盛夏の北海道アイヌ紀行(四)-アイヌの哀しみに触れて-

 これまで紹介してきたような歴史があるからこそ、アイヌの人々の間では和人に対する蔑称であるシャモが使われたりもしてきたのであろう。もともとは隣人を意味するシサムがなまった言葉だとも言われているようだが、今日では蔑称としての使用が一般的である。今日の和人(国民国家のもとではアイヌ民族も日本人なので、あえて和人と表記してみた)の著作の中にも、アイヌ民族にただたんに身を寄せることを傲慢な態度であると批判し、彼らの歴史と文化を正しく認識するためにも、和人をあえてシャモと表現するような本もある。

 教会の牧師でもあり、『アイヌ民族と日本の歴史』(三一新書、1996年)という著作もある宮島俊光は、『チキサニの大地』(日本基督教団出版局、1994年)において「『シサム』が『シャモ』に変わった背後には、『隣人』が狡猾な侵略者と変貌していった歴史がある。あえていうならば、アイヌ民族にとって『シャモ』とは、侵略者の代名詞であったといえよう。そして、現在のアイヌの人たちも、日常的に『シャモ』を使っている。したがって、 『シャモ』が『シサム』(隣人)と再び呼ばれるときまで、本書においても『シャモ』を用いることにしたい」と書いている。因みに、チキサニとはハルニレすなわち春に咲く楡(にれ)の木のことである。

 アイヌは文字を持たなかったので、歴史は口承によって伝えられてきた。何故持たなかったのかと言えば、文字は本来特権階級が持つもので、神であるカムイのもとに万物と共生していると考えるアイヌに、文字は必要なかったからである。そうしたこともあって、彼らに関しては和人の側からのみ「正史」が記録されてきた。それ以外にも江戸時代以降、多くの和人たちが蝦夷地を訪ね、そこでの見聞を文章に残している。そのほとんどが、意識しているかいないかを問わず、 ある共通する視点を持っている。それは「文明」化された和人が「未開」のアイヌを教え諭すというものである。文明(上品、温和、有知)と未開(下品、野蛮、無知)の二分法に立てば、文明の側からの未開に対する蔑視は勿論のこと、果ては同化を強制することさえ正当化されることになる。そして、実際にそうなった。

 支配する側に生まれたこうした二分法は、広く和人の民衆の間にも定着していくことになる。アイヌの歴史を知ろうとしなければ、奇異な物を眺める眼差しが悪意もなく生まれるのは必定である、そんなふうにも思えるのである。そのすべてが差別だとは言えないにせよ、差別の温床となっていることは間違いなかろう。沙流(さる)郡平取(びらとり)町の二風谷(にぶたに)に独力でアイヌ資料館を建てた萱野茂(かやの・しげる)は、『アイヌの碑(いしぶみ)』(朝日文庫、2021年)で次のように書いている。長くなるが、そのまま紹介してみよう。昔話なのではない、昭和30年代の話である。読んでいる私も胸が塞がれる思いだった。

 わたしは録音の費用(テープ、交通費、手みやげ)とアイヌ民具を買う費用を得るため、もっと稼がねばならなくなりました。昭和36年から家で彫り物をつづけながら、夏の間だけ、登別温泉のケーブル会社へ勤めに出ました。観光地で「アイヌ」として働くことは気がすすまないことでした。わたしがそれまでに学んできたアイヌ民族のあり方、アイヌ文化、アイヌ精神にも反することが多いのです。しかし、家にいて彫り物をしているよりは、ずうっとお金になり、アイヌ民具の蒐集にも録音にもたいへん助かるのです。

 わたしが働いたのは「クマ牧場」の横で、そこにアイヌ風の家を建て、その中で熊送りのときの唄や踊りを30分間で観光客に見せるというものです。ほんとうは5年か10年に一度の熊送りを一日に3回も4回もやるのです。いくら金のためとはいいながら、日本中からやってきた観光客、もの珍しそうにアイヌのわたしたちを見る客の前で、うれしくも楽しくもないのに唄い踊る惨めさといったら、ほかの人にはうまく説明することができません。

 踊り終わると客が群がってきて、「日本語が上手ですね。どこで覚えたの?」「食べものは何を食べてるの?」「学校は日本人と同じに行くの?」「税金を払うの?」と質問ぜめです。当初、そういう質問は観光客の人たちが知っていながら、わざと冷やかしにしているのかと思いましたが、くる日もくる日も同じ質問が多いので、わたしは日本人の多くはアイヌの現状をほんとうに知らないのだということがわかったのです。

