真夏の出来事から(四)-関東大震災から100年目の年に(下)-

 「アイゴー展」の会場で手にしたチラシのなかに、「戦争と加害のパネル展」の案内もあった。主催は「記憶の継承を進める神奈川の会」とあり、今回の展示は8回目だとある。これまでまったく知らなかった。開催場所がかながわ県民センターであり、ここも自宅からそれほど離れていないので出向いてみることにした。このパネル展には、時期が時期だけに関東大震災時の朝鮮人虐殺に関する特別展示もあった。この展示で、横浜で多くの朝鮮人が虐殺されたことも、そしてまたその場所も知った。こうしたところまで遡らないと、記憶というものは継承されないものなのだろう。

 このパネル展では、上記の特別展の他に、万人坑、南京大虐殺、日本軍「慰安婦」、731部隊、重慶無差別爆撃、沖縄戦等に関する展示があった。チラシには、「触れたくない過去とお考えの方もあるかと思いますが、避けて通ることは出来ません」と書かれていた。私も含めて、われわれは戦争による加害の歴史を封印し、忘れ去ろうとし続けてきたことであろうか。そこに触れることを「自虐」と呼ぶようでは、「加虐」の過去はいつまでも清算されることはあるまい。「アイゴー展」にあったように、「傷はむき出しになってこそ癒やされる」のであろう。このパネル展はまさにそのことを示しているようにも思われた。

 パネル展でひときわ異彩を放っていたのが、「万人坑(まんにんこう)」の展示であった。何故そう感じたのかと言えば、私自身が万人坑の存在をほとんど知らなかったからである。会場で受け取った展示概要には次のようなことが書かれていた。「中国の各地、特に東北部に多数の 万人坑 と呼ばれる遺跡がある。数百から数万の大量の遺体が、積み重なっている。これらは何故できたのだろうか?日露戦争、満州事変で満洲に権益を得た日本は、 満洲を日本の生命線とみなし、多数の軍事施設建設やダム建設、鉱工業開発を行った。これに必要な大量の労働者を、満洲内や華北から、強制連行や騙し募集等で集めた。しかし過少食・過労働・不衛生・暴行により大量の人々を死なせた。軍事施設建設では生き残った人々を機密保護のために全員殺した。死者は正常に埋葬せず、穴に遺棄したり、原野や谷間に投棄した。これが万人坑である。」

 日本国内での中国人の強制労働が各地に犠牲をもたらしたことについては、それなりに知ってはいたが、中国国内での日本軍による強制労働とそれにともなう大きな犠牲については、今回初めて知ったようなものである。迂闊と言えば迂闊であり、いささか恥ずかしい話ではある。中国各地の炭坑や鉱山で発見された数々の遺骨の写真を見ているうちに、それらは関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骸とひとつながりのもののようにも見えてきた。侵略、戦争、植民地支配、強制労働といった抽象化された言葉が、人間の死という具体的な姿を取って迫ってきたからである。

 パネル展に出掛けた後、評判となっていた映画『福田村事件』を家人とともに観に出掛けた。映画好きの家人に強く勧められたからである。この映画は、関東大震災時に朝鮮人と間違えられた薬売りの行商人一行が虐殺されたという史実をもとに作られた映画である。100年目の今年に公開されたこともあって注目を集め、さまざまなメディアで紹介されたから、ご存知の方もきっと多かろう。順番としてはこの映画を観た後に、映画の原作となった辻野弥生さんの『福田村事件 関東大震災・知られざる悲劇』を読んだのであるが、この著作が映画の原史料となっているので、こちらから先に触れることにする。

 実はこの本は、今から10年前に地元の出版社から出版されたのであるが、版元が廃業して絶版となっていたために今年改訂復刻版として出版されている。著者は、地元の「歴史好きの平凡な主婦」だと謙遜しているが、事実を丹念に調べ上げてこれだけのものをまとめ上げた力は並大抵のものではない。この著作に寄稿した森達也は「渾身の一冊」と書いているが、まさにその通りであろう。私も読みながら興奮し、そして圧倒された。著者は、関東大震災時の朝鮮人虐殺の余波で起こった福田村事件を、次のように紹介している。

