贈られた本を読みながら(四)
大塚さんから贈られた『岩波書店取材日記』を読みながら、あれこれと思い付いたことを綴ってきた。昨日新聞の広告を眺めていたら、大塚さんの本が「たちまち3刷」と書かれていた。売れ行きが好調なようで、読者の私としても嬉しい限りである。続いて今度は、高木郁朗さんから贈られた『戦後革新の墓碑銘』(旬報社)に話を移してみる。この本も昨年の12月に出版されたのだが、そのことは暮れに旬報社の社長である木内さんと一緒に飲んだときに聞いていた。私も是非読んでみたいと思ったので、「私も購入しますから、送ってくれませんか」と頼んだところ、木内さんから「たしか高橋さんの名前も贈呈者リストにあったはずですよ」との返事があった。
暫くして本が贈られてきた。木内さんから聞いたとおり『戦後革新の墓碑銘』というタイトルの本だった。気になったのはやはり「墓碑銘」の3文字である。この本を高木さんから贈られた方は、全員が大なり小なり気になったのではないかと思う。墓碑銘とは、死者の墓石に刻まれた字句などを言うはずであり、その多くは死者の経歴や業績などを記したものである。名の知られた人の場合には名文句を残す人もいるようだが、それは例外だろう。例えば、スタンダールの墓碑銘である「書いた、愛した、生きた」などは有名であるが、しかしそれを知ったからといって特段の感慨に耽ることはない。
気になることは別にある。この本のタイトルから浮かび上がってくるのは、戦後革新が死んだということであり、にも拘わらずその死には墓碑銘として刻むべき遺蹟がある、といったことなのだろう。本書を一読するとよく分かるが、高木さんは戦後革新の生成、発展、衰亡をその内部に身を置いてつぶさに眺めてきた人であり、かつまた戦後革新の運動に深く関わった「脚本家」でもあった。だから、墓碑銘は戦後革新に対するものだけではなく、自分自身のものでもある、そんなふうにも読めなくはない。だから気になったのである。
編者の中北浩爾さんが書かれたあとがきを読むと、「病気と闘いながら精魂を傾けて本書の執筆にあたってくださった高木先生」との文言がある。体調もあまり良くないのであろうか。私は定年を機に研究者を廃業したので、その際に所属していた学会もすべて退会した。だから退会前の話ということになるわけだが、ある年の社会政策学会で、久し振りに高木さんの姿を見かけたことがある。会場に現れた高木さんは杖を持っておられたので、何だか不意を突かれる思いがした。
労働問題への関心がやたらに幅広く、そしてまた深い洞察が持ち味だったので、何時もエネルギッシュな方だとばかり勝手に思い込んでいたからである。飾り気のない姿は勿論だが、時々聞く声のトーンにも落ち着きが感じられたので、私はその声までが好きだった(笑)。私の席からは大分離れていたし、高木さんは他の方々と談笑されていたので、その時には声を掛ける機会を逸してしまったのだが、もしかしたらあのころから体調はあまりすぐれなかったのかもしれない。「連合」が結成されて以降高木さんとの接点はほとんどなくなり、長い間の無沙汰が続いたこともあって、高木さんの近況をまったく知らないままにこの間過ごしてきた。
高木さんの交友関係はあまりにも幅広いので、以下のようなことまでいちいち覚えておられないだろうとは思うが、折角の機会なのでここに書き留めておく気になった。私が高木さんと知り合うことになったのは、たぶん平和経済計画会議がその頃毎年刊行していた『国民の経済白書』に原稿を書かせてもらった時であろう。執筆者が集まった研究会で、総論を担当されていた高木さんと何度かお会いした記憶がある。高木さんも書いておられるが、当時は労働問題の雑誌がたくさん刊行されており、私なども職場の雑誌である『労働科学』や『労働の科学』だけではなく、『賃金と社会保障』や『労働運動』、『月刊労働問題』、『労働経済旬報』、『学習のひろば』などにあれこれの原稿を書いた。もしかしたら、そんなこともあって高木さんの目に留まったのかもしれない。
