盛夏の北海道アイヌ紀行(三)-アイヌとは誰のことか-
ではアイヌという呼称は、アイヌの人々にとってどのようなものとして受け止められてきたのであろうか。そこにはいささか複雑な経緯がある。アイヌという言葉が、長い間の差別と同化の歴史の中で、一時期アイヌの人々の間でも敬遠されるようになったからである。アイヌの最大組織の名称の変遷がそのことを物語っている。1946年の協会発足時には北海道アイヌ協会という名称で出発したものの、途中1961年には北海道ウタリ 協会へと変わった。ウタリとはアイヌ語で同胞や仲間たちを意味する言葉である。
アイヌ民族であることが、世間から好奇の眼で見られたり侮蔑的な態度を取られたりしてきたこともあって、アイヌという呼称をめぐり複雑な波紋が広がっていたからに違いなかろう。正直に言えば、今回ブログに連載するに当たってアイヌとそのまま表記していいのかどうか、この私も一瞬迷ったぐらいである。アイヌ民族の現在に関して何も知らなかったから、そうした迷いが生じたに違いなかろう。
その詳細については関連の書に譲ることにするが、明治維新以降北海道では、ロシアの南下政策に対抗するために、士族団や屯田兵、開拓会社等による和人の入植政策が積極的に進められ、アイヌは故地にいながら完全な少数民族となっていく。それとともに、「保護」を名目にした和人への強引な同化政策が推進されていくのである。1899(明治32)年に制定された「北海道旧土人保護法」(旧土人とはアイヌ民族のことである)では、アイヌの土地の没収、収入源である漁業や狩猟の禁止、アイヌ固有の習慣や風俗の禁止、日本語使用の義務化、日本風の氏名への改名による戸籍への編入などが強制されたのである。
こうしたなかで、多くのアイヌの人々はこれまでの生き方を変えることを余儀なくされるのである。その結果、アイヌ語を使用する機会も激減していった。生活のためだけではなく、和人に嘲笑されたりしないためにも、日本語の習得は必須となった。アイヌらしく見られるような慣習や風習は、禁止されただけではなく、一刻も早く自ら捨て去らねばならなかったのである。
しかしながら、長年にわたる運動の成果もあってか、近年アイヌ民族に対する社会の関心が高まってきており、アイヌあるいはアイヌモシリ(アイヌ民族が暮らす土地のこと)という言葉がもつ本来の意味を正当に評価しようとする動きが広がってきた。世界の先住民族に対する関心が国際的に高まってきたことも、その背景にあるのだろう。国連は、2005年に「世界の先住民の国際10年」をスタートさせている。こうした動きを受けて、先のウタリ協会も2009年には再びアイヌ協会へと名称を変更した。さらに2019年に施行された「アイヌ施策推進法」においては、アイヌが「日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族」であると明記された。『シサム』が制作されたのも、そうした社会の変化と無縁ではなかろう。日本が単一民族国家であるなどといった世迷い言のような言説は、まったくの虚妄にすぎない。
ここでもう一つ触れておきたいことがある。アイヌは少数民族(minority peoples)なのかそれとも先住民族(indigenous peoples)なのかという論点である。字義から解釈すれば、少数民族は多数民族に対する少数派を意味する。つまり量の多少が問題とされており、共時的なヨコの関係で両者を見ているのである。他方先住民族は歴史上の後先が問題になるので、通時的なタテの関係で両者を見ていることになる。アイヌの人々が、先住民族という呼称にこだわっているのは、自らの歴史とそこで育まれてきた伝統文化を大事にしようとしているからであろう。
今から40年近くも前になるが、『北海道と少数民族』(札幌学院大学、1986年)と題した著作が刊行されている。内容はきわめて興味深いものだったが、この当時は先住民族よりも少数民族の方が一般的な表記だったのかもしれない。しかしながら時代は変化していく。今日では先住民族という言葉が一般的となり(台湾では原住民族だったが)、そこにはアイヌ民族が、差別と同化の歴史の中で奪われた民族としての尊厳や権利の回復を求める意味が、込められているのである。
