盛夏の北海道アイヌ紀行(九)-啄木と武四郎のこと-
今回のブログでは、釧路と繋がりの深い二人の人物に触れてみることにした。その二人とは、石川啄木と松浦武四郎である。まずは石川啄木(1886~1912)から。釧路では、釧路市立博物館の見学の後、旧釧路新聞社の社屋を復元したという港文館に立ち寄った。建物の前にあった由来記には、「詩人『石川啄木』が、76日間の本市滞在中に記者として敏腕を振るった旧釧路新聞社はこの付近にあり、当時の釧路を代表する近代的な建物でした」とあった。しかしながら、ここに立ち寄る人々は、当時珍しかったという煉瓦造りの歴史的な建造物を見に来るのではなかろう。二階にある啄木の文学館を見に来るのである。
玄関脇には、本郷新が制作した啄木像が立っており、隣には彼の碑文もあった。それによれば、「啄木は思うことの多い人間であった 啄木は自己の感情をいつも人間の真実の中に通わせ、そこからあの底辺のひろい文学が生まれた 啄木はいつも世俗に抗し、精神の高揚を求めつづけた そこからあの厳しい芸術の世界が展開された 円い人格ではなく、角だらけの人間であった そういう啄木を好まぬ人でも、その作品の中に見える自負と謙虚という矛盾を一つの塊として受けとることが出来るのではないだろうか 詩人石川啄木は明治四十一年一月二十一日雪の釧路にひとり降り立った」とある。
啄木人気は今でも高く、僅か76日間滞在しただけの釧路にもたくさんの歌碑がある。当時17歳の芸妓小奴(こやっこ)と交情を交わした啄木だったが、文学で身を立てたいとの思いは止みがたく、釧路を離れることになる。港文館で啄木に関する文献を見るともなしに眺めていたら、そこで「石川啄木と五人の女性」との副題が付けられた山下多恵子『かなしき時は君を思へり』(未知谷、2020年)という本があることを知った。帰宅してから早速入手して読んでみた。俗人の私などは、五人の女性という副題に興味が湧いただけのことだったのだが…。
その五人の女性とは、妻・節子、娘・京子、忘れがたき人・千恵子、芸妓・小奴、母・カツである。一読して驚いた。「文学」と「生活」の狭間で苦悩し、困惑し、自暴自棄になり、そして必死にもがきながらついには斃れていった一人の天才詩人の姿が、改めて鮮やかに浮かび上がってきたからである。友人から借りた金で女遊びを繰り返したあげくに、『ローマ字日記』(岩波文庫、1977年)に露骨過ぎるほどの性描写をも書き付けるのであるが、それは文字通りの凄絶な魂の記録であったに違いなかろう。著者である山下の女性たちに寄り添った深い思いやりや、優しくも美しい言葉で紡がれた文章に、時折目頭が熱くなりかけた。
次に触れておきたいのは松浦武四郎(1818~1888)のことである。彼は幕末から明治にかけて蝦夷地(北海道、サハリン、千島)を探検し、その記録を詳細な日誌に纏めた人物として、あるいはまた、私にはそれほどの興味はないが、北海道という名の命名者としてよく知られていることだろう。釧路(当時はクスリと呼ばれていた)にも3度訪ねている。各地を探索したこともあって、北海道には50を超える碑が建っているとのこと。
そう言えば、われわれが訪れたシャクシャイン像の側にも彼の碑が建っていた。釧路の幣舞公園には銅像が建っているとのことだったが、今回は見ることが出来なかった。武四郎の事跡については、花崎皋平(はなざき・こうへい)『静かな大地 松浦武四郎とアイヌ民族』(岩波書店、1988年)が詳しいので、参照していただきたい。そこで花崎は以下のようなことを述べている。
私が松浦武四郎からまなぶべき第一のものと考えるのは、真実を追求することをつうじておのれ自身が変っていった、そのあり方である。植民地を支配する民族の一員であり、しかもその政府の官吏になりながら、当時実質的に奴隷化されていた土着先住民族アイヌへの搾取と虐待を知るや、それを排除すべく批判し、直言し彼らの友となろうとした生き方である。
その自己変革はなお不徹底であり、日本国家の支配構造への認識において甘かったと、今日の眼で見、いうことはできるが、武四郎を凌駕してそのような道を歩んだ人物を寡聞にして私は知らない。彼の旅の大部分は、和人としては単身ないし若い役人一人を同伴してのものであって、アイヌの案内人や村人と寝食を共にし、苦楽をわかちあい、悲喜をおなじくしたことが、彼を変えた原因であることにまちがいはない。心してまなぶべき点である。
武四郎はまた、歩く人だった。歩きながら考え、歩きながら観察し、歩きながら記録した人だった。したがって、彼の眼の高さは、その地で暮す人びととおなじ高さにあった。自然のうちから感謝して日々の糧を得、子を育て、隣人と談話や歌舞をたのしみ、やがて土に帰る人生を世々送る人びとに、神につうずる心とふるまいを感受することができた人だった。彼自身はとくに宗教を深く信仰する人ではなかったが、他人の苦しみ、悲しみ、喜びに素直に共感できる人であった。そうしたありようも、旅のなかでかたちづくられていったのではあるまいか。
