韓国再訪(三)
●交錯する「過去」と「過去」
この「韓国再訪」が書かれた2008年の時点から見ても、光州事件からはや30年近くが経とうとしていた。この間、1988年には盧泰愚が光州事件を「民主化のための努力」と認めるとともに、全斗煥が当時の軍の行動を国民に謝罪して隠遁した。そして、1995年にはこの両者が逮捕され、「五・一八民主化運動等に関する特別法」が成立し、さらには、「憲政秩序破壊犯罪の時効等に関する特別法」も可決されて、光州事件及び軍事反乱などに対する公訴の時効が停止された。1997年には、大法院はこの特別法を根拠として、全斗煥元大統領と盧泰愚前大統領に実刑判決及び追徴金を宣告したのである。
このようにして、国家によって「過去」の清算が進められてきたこともあって、光州事件は封印された「過去」から蘇ることになる。光州もまた国家的な「聖地」となり、この「聖地」への民衆の巡礼はその当時も続いていたからである。こうした事態をとらえて、真鍋祐子は「はたして宴は終わったのか」と改めて問うている(『光州事件で読む韓国』平凡社、2000年)。「われらが他者」は終わりのない宴に向かっているようにも見えるのであるが、では「われら」の場合はどうであろうか。何やら、宴のない終わりに向かっているようさえ感じられるのであるが、そんな危惧を抱くのは私だけなのであろうか。
1980年代の民主化運動を記憶しようとした黄皙映(ファン・ソギョン)は、『懐かしの庭』で「あの時代を無名のままに生きた人々の堂々たる青春を、どうして忘れることができようか」と書いたし、事件当時市民収拾委員として活動し、我々が訪問した全南大学の5・18研究所を設立した宋基淑(ソン・ギスク)は、「問題は本当の加害者」であり「5・18を引き起こした上層部の問題は政治的に曖昧にされたまま」(『光州の五月』藤原書店、2008年)だと言い、先の文富軾は狂気の時代を振り返りつつ、「誰もすまないとは言わなかった」(『失われた記憶を求めて』現代企画室、2005年)と指摘している。
このようにして、たとえ国家による清算がなされたとしても、そうした制度化された清算を超えて、光州は繰り返し繰り返し民衆の側から思い返されることになる。こうした過去に向けての新たな眼差しは、さらに遠く朝鮮戦争にまで遡っていく。韓国の歴史の清算に取り組む金東椿(キム・ドンチュン)は、「韓国人の記憶のなかにある戦争のありのままの姿」を解明するために、朝鮮戦争に現れた「避難、占領と虐殺の政治」としての側面に注目する。
しかも戦争のそうした側面、すなわち「国家によって、追われ、動員され、そして殺された名もなき人々の経験としての戦争」には、日本による「植民地支配体制と深い連続性あるいは因果関係」(『朝鮮戦争の社会史』平凡社、2008年)があるというのである。「われらが他者」の世界を舞台にしたこの戦争をスプリングボードにして、「われら」は高度成長から「大衆消費社会」への軌道をまっしぐらに驀進していったのであった。もちろん、「すまない」などとは一言も言うこともなくである(反省らしき言葉が国会決議に盛り込まれたのは、戦後50年も経ってからであった)。
ドイツにおける過去克服のための努力はよく知られているが、近年になって他の国々でも歴史の見直しが進められてきている。韓国については先にふれたが、スペインでも2007年に「歴史の記憶に関する法律」が制定されている。それによれば、スペイン内戦やフランコ独裁政権の下で政治的、思想的な理由によって迫害された人々に対して、その刑罰や人権侵害の不当性を宣言し、名誉を回復する権利が認められ、犠牲者や遺族に年金や賠償金が支給され、犠牲者の発見や遺体の発掘を国が支援するというのである。翻ってわが国の現状を眺めてみよう。先の小林多喜二の虐殺や横浜事件での弾圧をはじめとした、戦前の治安維持法体制下で犠牲となった人々に対して、謝罪も、名誉回復も、そして補償もない。戦後のレッド・パージについても同じであるし、国鉄の分割・民営化に反対したが故に、20年を超えて職場を追われ続けている国鉄労働者もそうした流れのなかにある。
