瀬戸内周遊の旅へ-2017年暮、鞆の浦、尾道、松山-(六)
「栄光の明治」の虚妄
ところで、この「坂の上の雲ミュージアム」であるが、こうしたものを作ることを、生前の司馬が許したかどうかはわからない。映像化を断ってきたとのエピソードから推測するに、許さなかったようにも思われるのではあるが…。それはともかくとして、この施設はいったいどのような経緯で設立されたのであろうか。
ホームページにある館長挨拶を見ると、「松山市は、まち全体を屋根のない博物館とするフィールドミュージアム構想のもと、回遊性の高い物語のあるまちを目指しています。小説『坂の上の雲』には、近代国家の形成期の世界や日本で起きた出来事、そのなかで生きた人びとの人生など多くの物語が描かれ、現代を生きる私たちに大きな示唆を与えてくれます。本ミュージアムでは、これらをテーマにした展示や様々な催しをおこなうことで、訪れた方々に歴史を学び、未来への思索を深めていただきたいと願っています」とある。ここで言う「大きな示唆」、あるいはここを訪れることによって学ぶことになる「歴史」とは、一体どのようなものなのかが問題となるであろう。
ついでに活動方針についても紹介しておくと、「平成19年4月28日、坂の上の雲ミュージアムは、松山のまち全体を屋根のない博物館とする『坂の上の雲』フィールドミュージアム構想の中核施設として開館しました。小説『坂の上の雲』は、松山出身の秋山好古、真之兄弟と正岡子規の3人の生涯を通して、近代国家として成長していく明治日本のすがたを描いています。本ミュージアムでは、小説に描かれた主人公3人の足跡や明治という時代に関する展示に加え、まちづくりに関するさまざまな活動を行い、訪れた人々が時の流れについて感じ、考える場を提供していきたいと考えています」とある。
「暗い昭和」(司馬遼太郎は、これを「奇胎」や「異胎」や「不連続」と表現した)と対比した「明るい明治」、「栄光の明治」が強調されているのである。ここで学ばれることになる「歴史」とは、そうしたものであるに違いなかろう。そのことをよりストレートに示しているのが、ミュージアムの設立の際に松山市が作成した「『坂の上の雲』まちづくりの基本理念」である。
後に触れる高井弘之の著作によれば、そこには次のような一節がある。「秋山兄弟が外に対する国のまもりをかためた一方で、正岡子規は国の根幹にあたる言葉という分野での内のまもりをかためたといえるだろう。(中略)この「物語」によって明治という時代が、まばゆいほど、光り輝いてくるのである。(中略)すなわち、『坂の上の雲』によって、松山のまちづくりを考えるとき、明治の再評価をその土台とする必要があるだろう。これは、司馬遼太郎さんが松山にのこしてくれた大いなる遺産といえるのである」と。
ここには、「永続敗戦」の裏返しのように明治が礼賛されているのであるが、「まばゆいほど、光り輝いてくる」などと書いて恥ずかしくはないのであろうか。そうした礼賛によって敗戦が糊塗し隠蔽し否認され続ける限り、逆に「永続敗戦」状態は今後も続いて行くに違いなかろう。
今年2018年は「明治150年」の年だとのことであるが、安倍首相もそれを意識して、「150年前明治日本の新たな国造りは、植民地支配の波がアジアに押し寄せる、その大きな危機感と共に、スタートしました」と述べて、当時の「危機感」と「国難」を強調し、それを克服するために「近代化」を推し進めた「日本人」の「志と熱意」を思い起こすよう促している。「坂の上の雲」にも通ずるような、相変わらずの手放しの明治礼賛である。
こうした特定の歴史観を、国家的なキャンペーンを通じて国民に押しつけることが、果たして許されるのであろうか。大いに疑問である。「偏向」を声高に批判している人々の主張がとんでもなく「偏向」していることなど、よくある話である(笑)。明治に対する手放しの礼賛の行き着く先は、侵略戦争に対する反省の軽視であり、戦後的な価値の無視であり、その中核にある日本国憲法に対する敵視であるに違いなかろう。
「坂の上の雲」に示された司馬遼太郎の明治観や歴史認識については、さまざまな批判がある。2009年には、中塚明『司馬遼太郎の歴史観』(高文研)、中村政則『「坂の上の雲」と司馬史観』(岩波書店)、半沢英一『雲の先の修羅』(東信堂)が相次いで出版されたし、その後も高井弘之『誤謬だらけの「坂の上の雲」』(合同出版、2010年)、原田敬一『「坂の上の雲」と日本近現代史』(新日本出版社、2011年)と続いている。
これらの著作には、学ぶところも多かったのであるが、この文章を綴るに当たって、にわか勉強を試みたに過ぎない私などが、あれこれ語って知ったか振るのは余りにもおこがましい。関心のある方は、直接これらの著作に当たってもらいたい。
あえて一言だけ触れるとすれば、私が重視しなければならないと感じたのは、「近代の朝鮮」に触れないで明治の日本を語れるのかと言う中塚の批判であり、旅順攻防戦における「愚将」の乃木希典を論じても、日本の陸軍総体における兵士の生命を軽視する風潮を論じなくていいのかいと言う半沢の批判である。朝鮮の近現代史に詳しい文学部の田中さんも同行していたのだし、宴会の席では向かいに座っていたのだから、彼の司馬評を聞いておくべきだったが、酒のせいもあり失念してしまった。残念である。
勿論ながら好意的な評価の著作もある。目にしたなかで面白かったのは、半藤一利『清張さんと司馬さん』(NHK出版、2002年)と関川夏央『「坂の上の雲」と日本人』(文藝春秋、2006年)である。『昭和史』(平凡社、2002年)や『あの戦争と日本人』(文藝春秋、2011年)などで知られる半藤が、司馬を高く評価しているのがいささか奇異ではあったのだが…。
上記の著作とは別種のものだが、学ぶことが多かったのは大濱徹也の『明治の墓標』(河出文庫、1990年)である。「庶民のみた日清・日露戦争」と副題の付いたこの本を、区役所の出張所にあったリサイクル文庫から拾ってきたのだが、これが実に興味深かった。
後表紙には次のような注目すべき意義深い文章がある。「『栄光の明治』の象徴として語りつがれた日清・日露戦争。しかし、その勝利の蔭に忘れさられた庶民の生活を見きわめずに、この『戦争の時代』を捉えることはできない。傷ついた兵士の手紙、当時の新聞・雑誌記事などから、『愛国』の重荷を負った人々の怨念の世界を解き明かし、翳りある『一等国』大日本帝国の実像をえぐる。本書は、こうした民衆の記録からこの時代を描く画期となった試みである」と。
こうした視点は、残念ながら(あるいは当然ながら)「坂の上の雲ミュージアム」にはまったくと言っていい程見当たらない。結局のところは、「栄光の明治」を称揚しているに過ぎないからである。『明治の墓標』に描き出された世界から浮き彫りにされてくるのは、日清・日露戦争の後に日本が駄目になったのではなく、庶民に多大の犠牲を強いた両戦争の翳りある「勝利」自体が、一見「奇胎」や「異胎」や「不連続」とも見える昭和を引き寄せていったという歴史のパラドックスである。
上記のような複眼的な視点は、秋山兄弟と子規をただやみくもに顕彰しているだけでは、まったく浮かんでは来ないだろう。私が「坂の上の雲ミュージアム」で感じることになった虚しさは、こうしたところに胚胎していたようにも思われるのである。