アイヌ民族に対する関心の高まりを背景に、今日ではアイヌの歴史や文化に関する書籍が数多く出版されている。知りたいと思えばそうしたものを手にすればいい。この私は、アイヌ民族のことをより詳しく探求したいと思っているわけではないので、彼らの全貌を知ることの出来るような文章で、簡潔にして要を得たものはないのだろうかなどと、いささか安直で不埒なことを考えていたら(笑)、以下のような一文に出会った。掲載されていたのは、『1時間でわかるアイヌの文化と歴史』(宝島社新書、2019年)のまえがきである。
この本のタイトルだけ見ると何ともキワモノふうだが、監修しているのは『アイヌの歴史 海と宝のノマド』(講談社選書メチエ、2007年)や『アイヌの文化』(同、2011年)などの著作があり、アイヌの世界に造詣の深い瀬川拓郎(せがわ・たくろう)である。図版も数多く掲載されており、初心者の私にはたいへん興味深い本だった。一言触れておけば、ノマド(nomad)とは遊牧民という意味である。彼がアイヌを見下したりしていないのは当然だが、その逆にむやみやたらに美化もしていない。以下に彼の紹介するところを見てみよう。
アイヌは、近世には北海道を中心に千島列島・サハリン南部・東北北部沿岸という広大な地域に暮らしてきた人びとである。私たちはかれらを狩猟採集民と考えている。基本的にそれはまちがいではない。しかしアイヌのなかには、広大な畑を耕して農耕に従事する者や、柵をめぐらせた牧場で馬を飼う者、あるいは集落を巡回して鉄製品を製作する鍛冶屋などもいた。中世には、東北北部での和人間の戦いに傭兵として参戦する者、舟で移動しながら東北沿岸の和人の村々を襲う者もおり、サハリンでは中国の元の軍隊と数十年におよぶ戦いを繰り広げた。
かれらの実際の姿は、狩猟採集民という言葉で括られるほど単純なものではない。そもそもかれらの狩猟自体、もっぱら交易目的で行われていた。北方世界の良質な毛皮によって入手した米や鉄製品などの本州産品は、アイヌの暮らしと文化を根底から支えた。北海道縄文人の末裔であるかれらが、古代以降サハリンや千鳥など北東アジア世界へ進出していったのも、本州向けの商品の開発と入手にかかわっていた。アイヌは交易民であり、広大な地域を海で結ぶ海洋民でもあったのである。
北海道と本州は、津軽海峡を隔てて指呼(しこ)の間にある。 二つの島の人びとは、縄文時代から往来を繰り返してきた。旧石器時代の人びとも、舟でこの海峡を渡った。しかし、両地域の濃密な交流にもかかわらず、北海道ではアイヌ語という日本語とは大きく異なる言語、日本文化とは異なる独自の文化が保たれてきた。そこには、農耕民として自立するには不適な北海道の寒冷な自然を優位性に読み替え、本州の人びとと対等な共生の関係を築こうとした、北海道縄文人の末裔の歴史が深くかかわっている。私たちは、アイヌの複雑な歴史も、かれらの豊かな文化もほとんど知らない。しかしアイヌという厳然たる差異は、日本列島の多様性と可能性、そして私たちが進むべき道を垣間みせてくれるにちがいない。
以上が瀬川の一文であり、なかなか興味深い紹介である。アイヌの世界が私などが思いも掛けぬほど壮大であり、そしてまた複雑であることがよくわかる。そうした先住民族が、何故に今日のように少数民族に追いやられたのであろうか。多数民族となった和人が、先住民族のアイヌを支配し迫害するとともに、同化を強制してきたからに他ならない。中央政権の支配が及ばない東方の異族への蔑称でもあった蝦夷(「えみし」あるいは「えぞ」)という呼称は、平安時代以降1869年に北海道と改称されるまで続いていく。北海道の誕生による蝦夷地の消滅は、アイヌに対する和人の覇権が確立したことを象徴的に示すものであった。
(付 記)
もうすぐ総選挙の投票日である。知り合いから私のところに、下記のような宣伝動画が送られてきた。なかなか面白かったので、ここで紹介させてもらうことにした。こうした市民や若者や女性の心に届きそうな何とも柔らかな宣伝が出来るのであれば、組織の構造についてももっともっとソフトなものにしてもらいたいものだ。ハードであればあるほど、人々との間に生まれる心の壁は高くなり、時代遅れの組織となって衰退していかざるをえないのではあるまいか。