福島から(三)-母成(ぼなり)峠にて-

 高羽哲夫記念館を後にしたわれわれは、この日の宿泊先である中ノ沢温泉に向かった。途中猪苗代湖の側にある道の駅で昼食をとった。ライスは磐梯山を型取った(カレーは爆発の際の溶岩を模したつもりなのか)特製のカレーを食べてみた。何とも子供っぽい意匠なので、どうせそれほどのものではなかろうと思っていたが、食べてみたら意外にも美味だった。勝手な思い込みというものは、とかく危険なのである(笑)。

 中ノ沢温泉に泊まることにしたのは、近くの母成峠にある戊辰戦争の跡地を訪ねてみたかったからである。実はこの母成峠には、2年前に今回と同じ温泉巡りで来たことがある。しかしながら、その時にはすぐ側まで来ていながら、「戊辰戦役東軍殉難者慰霊碑」にまでは辿り着けなかった。というのは、慰霊碑は峠をしばらく下ったところにあったからである。辿り着けなくて残念だったなどとその時私が言ったので、おそらくHはそのことを気に掛けて再度出掛ける計画を組んでくれたのであろう。何とも律儀な振る舞いである(笑)。

 今回はすぐに見付かった。しばらく峠を下ったところに、慰霊碑の入り口を知らせる標識が建てられていた。1868年の母成峠の戦いでは、東軍の戦死者は88名、西軍の戦死者は25名であったと慰霊碑の側の案内板に記されていた。西軍すなわち新政府軍は、東軍すなわち旧幕府軍の戦死者の埋葬すら許さなかったという。朽ち果てた死体が放置されていることを哀れに思った近隣の人々が、人目を盗んで仮埋葬したらしい。

 翌年には仮埋葬は黙認されたものの、新政府軍は墓標を設けることを許さなかった。会津憎しの何とも酷薄な対応と言う他はない。長い歳月を経るなかで埋葬地には草木が生い茂り、その結果、仮埋葬した場所がどこなのかも分からなくなってしまったらしい。しかし、100年後の1978年になって猪苗代地方史研究会の人々の尽力によって埋葬地が発見され、それからは毎年、命日の8月21日に慰霊祭が催されているとのことである。慰霊碑のある小さな広場にはわれわれ以外は誰も居らず、静かで寂しい場所だった。慰霊碑の側には土塁があり、そこが埋葬地だったという。埋葬された死者の名前も歴史の彼方に消え去っている。

 母成峠の戦いに関しては多くの人々が活字にしており、今更私が新しく書くべきことなど何も無い。しかしながら、この戦いについてまったく知らない読者もいるかもしれないので、その経緯についてのみ簡単に触れておく。江戸城無血開城の後に会津戦争が勃発し、旧幕府軍は北関東で新政府軍を迎え撃ったが、白河口の戦いで敗れ、二本松城も陥落した。これにより新政府軍は会津を東から攻撃出来る状態となったのである。会津に入るには何箇所かの街道がある。会津藩は新政府軍が中山峠に殺到すると予測したが、新政府軍はその裏をかく形で母成峠に主力部隊を送った。

 濃霧の中、新政府軍2,200と旧幕府軍800の戦いが7時間にわたって繰り広げられるのであるが、兵力と武器の威力の差は明らかであり、旧幕府軍は戦いに敗れて潰走することになる。会津藩にとって、藩境がわずか1日で突破されたことは予想外のことであった。越後口や日光口では藩境あるいは藩外での戦いが続いていたにもかかわらず、新政府軍に城下に突入され、白虎隊や娘子軍、国家老の西郷頼母一家に代表されるような悲劇が引き起こされることになったのである。

 旧幕府軍は籠城を余儀なくされ、他の戦線での形勢も不利になっていく。会津藩の降伏は1か月後のことだが、会津藩の劣勢が確実な状況になったことで、仙台藩や米沢藩、庄内藩ら奥羽越列藩同盟の主力の諸藩が自領内での戦いを前に相次いで降伏を表明した。そのため、奥羽での戦争自体が急速に終息に向かった。その意味では、母成峠の戦いが会津戦争ひいては戊辰戦争全体の帰趨を決したと言えるのかもしれない。

 私の父親は会津にあった短期大学に勤務していたものの、私自身は会津に特段の関心を払ってきた訳ではない。そん私が母成峠に興味を持つようになったきっかけは、田宮虎彦(1911~1988)の歴史小説を好んで読むようになってからである。あの平野謙に二流作品と酷評された「絵本」や「菊坂」、三流作品と罵倒された「足摺岬」が若い頃から大好きで、繰り返し読んできた(今から思うに、いったい「何様」なのかと言いたくなるような如何にも尊大な平野ではある。こういう「俺様」が大好きな人物を二流あるいは三流と言うのであろう-笑)。

 田宮の歴史小説のなかでもっとも素晴らしいのは、『落城』(1979年、六興出版)である。この著作は連作集として作られており、最初に置かれた「物語の中」の冒頭に母成峠は登場する。「慶応4年7月27日、越後長岡が落ちた。その知らせを待ってでもいたかのように、白川口、平潟口で奥羽同盟の諸藩兵と小競り合いに日をすごしていた西国勢が、雪崩をうって奥路に攻めいってきた。棚倉、三春、二本松、泉、中村の諸城が落ちたのはまたたく間もないことであった。旬日後の8月10日、阿武隈山塊を蔽って西国勢はひたひたと仙台藩の南境に迫っていた。(略)13日未明、ふいに鉾先を転じると母成峠、中山、盛至堂、三斗小舎の間道を会津に向かって動きはじめた。会津は藩をあげて天嶮によったが、21日、母成峠石筵口が落ちた。翌22日、会津城はすでに西国兵の重囲の中に孤立していた」。

 緊迫感の溢れる引き締まったいい文章である。私が田宮ファンなのは、彼の文体に魅入られている所為もあるのかもしれない。この日に泊まったのは「ボナリの森」という宿である(「ボナリ」などとカタカナで書かれると、ナポリと間違えそうである-笑)、清流の側には広々とした趣のある露天風呂があった。慰霊碑を訪ねて歴史の儚さを感じた所為なのか、湯に身体を沈めながら自分の来し方を振り返ったりした。