戦争の最高責任者(軍の統帥権を持つ大元帥陛下)であり、戦争指導をも行ってきた昭和天皇の戦争責任を問うこともなく、退位すら求めなかった政府は、国際裁判の判決を受けても「犯罪」とは認めず、政府による戦争責任追及も放棄して、過去に目を覆ってきたのであった。こうした社会において過去を問い直そうとすることは、たとえ愚直ではあってもきわめて貴重な営為であるに違いない(吉岡吉典『総点検日本の戦争はなんだったか』(新日本出版社、2007年)は、丹念な資料の整理をもとに、明治以来の日本の戦争が侵略戦争であったことを明らかにした興味深い著作である)。独立記念館や光州が「われら」に問うていたのも、そのことではなかったか。
しばらく前に、靖国神社にある「遊就館」を吉澤芳樹、黒田彰三両氏とともに訪ねたことがあったが、そこは「記憶や記録に対する真摯な姿勢に欠けるだけでなく、どういう教訓を学んだかを戦死者に伝えて慰霊する礼儀にも欠けている」(保阪正康「薄れる記憶、ゆがむ記録」、『朝日新聞』2007年10月1日)ような、何とも古色蒼然とした暗鬱な場所に過ぎなかった。「われらが他者」の「歴史的時間」と向き合うことなくして、「われら」の過去が新たに記憶し直されるべき過去へとその姿を変えていくことはないのだろう。
3月20日帰途のため釜山空港に向かう途中、朝鮮戦争最大の激戦地と言われ、おびただしい若者の血が流されたという釜山近郊の大河洛東江(ラクトンガン)を渡った。周到な計画と準備の下に決行された1950年6月25日の北朝鮮人民軍の「武力南進」によって、首都ソウルはあっという間に陥落し、米韓連合軍は同年8月には釜山橋頭堡にまで追い詰められて、両軍は洛東江で対峙したのであった。金日成は「祖国解放」のために突撃命令を出して渡河作戦を決行したのであるが、戦線が延びきって武器の補給も困難となった人民軍も多大の犠牲者を出し、江と江畔には累々たる死者が重なりあう凄惨な戦闘になったという。まさに「史上最大の戦場」である。戦場の様相は、萩原遼の『朝鮮戦争』(文春文庫、1997年)に描かれているし、朝鮮戦争を描いた韓国映画もある(1976年の『史上最大の戦場 洛東江大決戦(現題は「洛東江は流れるのか」)』(監督は韓国映画界の巨匠イム・グォンテク)や2004年の『ブラザーフッド』(監督はカン・ジェギュ)など)。
車窓から眺める洛東江は、豊かな水量を懐に抱え、まるで時空を超えたかのように悠々と流れゆくばかりである。遠く太白(テベク)山脈から湧き出たせせらぎは、500キロを超えた長い旅路の涯に大河へと姿を変えて、東海に還ってゆくのであった。一方では「生活の細部」に立ち入りながら、他方では過去の記憶に分け入る、そうした二つの視線が交錯するところにおいて、現在=生者と過去=死者は互いに行き来することになるのであろう。そしてまた、そのようなところにこそ、無名の人々として生きる「われら」と「われらが他者」にとっての真実はあるのかもしれない。そんな思いが去来した。
韓国が、「恨」(ハン)を文化の基調とした国であることは知識としては知っていたが、その内容についてはほとんど何も知らなかった。真鍋祐子によれば、「やり場のない哀しみと果たされなかった夢への憧憬」に寄り添うとともに、「新たな再生の力を与え」(チェ・キルソン『恨の人類学』平河出版社、1994年の訳者のあとがき)もするような感情であると言う。それが「恨」(ハン)と呼ばれるものであるならば、先のような真実には、きっとそうした感情が潜み息づいているに違いない。
私もまた、旅の終わりには感傷的な気分に囚われるのが常であるが、今回の場合は、冥さと哀しさに彩られた旅の終わりとなったこともあって、いつも以上の深い感傷に襲われた。そんな感傷を振り切ろうとしてはみたものの、その深さ故にそう簡単には振り切ることができない。それもまた偽らざる私自身なであろう。頬杖をつきながらぼんやりとそんなことを思った。