がある。一枚岩の組織を支えるスターリン形の民主集中制に対する批判はあったものの、共産党の組織改革を巡って具体的な提言がなされたわけではないので、党内で論議の対象とされることもなかったように思われる。
だが、今回の場合はそうしたものとはかなり性格が異なっている。党歴が長くしかも現在も共産党に所属して活動している松竹さんが、党内の事情を十分に知ったうえで書いており、しかもあえて異論を提示し、それを可視化するための手段として、「党首公選制」の導入という具体的な提言を行っているからである。その衝撃はきわめて大きかったのではあるまいか。議会を通じて合法的に多数者革命を目指すというのであれば、当然の提言のように思われる。
衝撃の大きさの故なのか、共産党はあっという間に松竹さんを規約違反で除名処分に付した。だがそうしたあまりにも迅速で形式的でかつまた稚拙な対応が、問題をさらに大きくしたようにも思われる。組織内での異論の表明は許しても、外部への異論の公表などは絶対に許さないという共産党の旧態依然たる強権的な体質が、今回の除名処分を通じてあらためて世間に広く露呈してしまったからである。2015年の安保法制を巡る運動を通じて共産党は変わったと思われたはずだし、そしてまた、その変化には好意的な評価が寄せられていたはずなのだが、そうした評価が消滅してしまいそうな気配さえある。何とも残念なことである。
メディアからの批判とそれに対する反論の応酬は、松竹問題として党の内と外に大きな反響を呼び起こすことになった。反論の中には、松竹さんの安保・自衛隊問題に対する提言が綱領にも反するといった批判がなされたし、知り合いにも彼の意見に懐疑的な人も散見されたが、私に言わせれば、彼の提言の要は「党首公選制」の導入である。そうなれば、安保・自衛隊問題も公の場で議論されることになるし、党首の在任期間が長すぎると言った批判なども公の場で行われることになるからである。
私は現在地元で市民運動に顔を出している。共産党の運動や後援会の運動は純粋の市民運動とは別なもののようにとらえる人もいるが、私はそのようには思っていない。問題は、運動の構成メンバーがどのような人であるのかということよりも、そこで掲げられる主張と具体的に取り組まれる運動がどのようなものなのかということの方が重要なのではないか、そんふうに思っているからである。遅ればせながらではあるが、そうした運動にも情報化の波が押し寄せ、共産党の市会議員候補者を応援するために、LINEの繋がりができている。そこに、ある方が今回の除名処分に関して「共産党怖い」と投稿した。それに対して、「組織のルールはルールとして、守るのが当たり前」だといった意見も投稿された。
私はこの両極をなすような二つの意見を踏まえて、二度ほど自分の意見を投稿してみた。一つは、「松竹さんの党首公選制の主張などは、近代の政党にとってごくごく当たり前のことを言ったまでのことであり、私も賛同しています。今回の除名処分によって、共産党の改革の機運が失われてしまうことが、たいへん残念です。社会の改革をめざす政党は、自己の改革にももっと大胆かつ柔軟であっていいのでは」というものである。この投稿には二人の方からの反応があった。お一人は、「除名までのスピードの速さに打ちのめされた」し「統一地方選試合中のオウンゴール」のようだと書き込んでいた。そしてもう一人の方は、「中央は問題の本質を見誤っている」し「除名を撤回」すべきだと主張されていた。
それらの意見を受けて、次に投稿したのは以下のような文章である。「引き続き一言。最近出た『希望の共産党』(あけび書房、2023年)を読みましたが、これを読むと、今の閉塞した政治状況を変えるうえで、共産党の存在と役割がいかに大きいかがわかります。それと同時に、共産党は閉鎖的で特異な集団であるとの外部からの批判を、反共偏見であると片付けるのではなく、真正面から受けとめて、今うって出ることがいかに大事かもわかります。引用されていた元副委員長の上田耕一郎さんの言葉、『思っていることを言わないのは卑怯だ』も心に沁みました。異なる意見の表明を保障することが、共産党と国民の間にある壁を壊し、共産党をより強く大きくするのではないかと思っています」というものである。この機会にもう少し書いておきたいことがあったのだが、いつもよりも大分長くなってしまったので、続きは次回に譲ることにしたい。
PHOTO ALBUM「裸木」(2023/03/03)
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