玄界灘を渡って-2017年春、釜山、対馬、大宰府-(六)
半井桃水と吉田弦二郎
対馬では他にも見たいものがあった。樋口一葉の師でもあり恋人でもあった半井桃水の生家跡に建てられた「半井桃水館」もそうであったし、「島の秋」で知られる吉田弦二郎の文学碑などもそうである。時間の関係でともに見ることは出来なかったが、止むを得ない。半井桃水は厳原に生まれ、少年時代に釜山に渡り、その後上京して東京朝日新聞の小説記者となって活躍する。その間に、通信員として釜山に駐在している。
先に引いた『田辺聖子の恋する文学』には、「一葉はあたかも処女であるかのように日記では描かれていますが、それを否定する研究者もいます。死の間際に素晴らしい作品を噴出するように書けたのは、一葉が恋に溺れたことがあったからこそだというのです」という一文がある。そのことの詮索にあまり興味はないが、一葉が後世に残る作品を短期のうちに紡ぎあげる力となったのは、周りの中傷もあって別れはしたものの、「終生変わらぬ桃水への恋」だったのだろう。
同じ田辺聖子の『一葉の恋』(世界文化社、2004年)には、「桃水は、明治の男にしては、さっぱりした女への対し方ができる男であった。そうして、女に親切な心づかいや、やさしい思いやりを見せて、いやみがなかった」と描かれている。桃水の小説の好みは夏子(一葉の本名)と共通していたようで、そんな男に夏子は恋心を抱くのである。
だが、「しかしいまは、桃水との結婚に夢を賭けるよりは、夏子は、小説に虹を描いていた。桃水に対する恋ごころは夏子の全身をあけぼの色に染めながら、それは、桃水をなま身の男と見ることでもなかった」と記されている。「全身をあけぼの色に染め」ると書く田辺の美しい文章を見ると、まるで彼女自身が一葉に恋しているかのようでさえある。
もう一人の吉田弦二郎は、早稲田大学在学中の1906年に対馬要塞砲兵大隊に入隊し、その後再び対馬重砲兵大隊に入隊する。彼の作家としての名声を決定づけた作品が、対馬での体験をもとにした「島の秋」である。大正から昭和初期にかけてかなりの人気作家として活躍した吉田だが、今はもう知る人も少なくなったので、そんな彼の文学碑を訪ねる人も珍しくなっていることだろう。風化も進み碑文の文字も読みにくくなっているという。
大学の図書館で「島の秋」を探して読んでみたが、「満天の星河は秋らしい清爽の気に充ちていた。幾萬と限りもない漁火が玄海を埋めて明滅していた。大きな山蛍が道を横切って滅えた」といった筆致から窺われるように、静寂と寂寞と悲哀に充ちた対馬の物語だった。
野田宇太郎の『文学散歩』の22巻には対馬が取り上げられており、そのなかに「対馬と吉田弦二郎」の項がある。そこには、「もしわたくしが大正時代の小説名作集を編むとすれば、それがたとえ十数篇程度の厳選でも、吉田弦二郎の『島の秋』と『山上の小屋』の対馬小説二篇は先ず候補に挙げるだろう」と記されている。そんな訳だから、「山上の小屋」も是非読んでみたかったのだが、残念ながら図書館でも見つけられなかった。全集にでもあたらないと読めないのかもしれない。
吉田の文学碑にたどり着いた野田は、「このような文学碑が守りつがれるためには、先ずその文学を皆が読むことが大切なのはいうまでもないが、今の対馬に『島の秋』を読んだ者が果たして幾人いるというのだろうか。わたくしはここに来て文学碑の虚しさを知る思いがした」と述懐している。吉田と似たような心境だったのかもしれない。その吉田弦二郎は、世田谷の玉川に隠棲し、妻と死別後孤独と病苦のなかで晩年を送ったという。厳原港の売店で見つけた『対馬ブック』の3号に文学碑の写真が載っていたので購入しておいた。