 震災発生から5日後の9月6日、利根川と鬼怒川が合流する千葉県東葛飾郡福田村大字三ツ堀 (現在の野田市三ツ堀)で、 四国の香川から薬の行商に来ていた一行15名が地元民に襲われ、 9人が命を落とした。この事件には隣村の田中村(現在の柏市内)の人間も関与しているので、正確には「福田村・田中村事件」と呼ぶべきだろう。殺された者のなかには、6歳と4歳と2歳の子ども、それに妊婦も含まれており、胎児を含めると、被害者は10人ということになる。加害者側の地元民たちは、讃岐弁を話す行商人一行に対し「お前らの言葉はどうも変だ、朝鮮人ではないか」と、いいがかりをつけ、行商用の鑑札を持っていたにもかかわらず、暴行、殺害に及んだ。朝鮮人と間違えられて日本人が殺された例は、この福田村事件のほかにもある。(中略)けれども、この福田村事件ほど際立って痛ましく、理解に苦しむ事件もほかにない。人間がここまで残虐になれるものだろうかという疑問がつきまとって離れない。さらに驚くのは、罪なき者に暴行を加え、 9人も殺害した加害者たちが、何の罪悪感もなく、むしろ国家にとって善いことをしたと胸を張り、なぜ罪に問われねばならないのか、と法廷で滔々と演説をぶった事実である。また、そんな加害者たちを地元民は支援し、なかには刑期を終えた後に地方議会の公職に就いた者さえいた。

 映画では割愛された殺害後の事態も、きわめて興味深い。これが当時の日本人の「普通」の姿だったのであろう。そして、その姿は現在どこまで変わったのであろうか。「普通」であればいいというものではまったくないはずだ。「普通」は状況次第ではすぐに「熱狂」に転ずるからである。そんなことを考えさせられた著作であった。この本で明らかにされた史実を下敷きにして制作されたのが、映画『福田村事件』である。劇映画として作られているので、当然ながら事件そのものを追いかけただけの映画ではない。事件の核心を深く鋭く衝きながらも、村という共同体に棲息する加害者側の生態も丹念に描き込まれている。あれこれの性愛シーンが暗示しているのは、共同性の持つ濃密過ぎる人間関係なのであろう。

 1923年夏ごろ、日本統治下の朝鮮で教師をしていた澤田(井浦新)が妻の静子(田中麗奈)と千葉県福田村に帰郷する。 香川からきた沼部新助(永山瑛太)率いる薬の行商団も同村を通りかかる。一行15人は貧困と差別に苦しむ被差別部落民だった。大地震の混乱の中、朝鮮人が暴徒化したとデマが流される。軍や警察主導で朝鮮人虐殺が始まり、福田村でも在郷軍人会会長 (水道橋博士)らが自警団を結成。方言を話す行商団を朝鮮人と疑い取り囲む。制止する澤田夫妻や村長(豊原功補)、渡し船船頭の倉蔵(東出昌大)も暴走にのみ込まれていく。ラストシーンは村から出て船で利根川を下る澤田夫妻の静かで寂しそうな姿である。共同体を離れた個は、いったい何処へ向かえばいいのであろうか。そんなことを考えさせられた。個を失った社会こそが、戦争を準備していったのではあるまいか。

 印象深いシーンはいくつもある。澤田が語る朝鮮体験、誰何されて本名を名乗った途端に殺される朝鮮の飴売りの少女、極め付けは、虐殺の引き金を引くことになる沼部の台詞であろう。加害者側の集団に放たれた行商団の親方の一言は、「朝鮮人なら殺してもええんか!」である。朝鮮人に間違われて日本人が殺された事件を描いたこの映画の核心は、ここにこそある。被差別部落出身の親方であったからこそ吐くことの出来た、衝撃的な一言であろう。私自身も震えるような思いだった。殺されようとする子どもたちが暗唱する「水平社宣言」にも心を打たれた。西光万吉(さいこう・まんきち)が起草したこの宣言は、「人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光あれ」で結ばれている。

 冒頭で触れたパネル展からの帰りに、名も知らぬ河に架かった橋を渡った。記憶することに苦痛を感じたためなのか、気持ちは何時までも沈んだままだった。横浜駅からほど近いところを流れているというのに、その河はどす黒く汚れ両岸にはゴミまでが浮かんでいた。橋の中程に佇んで溝(どぶ)のように澱んだ冥い河をしばし眺めた。歴史というものは、あまりにも多くの人間の死を呑み込みながら流れていくものなのかもしれない、などと思いながら…。『福田村事件』の映画を観た後も、何度かこのこの河のことが脳裏をよぎった。天災だけではなく、戦争もまた「忘れた頃にやってくる」ものなのだろう、きっと「熱狂」をともなった「普通」の顔をして。「忘却」することの怖さである。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2023/10/27

雲流るる果てに(1)

 

雲流るる果てに(2)

 

雲流るる果てに(3)

冥き河の流れ