酒井洋先生のこと(下)
酒井先生のことをネットで検索していたら、物故書家として毎日書道展審査会員酒井洋龍とあり、2012年8月28日に亡くなっておられたことを知った。もうしばらくすれば先生の命日となる。亡くなられてから1年半後の2014年2月には、酒井洋龍遺墨展が桜木町にある「ギャラリーぴお」で開催されていた。そのことを知っていたら必ず顔を出したところだが、それも叶わなかった。
酒井先生が川和高校の校長を務めておられたのは、1992年の4月から96年の3月までの4年間であり、ネットの記事には「入学式や卒業式の式典時に生徒に対して『エール』と称して気合いを注入する個性的な校長であった。また書道家であり、体育ジャージ変更の際に川和の刺繍文字の揮毫を行った」と記されていた。私も小中高大と学んできたが、校長や学長の記憶となるとまったくと言っていいほどない。私の体験がどれ程一般的なのか断言はできないが、それと較べると、酒井先生は記憶に残るユニークな校長だったのであろう。
また、先生は川和高校に赴任される前に港北高校におられたようで(後で知ったのだが、先生は1971年から82年まで同校の教諭であった)、2013年の同校の同窓会の記事もあった。懇親会では、「天国の先生」と題して前年に天国に旅立たれた先生の写真を上映して追悼し、先生に書道を学ばれた生徒のお一人が、「酒井洋先生を偲んで」という題で話もされている。先生は、港北高校でも型破りな先生として生徒たちから慕われていたのであろう。
私がPTA会長として酒井校長と親しくお話しをする機会を得たのは、酒井先生が川和高校の校長であった最後の一年であり、それはまた先生の教師生活最後の一年でもあった。この一年の間には悲しい出来事があった。体操部に所属していたs君が、部活の練習中に頸椎を損傷するという痛ましい事故が発生した。PTAとして何かできることはないかと考え、見舞金を募ったりもした。
そしてまたこの年には、酒井校長ご自身も大きな悲劇に見舞われた。当時大学生であったお嬢さんを事故で亡くされたのである。ハイキングか何かで渓谷に出掛けられ、ひょっとした弾みで手すりのない小さな橋から転落されたということだった。橋の高さは1~2メートルで、大した高さではなかったようだったが、下が岩場で打ち所が悪かったのであろう。こちらも悲しすぎる事故だった。先生は言葉や態度に何も出さなかったが、悲嘆の思いはいかばかりだったろう。
亡くなられたお嬢さんとは年齢から見て大した違いもない元気な高校生たちと、その後毎日顔を合わせなければならないのは、先生にとってはさぞかしつらかったに違いない。かける言葉も見付からない私にできたことは、「私も最初の子供を親の不注意で亡くしまして」と言うことぐらいだった。そんなことがたいした慰めになるとも思えなかったが…。しばらくして先生は、「娘の事故の後、橋の両側に手すりが出来ていました」と寂しそうに語った。
私と先生との間に少しずつ役柄を越えた交流が生まれてきたこともあったし、私が書に関心を示したこともあって、先生は私に対する慰労の意味も込めてか「色紙を書いてあげてもいいですよ」と言われた。図々しい私は、先生が著名な書家であることもよく知らなかったので、色紙や短冊を三つも書いてもらった。啄木の歌と山頭火の句、それに五木寛之の「暗愁」である。今から考えると、余りにも恥ずかしい振る舞いであったわけだが…。
ここに五木寛之の「暗愁」が登場するのにはわけがある。今もそうだろうと思うが、毎年PTAの全国大会が開催されており、1995年の夏に私は先生と一緒にその大会に出席した。確か岡山で開催されたのではなかったか。そこで五木寛之の記念講演を聞いた。私はベストセラー作家のような人気作家の作品はまったく読まないが、エッセーの類なら面白そうであれば読むこともある。彼のエッセーを読んでいたら、自分が歌手の「五木ひろし」と間違えられたり、代表作の一つである「さらばモスクワ愚連隊」を「さらば息子は愚連隊」と書かれたこともあるとのことだった(笑)。
そんな話を、記念講演の行われる会場で隣の酒井先生にした。どうでもいいことをわざわざ紹介したのは、沈みがちな先生の気持を引き立てようと思っていたからに違いない。そこでいざ講演となったのだが、たいへん大きな会場で司会の方も緊張していたのであろう、「では五木ひろしさん、よろしくお願いします」と口走ってしまった(笑)。私と先生がにやついたことは言うまでもない。講演はたいへん面白く聴かせてもらった。彼の話は、最近日本人の顔がのっぺらぼーとなり、陰影が感じられなくなったというところから始まり、そこに「暗愁」という言葉が登場したように記憶している。
