「飲み会」三態(四)-大学時代の友人たちと-
最後は、大学時代の友人たちとの飲み会の話である。こう書き出したが、実態は夜の会食とも言うべきもので、いわゆる酒場での飲み会ではない。集まったのは同時代を共に過ごした7人である。場所は、学士会館の中にある「紅楼夢」という名の中華料理のレストランであるが、ここにはこれまでにも何度か顔を出したことがある。学士会館といったいささか厳めしくかつまた古めかしい名称は、私のような人間の好みではないが、レストラン自体は静かで落ち着いた雰囲気のところなので、居心地はなかなか良い。
この7人とは、「大学紛争」が世間を騒がせていた学生時代に、知り合った。当時、大学内にはさまざまな学生運動のグループが生まれたが、そのうちのあるグループの内部や周辺にいたこともあって、お互いに親しくなった。時代状況を色濃く反映した繋がりであり、広い意味では「仲間」ということになるのだろうが、50年も経った今では、かなり緩やかな繋がりに過ぎない。もしも当時の「仲間」が全員顔を揃えることになれば、おそらく14~5人にはなるはずなので、そのうちの半数ほどが集まったというわけである。
ところで、そうした時代がもたらした繋がりだけであれば、大学卒業後には雲散霧消したとしてもおかしくはなかったはずだが、結果としてそうはならなかった。その辺りが面白いと言えば面白い。当時簇生した学生運動の数多のグループは、時代の波に呑み込まれて瞬く間に消えていったが、我々の場合は今日まで生き残った。こうした繋がりが今でも続いているというのは、もしかしたらかなり珍しいことなのかもしれない。何処かに、人間としての信頼関係のようなものが存在したからであろうか。
あの頃から優に50年は経っているので、参加者は皆70代の半ばである。随分と長い歳月が過ぎ去ったことになる。「大学紛争」の時代を共に潜り抜けてきたという懐かしさはお互いに今でもしっかりと残っているはずだが、皆が皆、当時のままの「仲間」といった感覚を持ち続けてわけではなかろう。半世紀も経てば、それぞれの考え方も違ってくるはずだから、当然と言えば当然の成り行きである。私の場合、そんな感覚を今でもはっきりと共有できているのは、「仲間」のうちの数人に限られる。
では、他の参加者は、何を思ってこの場に顔をだしているのであろうか。その辺りのことをきちんと聞いてみたいような気もするのだが、何故だかいささか躊躇いも感じる。私は、仕事では日本の企業社会を論じてきたが、企業人としての人生を送ってきたわけではない。そんな人間が、いつまでも青臭いことを言っているように思われそうな危惧を、何処かに感じるからなのかもしれない。それぐらいなら、学生時代に知り合ったという緩やかな繋がりのままでいい、そんなふうに思ったりもする。それはまたかすかな諦念でもあろう。
大学を卒業してからも、ごくたまに「仲間」と顔を合わせることがあった。歌やギターが上手かったKが中心となった演奏会が何度か催されたので、その際に顔を合わせることが多かった。それ以外にも、北海道大学に就職したTが上京した折に、皆で顔を合わせたこともある。最近では、癌に冒された関西在住のSがゼミの同窓会で上京した折に、合間を見て顔を合わせた。その時は赤門前で待ち合わせたのだが、あまりにも長いブランクがあったので、お互いに相手の顔が直ぐには分からなかった。
暫くしてそのSが亡くなり、彼と特に親しかったFの肝煎りで、彼を偲ぶ会がもたれた。3年前の2018年のことである。この時は大勢の「仲間」が顔を出した。懐かしい顔ぶれが珍しく一堂に会したのである。「仲間」の死というものが、皆を呼び集めたに違いなかろう。そしてまた、Sの死によって、死というものが身近に迫り最早他人事ではなくなってきたことが実感されることとなった。他の面々もおそらく同じような思いだったのではなかろうか。
それ故なのか、こうした集まりをたまには持ってもいいのではないかといった声が、誰からともなく上がった。長かった会社員生活を終え、企業との繋がりも切れたはずなので、そんなことが昔の「仲間」との繋がりをあらためて思い起こさせたのかもしれない。昔の友人たちと会い、その友人たちを鏡として現在の自分自身を映し出し、終末が近付いた自らの人生を振り返ってみたいとでも思っていたからなのであろうか。この辺りは、私のたんなる深読みなのかもしれないのだが…。
