玄界灘を渡って-2017年春、釜山、対馬、大宰府-(二)
宮本常一と対馬
対馬は、朝鮮半島に最も近い日本であり、日本と韓国はよく「一衣帯水」の関係だと評される。距離としてはわずか50㎞ほどしか離れていないのだから本当に近い。われわれは3月16日の昼に釜山港を発って、ジェットフェリーで対馬の比田勝港に向かった。玄海灘は荒れると聞いていたが、至極穏やかで快適な船旅だったので、寛いでいるうちにあっけなく対馬に到着した。
その後、鰐浦(わにうら)にある韓国を遠望することが出来るという韓国展望所に出掛けたが、生憎の花曇りで韓国は望めなかった。魏さんによると、「日頃の行いが良ければ見える」とのことだったので、そうであれば、私などは最初から見えないだろうと思ってはいた(笑)。しかしまあ、晴れて空気が澄んでいれば見えるのだろうし、夜であれば釜山の明かりがいつも見えるとのことだった。この展望台の側には、朝鮮から対馬に向かった使節団が遭難し、全員が亡くなったことを弔う「朝鮮国役官使受難の碑」も建てられていた。
対馬を知ろうとした時、普通の人はまず最初に何を読むだろうか。恐らくは、司馬遼太郎の『街道をゆく13 壱岐・対馬の道』(朝日文庫、1985年)なのではあるまいか。よく知られたシリーズものの本だからである。今回私も初めて手にしてみた。この本によれば、対馬の宗氏は李氏朝鮮に寄生しており、「室町期以来、李氏朝鮮は対馬宗氏に米豆を年に二百石あたえつづけてきた。でなければ倭寇になってやってくるため」であり、日本は非常に「厄介な隣人」だったと記されている。秀吉の朝鮮侵略で途絶えた日朝関係だが、徳川期に入ると対馬藩は関係の回復に務める。しかしこれも「虫のよさ」だと一蹴されており、それどころか、「朝鮮人が『倭』を忌むことはなはだしく、いまもそれがつづいていることは、ことごとくといっていいほど無理のないこと」であるとまで書かれている。
司馬遼太郎がそんなことを考えていたとは、不勉強な私はこれまでまったく知らないでいた。明治維新を牽引した「勤王の志士」たちによる「尊王攘夷」の皇国思想が、征韓論(それにしても、「征韓」とは恐れ入った表現ではある)から韓国併合まで連なっていったことを考えると、そしてまた、対馬藩にさえも朝鮮進出論が登場したことなどを振り返ると、彼の指摘は正鵠を射ているのではあるまいか。
明治維新の立役者たちの殆どが、こと朝鮮との関係から眺めると、実に碌でもない人物ばかりである。吉田松陰などは、「神功(皇后)の未だ遂げざりし所を遂げ、豊国(豊臣秀吉)の未だ果さざりし所を果たすに如かず」とまで宣うのである(韓桂玉『「征韓論」の系譜』三一書房、1996年)。何をか言わんやであろう。
他にこんなところにまで足を運んでいるのは誰かと思って調べていたら、民俗学者の宮本常一が何度も足を運んでいたことを知った。書棚にあった『旅する巨人宮本常一-にっぽんの記憶-』(みずのわ出版、2006年)によると、彼は1950年、56年と62年の3回対馬に渡ったようだが、宮本の『わたしの日本地図15 壱岐・対馬紀行』(同文館、1976年)を見ると、1974年にも出掛けていた。
前著での佐野眞一の解説によれば、この本は「生まれ故郷の山口県周防大島町以西の九州各地を歩いた宮本常一の足跡を、宮本が撮影した写真をもって再訪したルポ」で、「写真のなかの関係者を新聞記者が捜し歩いて、その地域に流れた30年から50年の時間を改めてたどり直し、日本人が忘れてしまった記憶を蘇らせようとする好企画」だというが、まさに同感である。
当時宮本が撮った写真に写されている人物を探り当てようと、読売新聞西部本社の記者たちは東奔西走するのであるが、その執念が何とも凄い。大したものである。同じ解説で佐野は、「宮本が余人の追随を許さないところは、その後の変化を見るために、一度訪れたところを必ず再訪していることである」と指摘しているが、もしかしたら、記者たちはこうした宮本の調査にかけた飽くなき探求心に惚れ込んで、宮本亡き後にそれを再現しようとしていたのかもしれない。
宮本常一が最初に対馬に出掛けたのは1950年8月であるが、この年の6月には朝鮮戦争が勃発し、8月から9月にかけて半島の南端にまで追いつめられたアメリカ軍と、朝鮮半島の大部分を制圧した朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)軍との間で、洛東江(ラクトンガン)を挟んで釜山橋頭堡を巡る激しい攻防戦が繰り広げられていた。金日成は全土制圧を目指して最後の大攻勢をかけていたし、それを迎え撃つアメリカ軍も、半島から追い落とされる恐怖を背に死に物狂いの反撃を試みていたのである。
その頃に、宮本は対馬の北にある佐護の千俵蒔山に登った。彼が『私の日本地図』に書いているところによると、「頂上に立っていると遠くの方に雷の鳴るような音がする。しかし雷ではないようだ。空がはれていて一点の雲もない。『あの音は何でしょう』と泉さんに聞いてみたが泉さんも首をかしげてなんだろうと考え込む。ふと朝鮮戦線での大砲の音ではないだろうかということに気付いた」という。わずか50キロ先の当時の様相を想像すると、何とも胸が痛む。