釧路であちこち見学している途中、『釧路の松浦武四郎』(クスリ凸凹旅行舎、2022年)という本を入手した。何処で入手したのか覚えていない。もしかしたら港文館だったかもしれない。ネットで購入できそうな本は、鞄が重くなるのでその場では買わないことにしているが、購入できそうもない本であれば買う。そのなかで、演出家でもありミュージシャンでもある秋辺日出男という方が、「武四郎とアイヌ」と題して次のようなことを語っている。先の花崎と相通ずる視点であり、たいへん興味深いものがある。
松浦武四郎のことを語るときに、つい忘れてしまうのは、実は当時の武四郎の案内をしたアイヌたちは、武四郎の業績を知らないんです。今、皆さん、ご存知だから武四郎のファンだったり、武四郎を語りたいと思う。だけど、当時は、まだ書いてないですから。書く前の取材の旅ですから、なんでそこまで武四郎に肩入れしたんだろうっていうのが、私の疑問でした。おそらく武四郎の、人が人に対する態度が一般の、当時の一般の商人や侍たちとまったく違う。
「人を見たら人と思え」というアイヌの言葉があるんですけども、それと全く合致した態度をアイヌにとったので、アイヌは心を許して武四郎のためなら、町から町へ、村から村へ、山から山へ、川から川へ、案内をしてくれたんだろうなというふうに私は思っています。そのかいがあって、武四郎は奥の奥、普段、当時の和人が足を踏み入れることができない所まで足を踏み入れて、地名や調査をしてくれたと思います。
そのうえで、彼は次のようにも語る。アイヌの人々が一色ではないことを示してもいるのだが、さらにもう少し踏み込んで言うならば、私自身にもある安直な姿勢を鋭く指摘されているようにも思われた。「ふざけるな」との彼の叱責を、深く心に刻んでおくことにした。アイヌのことに関して少しばかり学んだからといって、一体何を知ったというのであろうか。表面をなぞっただけの知識によって、何かを語ることなどできはしないのである。
今のアイヌの活動家とか、 和人を悪く言えば自分の立場が立つ、自分の立ち位置が簡単になるということに溺れてしまってるアイヌが、たくさんいます。要するに、和人は侵略者で、差別者で、われわれは被差別で、その関係性の中で語れば、非常に楽な立場になれると。要するに、差別をされた立場でものを言うと強いんですね。おまえたちは加害者だろ、俺たちは被害者だって言えば、150年、簡単に埋まっちまう。たった20歳の男の子でも、たった20歳の女の子でも、まるで自分が150年、しょってきたかのごとくに語ることは簡単であります。それを私は厳しく叱責します、ふざけるなと。(中略)最近、アイヌのことや、武四郎のことや、歴史のことを勉強して、急に差別やアイヌの持ってきた苦しみや、その、苦しみの末端にいる自分たちではあるけれども、150年をしょった人間ではないぞと。
今回の「盛夏の北海道アイヌ紀行」の2回目で、映画『シサム』を見た話を紹介した。この映画はアイヌと和人との闘いが終結した後、両者の間で宙づり状態になってしまった主人公の孝二郎が、旅に出るところで終わる。松前藩の藩士であるにも拘わらず、アイヌの理解者であろうとする自分とは一体何者なのか。そんな葛藤の中で、自らのアイデンティティが見失われてしまったからである。旅に出た孝二郎は、ひたすら蝦夷地のアイヌの実情を調べ記録することになる。事実に即することによってしか、自らのアイデンティティを発見することは出来ない、そんな強い意思が示されているようにも感じられた。この私には、主人公の孝二郎が松浦武四郎と二重写しに見えた。
(追 記)
師走に入って直ぐに、「カムイチェプ サケ漁と先住権」と題するドキュメンタリー映画の上映会とその後のトーク企画に、ズームで顔を出してみた。主催したのはPARC(アジア太平洋資料センター)自由学校であり、こうした催し物があるとわざわざ私に教えてくれたのは、友人の大塚茂樹さんである。私のブログを読まれていたからであろう。感謝に堪えない。カムイチェプとは「神の魚」という意味で、サケのことを指す。映画を見ていると、アイヌの人々が先住民族の権利(先住権)としての漁労権や狩猟権や採集権を主張するのに対して、道の職員は勝手にサケを捕獲することは水産資源保護法等の法律に違反することになるので、許可願を出してくれと求めるのである。
アイヌが主に北海道での先住民族であることは既に国会決議等でも認められたところであるが、先住権となると国は頑なな姿勢を崩してはいない。外見上は国際的な流れを受け止めているかのように見えるが、中身はその国際的な流れからだいぶ立ち遅れているようだ。アイヌの人々からすると、先住民族であるアイヌの地に入植し支配してきた和人が、自らの利害のために法律を制定した挙げ句にそれを我々に押しつけている、そんなふうに感ぜざるを得ないのであろう。当然の成り行きである。たかが紙一枚のように見えながら、その一枚にはこれまでのアイヌを巡る歴史が凝集されているようにも思われた。