そうした縁もあって、山形大学に非常勤講師として来てくれないかと依頼された。今から40年も前の1981年の夏のことである。『戦後革新の墓碑銘』に付された年譜を見ると、高木さんは1976年に山形大学に赴任され、その後1984年に日本女子大に転任されているので、その間の出来事である。私はその時34歳でまだ労働科学研究所の研究員だった。山形大学での非常勤講師の仕事は、夏期の期間だけの集中講義ということだったので、10日間ほど土日を除いて午前と午後に労働問題の話をした。私のことだから、毎回毎回一夜漬けの話をしてその場を凌いでいたはずである(笑)。
講義の準備に追われていたという記憶はあるのだが、その時の講義の中身もあるいはまた寝泊まりしていたところも、今ではすっかり忘れている。覚えているのは、高木さんの研究室に秘書の方がおられたことや、高木さんが研究室に来られた時に、労働組合の幹部とおぼしき人からの電話での相談に応じて、助言までされていたことである。私などは根が単純なので、高木さんは偉い人なんだなあと素直に感心していただけだったが…。そしてまた、一度高木さんのご自宅にお呼ばれしてご馳走になったこともあった(確か名物の「芋煮」だったような記憶がある)。私の郷里は山形に向かう途中の福島なので、山形大学での集中講義の行きだったか帰りだったかに、実家に顔を出したような気もする。母は既に亡くなっていた。
その次に高木さんとすれ違ったのは、日本女子大家政学部の人事の際である。知り合いから、この人事に応募しないかと誘われた。労働科学研究所の居心地が決して悪かったわけではなかったが、大学に移って研究に専念できるのならそれに越したことはないようにも思われたので、誘いに乗ることにした。その後しばらくして、本命の候補者が高木さんであることがわかった。事前に分かっていたら応募しなかったような気もするが、途中で辞退するわけにもいかなかったのでそのままとなった。結局その人事は当然のことながら高木さんに決まり、高木さんは先に紹介したように1984年に日本女子大に赴任された。翌年私はたまたま縁あって専修大学に転職した。
上記の人事の件では高木さんと直接話を交わしたことはないので、すれ違ったと書いたのだが、最後のもう一回は、あるときの社会政策学会の休み時間に、高木さんから声を掛けられ話を伺うことがあった。その時高木さんは日本女子大で理事もされており、生田キャンパスの移転計画に関する責任者として検討を重ねておられたようだった。「専修大学で、女子大の跡地を購入する可能性はありますかねえ」などと、私に尋ねられた。息抜きも兼ねて出掛けた学会の場で、高木さんとこんな話をすることになるとは思いもよらなかった(笑)。
こちらも大学の行政に振り回されててんやわんやだっただが、もしかしたら、高木さんも似たような状況にあったのかもしれない。私が大学の行政職をやるような柄でないのは今更言うまでもないが、高木さんも大学の理事などが似合う人ではない(こちらが勝手にそう思っているのだがー笑)。お互い顔を見合わせて苦笑してしまった。こんな話を書いているうちに、日本女子大の生田キャンパスで非常勤講師を務めたことを思い出した。海外出張に出掛ける秋元樹さんから、何ヶ月か代役を頼まれたのである。講義ということだったが、教室は小振りだったから大人数のゼミのような感じだった。学生も真面目で気持のいい時間を過ごさせてもらった。
その後ある時に、専修大学の教職員食堂で日本女子大から専修大学に転任された年上の先生と言葉を交わす機会があり、「よく女子大のようないいところから専修大学などに来られましたね」と言葉を掛けた。私は先のような経験から言ったまでだったが、その先生は、私が女子大を麗しい「花園」ででもあるかのように勘違いしていると思われたのであろう。「君は何を考えているのかね」と笑われてしまった。面倒なので訂正もしなかったが、不徳の致すところではある(笑)。そんなふうに、高木さんの「自伝」でもある『戦後革新の墓碑銘』を読んでいると、昔のことが何だか妙に懐かしく思い出されるのである。大分長くなったので、続きは次回に譲ることにする。