盛夏の北海道アイヌ紀行(一)-北海道の思い出から-

 この間溜まっていたあれこれの仕事を片づけて、ようやく表題のテーマに落ち着いて向き合えることになった。何とも幸せな気分である。ここ2、3日急に暑さが和らぎ始め、周りの景色も一気に秋めいてきた。先般の猛暑日続きの残暑が嘘のようである。もう少し穏やかな季節の変化であって欲しいのだが、今の日本ではもはやそれは贅沢というものなのかもしれない。涼気爽やかな秋の到来を素直に喜べばいいのだろう。

 昨日は、気分転換を兼ねてプールに出掛けたのだが、生憎と定休日であった。月末の火曜日は定休日と決まっているのだが、手帳に書き込まないから年寄りのこの私は直ぐに忘れる。併設の食堂も休みだったので、仕方がないから、半袖に短パン姿で少し先にある店に出掛けて昼食を摂った。周りを見渡すと、私のように夏の名残りのままの格好をしている人など誰もいない。もうすっかり秋である。

 この8月に人文科学研究所の調査旅行で北海道に出掛け、続いて翌月の9月には社会科学研究所の調査旅行で岡山の倉敷に出掛けてきた。そして倉敷からの帰りに、兵庫県の小野市に住む友人を訪ねてきた。前者後者ともに3泊4日の旅であったが、後者には小野市での1泊が加わったから、4泊5日の旅となった。私のような高齢者が猛暑の最中にこうした旅に出掛けるのはいささか無謀なのかもしれないと一瞬思ったが、まあものは試しとあまり余計なことは考えずにふらりと出掛けてきた。

 いつものように、荷物を最小限にするために、着替え一式と替え上着一着のみリュックに入れただけだったので、ホテルで毎日洗濯した。何度か旅に出ているうちに分かってきたことだが、先の衣類に財布とカメラとスマホそれに小さな雨傘があれば旅支度としては十分である。歯ブラシもひげそりもタオルもいらない。忘れると困るのは充電器ぐらいか。しかしそれとても、忘れたと言えばホテルで貸してもらえる。今時の旅は随分と手軽になったものである。

 この二つの旅に出掛けたのは、後で詳しく触れるように訪問先がたいへん興味深かったからであるが、この私はたんに見聞を広めるためだけに出掛けているわけではない。旅に出て旅日記のようなものを書き、ブログに投稿しようと考えているのである。そんな目論見があるからこそ旅に出るのであって、その逆ではない。純粋に旅が好きな人も大勢いるのではないかと思うが、私の場合はそうではない。そしてまた、旅に出れば同行の人々とあれこれと話をする機会が生まれるので、そこからも多くの刺激を受ける。そんなこんなで、旅日記の中身も徐々に膨らんでいくように思われる。

 人文研の調査旅行では、バスで移動中に一人ひとり自己紹介をすることになった。元同僚のFさんの発案である。見知らぬ人も参加しているので、いい試みかと思われた。私の番になったので、定年退職後雑文家を目指しているなどと語った。「家」とはおこがましい限りだが、とにもかくにも老後の道楽で毎週のようにブログに雑文を投稿しているのである。旅に出て非日常の世界に足を踏み入れれば、ブログの材料はあちこちに見つかる。その発見が新鮮であり愉しいのである。

 二つの調査旅行のうち、どちらから先に書くべきか一寸迷った。と言うのは、人文科学研究所の北海道の調査旅行は、私にはアイヌを知る旅のように思われたのだが、アイヌに関してほとんど何の知識も持ち合わせていなかったので、どんなふうにブログに書けばいいのか今一つ見当がつかなかったからである。そんな迷いが生じたのは、少しはいいものを書いてみようなどといった色気が依然として残っているからに違いなかろう(笑)。何も知らないのであれば、先の「台湾感傷紀行」の時と同じように、書きながら調べるあるいは調べながら書くしかない。そんなふうに腹を据えたら、何か書けるような気がしてきた。

 北海道にはこれまでに何度も足を運んでいる。最初に出掛けたのは、私が労働科学研究所に入所して間もない20代の中頃である。そのころ、林野庁からの研修生として研究所に来られた方がいた。半年ほど一緒に勉強した記憶がある。その方が研修を終えて勤務地の北海道に戻られたのだが、お世話になったお礼ということで、部長の藤本さんだけではなく同じ研究部にいたわれわれも北海道に招待してくれたのである。運転手付きのクルマであちこちの観光名所を案内してもらった。層雲峡、知床半島、摩周湖、阿寒湖、美幌峠などを巡った記憶がある。