酒井校長が退職され、私が会長を退任すれば、両者の関係などはすぐにでも間遠となっておかしくはない。それがごくごく一般的な成り行きであろう。しかしながらそうはならなかった。それは先生が書家で、時折個展を開かれていたために、その案内が私にも届いたからである。恐らく遺墨展が開かれたのと同じ場所ではなかったかと記憶しているが、そこに二、三度足を運んだことがある。味わい深い書が沢山並んでいた。そんな場所に私が顔を出したので、先生もずいぶんと嬉しそうだった。
先生の書を見ていたく気に入ったこともあって、仕事部屋に「敬徳書院」の額を架けることを思い付き、酒井先生に依頼の手紙を書いた。2008年7月18日のことである。先生を偲ぶせっかくの機会なので、そのまま全文を紹介させていただきたい。私にとっては、これもまた「忘れられない小品」なのである。
酒井先生、こんにちは。梅雨明けはまだだというのに、このところ連日ひどく暑い日が続いていますね。お変わりなくお元気にお過ごしでいらっしゃいますでしょうか(元気のない酒井先生は私にはどうも想像できかねますが…)。3月末の個展でお会いした際に、「こちらから連絡します」などと言っておきながら、だいぶ時間が経ってしまいほんとうに申し訳ありませんでした。この間、田舎の姉が亡くなったり、親しい友人が手術をしたりして何かと気ぜわしく、ゆっくり落ち着いて「書」のことを考えられませんでした。やはり、落ち着きや静けさなしには「書」というものは味わえないのかもしれませんね。このところ忙しかった大学の仕事もようやく片付きましたので、あらためて先生にお願いしようという気分になってきました。そんなわけで、こちらの要望などを以下書き連ねてみますので、ご検討いただけたら幸いです。
しばらく前に自宅のマンションの二つ上の階に仕事場を確保し、そこに小生の蔵書をすべてまとめました。ほかに何の贅沢もしたことのない私にとって、唯一の贅沢というわけです。その部屋の玄関を開けた正面の壁(ドアの上のスペースなので、見上げる形になる)に先生から揮毫していただいた書を扁額にして飾りたいと思っています。壁のスペースは縦106㎝、横182㎝で壁紙の色は白です。書いていただきたい文字は「敬徳書院」というものです(亡くなった母の実家にあったもので、想い出に残したいと考えています)。字体は今年購入した先生の作品集のなかの、「國破山河在…」の字体でお願いします(隷書体と言いましたでしょうか)。この作品および字体がとても気に入りました。大きさですが、壁のスペースからすると、掛け軸の二分の一の大きさでも大丈夫なような気がしました。しかし、額のことを考える必要がありますので、もしもこれでは大きすぎるようでしたら、もう少し小さくてもかまいません。また額ですが、部屋の色調に合わせてシンプルかつ素朴な木製のもので、色は茶系統の額にしようかと考えています。
先生からは「少し時間を下さい」とすでに言われておりますので、できあがりは急ぎません。先生にお任せいたしますので、いつでも結構です。上記のようなものを予算10万円以内で何とかお願いできませんでしょうか。先生からは色紙を3枚いただいておりますが(こちらが勝手にせがんだものですが…)、啄木の歌「函館の青柳町こそ悲しけれ 友の恋歌矢車の花」も五木寛之の「暗愁」も山頭火の「どうしようもないわたしが歩いてゐる」もすべて気に入っており、額に入れたり、掛け軸にしたりしてすべてこの部屋に飾っています。これに「敬徳書院」が加わると申し分ないのではないかと思っています。小生「書」がわかるような人間ではありませんが、せめて飾るぐらいはして悠々と暮らしながら落ち着きのある第二の人生をめざしたいものと願っております。多方面でご活躍でたいへんお忙しい先生にまことに勝手なお願いで恐縮ですが、なにとぞ小生の希望をお聞き届けいただけますようよろしくお願い申し上げます。
夏になると、先生も奥様もきっと亡くなられたお嬢さんのことを思い出されるのでしょうね。あの当時、ひとり黙って耐えておられた先生の姿が今でもありありと蘇ってきます。もうすぐ夏本番を迎えますが、夏バテなどされませんようお身体だけはくれぐれもご自愛下さい。
以上が私が書いた手紙の全文である。その後翌年になって額が完成したとの連絡があり、2009年の3月末に先生は表具屋さんとともに私の家に来られた。作業が終わって、三人で近くの蕎麦屋に出向きしばらく歓談した。その日が先生とお会いした最後となった。今頃先生は天上でお嬢さんと楽しく語らっておられることだろう。私になどとても無理なのだが、できることなら私が先生にエールを送ってあげたかった。酒井先生、さようなら。