 ですから、それからというものわたしは考えを改めて、そういう質問にもていねいに答え、なるべく多くの観光客と話すように心がけました。 そして、 アイヌ民族の歴史や、アイヌ語や風習が消えて(消されて)いった事情なども詳しく説明するように努力しました。そんな努力をしてみたところで、北海道へ観光のために来られた多くの人々は、商売のためだけの古い昔風のアイヌの家やその調度品、アイヌ衣裳にみせかけた衣裳を身につけたアイヌ、アイヌの儀式にみせかけた熊送りを見て、現代のアイヌの生活のすべてを知ったと錯覚されて帰ります。

 そしてそういう記念写真をみせて家族や友人にアイヌについて語ります。こうしてわたしたちアイヌはまた誤解されていきます。こういう観光地でこういうことやっている(やらされている)アイヌのために、多くのアイヌに対したいへんな迷惑がかかっているのも事実です。しかしわたしは、観光地で働いたことがあるので、「観光アイヌ」の心が痛いほどよくわかり、一方的に彼らをせめることができません。

 アイヌ民族の切々たる哀しみは、わずか19歳で亡くなった知里幸惠(ちり・ゆきえ)の絶筆となった『アイヌ神謡集』(岩波文庫、2023年)にも既に登場している。今刊行年を2023年と書いたが、これは中川裕の補訂版であって、岩波文庫に最初に収められたのは1978年のことである。この本が歴史的に大きな意味を持っているのは、アイヌ自身がアイヌ語で書いた最初の著作となったからである。大正11(1922)年3月1日の日付のある序には、以下のような一文がある。「梟(ふくろう)の神の自ら歌った謡(うた)」には、「銀の滴(しすく)」や「金の滴」といった言葉が繰り返し登場しているが、まさにそうした滴にも似た美しい文章である。

 その昔この広い北海道は、 私たちの先祖の自由の天地でありました。 天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったでしょう。冬の陸(おか)には林野をおおう深雪(みゆき)を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐみどりの波、 白い鷗の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁(と)り、花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久に囀(さえ)ずる小鳥と共に歌い暮して蕗(ふき)とり蓬(よもぎ)摘み、紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とる篝(かがり)も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円(まど)かな月に夢を結ぶ。鳴呼(ああ)なんという楽しい生活でしょう。平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。

 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も又いずこ。僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり。しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名、なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。

 その昔、幸福な私たちの先祖は、自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは、露ほども想像し得なかったのでありましょう。時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく。激しい競争場に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがては来ましょう。それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮祈っている事で御座います。けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古(ならわ)し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢(あえ)なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。

 アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打集うて私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました。私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。

(追 記)

 先日たまたまテレビ欄を眺めていたら、NHKの教育テレビで「二風谷に生まれて~アイヌ家族100年の物語~」と題した特集番組が放映されるとのこと。今回の調査旅行で訪ねた場所でもあったので、気になって録画しておいた。総選挙後の興奮も少しばかり冷めたので昨日視聴したのだが、たいへんよく出来た番組であった。平取町の二風谷には、100年に渡る映像記録が残っている家族がある。祖父の貝澤正と父の貝澤耕一そして長男の貝澤太一である。

 祖父と父は「二風谷ダム裁判」を闘い、初めてアイヌを先住民族と認める判決を勝ち取ったことで知られる。あれから30年近くが経ち、何が変わり何が変わっていないのか。子である太一の視点で、祖父と父が歩んできた過去を振り返ろうとした番組である。3代にわたる家族とアイヌの歴史を紐解き、日本社会におけるアイヌ民族の現在と未来を見つめようとしているのだが、その狙いもさることながら、この番組には貴重な映像がたくさん登場するので、それだけでも一見の価値がある。生前の萱野茂も登場する。今でもNHKオンデマンドで視聴できるようだ。

 祖父の貝澤正は『アイヌわが人生』(岩波書店、1993年)の著者としても知られるが、彼はアイヌの聖地がダムによって湖底に沈められることに抗議し、先祖に詫びるためにダムの人柱となることを胸に秘めて亡くなるのである。そして祖父の後を継いだ父の耕一は、あと50年はかかるという森の再生のために尽力している。その彼は、「木を見てると ゆっくり育つ ゆっくり太くなっていく 人間は急ぎすぎるんだ」と語るのだが、その言葉がいたく心に染みた。大事なのは、シンプルでスローでクワイエットな暮らしなのではあるまいか。