 また、北海道大学で社会政策学会が確か2回開かれており、学会のメンバーであった私はその時も北海道に行った。最初の時には、学会後のエクスカーションで小樽に建てられた小林多喜二の文学碑を見に出掛けた。小樽は彼が暮らしたところだが、その彼は警察による拷問の末に、逮捕されたその日のうちに虐殺された。1933年2月20日、彼がわずか29歳の時である。碑は本を見開きにした形をしており、多喜二ではなく働く若者の頭像がはめ込まれた、きわめてユニークなそして堂々たる文学碑だった。青年多喜二が心血を注いだプロレタリア文学をイメージしたのであろうか。碑の制作者は、北海道出身の彫刻家として著名な本郷新(ほんごう・しん)である。

 この文学碑も印象深かったが、それとともに、私のような俗人にとって思い出深かったのは、初夏の気持ちのいい季節にサッポロ-ビール園で初めてジンギスカンを食べたことである。ジンギスカンにはビールがよく合った(笑)。今でもその時のことを覚えているのは、余程美味だったからであろう。思い返してみれば、あの頃は何とも慎ましい暮らしぶりだった。専修大学に転職後となった2回目の時には、学会終了後本郷新記念札幌彫刻美術館に一人で出向いた。絵に限らず彫刻も好きなので、学会に出掛けた際にはいつも美術館などに足を運んだ。

 その後北海道から足は遠のいたが、再び北海道に足繁く出掛けるようになったのは、私が労働科学研究所から専修大学に転職して、しばらくしてからである。50代に入ると専修大学北海道短期大学がらみの仕事が生まれ、そのために美唄(びばい)にあった短大に数回出張した。美唄は石狩平野のほぼ中心に位置し、もともとはアイヌ語のピパオイ(沼の貝の多いところ)に由来するらしい。また夏に大学の育友会の仕事で函館に出掛けたこともあった。

 60代に入って、社会科学研究所のグループ研究で釧路に何日か滞在したこともある。生活困窮者に対する独自の支援の試みを調べに出掛けたのである。その時お世話になった櫛部武俊(くしべ・たけとし)さんは、今はどうされているのであろうか。釧路と言えば、そこで行われた葬儀に参列したこともあった。大学に入ったばかりの一年生が、その年のサークルの夏合宿で「イッキ飲み」により死亡したため、大学の役職者として弔意を示すために出掛けたのである。何とも悲しい釧路行だった。

 美唄に出向いた際には、折角北海道まで来たのだからと、仕事を終えた後同行の同僚たちとあちこち廻った。札幌、函館、旭川、小樽などだけでなく、レンタカーを借りて網走や知床にまで足を延ばしたこともあった。そして湖なども眺めてきた。私たちもまだ若かったのである。それぞれのところに出掛けた思い出も懐かしいが、強烈な印象を残したのは意外にも美唄炭坑の跡地である。炭坑博物館や炭住を眺めてからI学部長や同行した職員のSさんとともに跡地に向かったのだが、そこはとうに無人の地となっており、青々と茂った草むらの中に、崩壊しかけた建物や施設があちこちにひっそりと埋もれていた。昔は活気のある場所だったのであろうが、その頃の面影はもう何もなかった。

 この間、暇に飽かしてあれこれの著作を手にしたが、その中に森山軍冶郎(もりやま・ぐんじろう)さんの書かれた『民衆精神史の群像』(北海道大学図書刊行会、1971年)があった。彼がまだ30歳の時の著作である。森山さんは美唄に生まれ短大の教員をされていた方であり、著名な研究者でもあったので名前だけは知っていた。一度会って話を伺いたかったが、残念ながらそうした機会に恵まれなかった。先の本には、「土中に埋もれゆく故郷へ」と副題の付けられた「炭鉱長屋の現代史」と題する一章がある。

 そこには、ハモニカ長屋での暮らしとともに、美唄炭鉱における労働組合の結成から人民裁判、レッドパージに至る当時の炭鉱労働者の姿も活写されている。あとがきで彼は書いている。「いまを生きるおのれにとって、つきはなしてもつきはなしても、迫りくる過去と死者、そこにこそ歴史は生まれるのではないか、と思った。そこにこそ、民衆がつくりあげてきた歴史が像を結び、『歴史を生きたものとして、多くの人々が大切にする』ような歴史像が浮かび上がる秘密があるのではないか、と思った」と。それにしても先の副題が何とも寂しい。その彼も2016年に74歳で亡くなった。私にできることと言えば、彼をこんな場所で偲ぶことだけである。