ところで、こうした集まりが途切れることなくところどころで持たれてきたのは、「仲間」のまとめ役とも言うべきNの存在があったからであろう。彼なしにはとても考えられない。Nは「仲間」からの信頼も篤かったので、当時から周りに安心感をもたらしていた。私などは、彼がいたからこそ自由に振る舞えたような気がしないでもない。繊細過ぎるわけでもない、感情的になりやすいわけでもない、そしてまた粗暴でもない。どんな事態に遭遇してもいつもどっしりと落ち着いているように見えた。胆力があるとでも言えばいいのだろうか。他の「仲間」も同じように思っていたに違いない。
そんなわけだから、緊急事態宣言が解除されたこの時期に、Nの呼びかけに応じて7人が顔を出したというわけである。飲み会とは言っても、飲むことに主眼があったわけではなく、コース料理の食事の合間にビールや紹興酒を嗜むといった程度であった。こうしたものを飲み会と言ったものかどうか迷うところである。周りはほぼ全員が会社勤めの人生を送ってきており、聞くところによれば、会社員時代は殆ど毎日のように飲んだとのことである。役職者になり幹部になれば、そうした席を外すわけにはいかないらしい。私などにはにわかには信じ難い暮らし振りである。
それなりの人数が集まるこうした場では、近況報告も兼ねて一人ひとりのスピーチがあるのが常である。今回もそうだった。定年退職後に就いていた仕事などもすべて終わって、全員が自由の身となっていたので、かみさんと一緒にゴルフを始めたり、惚け防止を兼ねて株をやり始めたり、論文を書くだけではなく新たに語学の勉強を始めたり、ゴルフや麻雀やお酒三昧だったり(自虐が込められていたが-笑)、内側から眺めた企業の姿を纏め始めていたり、大学の仕事を手伝っていたりと、実にいろいろだった。なかには、自粛暮らしをしているうちに飲み物がノンアルコールに替わった者もいたので、同じような人間もいるものだと驚いた(笑)。
私はと言えば、老後の道楽でブログを始め、毎週のように雑文を綴っていること、またそれらの文章を纏めて毎年冊子を作っており、傍迷惑も省みず周りにばら撒いていること(当日も何冊かばら撒いた-笑)、さらには、地元の社会運動に顔を出して老後の運動不足を補っており、今度の総選挙では野党共闘の候補と野党共闘に尽力している政党を応援していることなどを話した。あまり変わり映えのしない、相変わらずの話である。生来の話し下手に加えて、自分の思いをブログにしょっちゅう吐き出しているので、話すことに対する欲求が小さくなってきているような気がしないでもなかった(笑)。
ところで、こうした会合に顔を出している「仲間」は、勿論ながら例外なく元気である。なかには病気を抱えている者もいるにはいたが、それでも今は落ち着いているから参加できたのであろう。気になるのは不参加者の様子である。先のNが、欠席者から届いた返信をかいつまんで紹介してくれた。いろいろな事情があるのだろうから、欠席者がいたとしても何の不思議もない。気になったのは、音沙汰のない者がいたことである。Nは、「病気でもしていなければいいのだが」と語っていたが、私も同じような思いを抱いた。それと同時に、昔を懐かしがるような集まりに何の意味があるのかなどと思っている者も、きっといたに違いない。
元気でない者は、元気な人間が集うような所になど顔を出したくはないはずである。かく言う私も、今のところは何とかやっているが、いつ何時体調を崩すかもしれない。そうなれば、きっと不参加ということになるはずである。さらには、不参加という連絡を取ることさえ億劫になる可能性もある。そう考えると、こうした集まりも、時間の経過のなかで一人欠け二人欠けして、ゆっくりと壊れていくものなのかもしれない。形あるものが壊れるのは世の理(ことわり)だからである。
いつまで続くのか私にも分からないが、できうればそのうちまたこうした場で「仲間」たちに再会できることを願うばかりである。そのためには、NやFに元気でいてもらわなければならない。高齢者だけの比較的人数の多い飲み会は、お互いが元気でいることをあらためて確認する場となるとともに、不在の者の存在を浮かび上がらせる場ともなっていた。だからこそ、人生の来し方や行く末を想うような、落ち着きのある穏やかな夜となったのであろう。帰路の電車のなかで、あの頃から長い時間が過ぎ去ったことをあらためて思い返した。