瀬戸内周遊の旅へ-2017年暮、鞆の浦、尾道、松山-(一)

 「玄界灘を渡って-2017年春、釜山、対馬、大宰府-」と題した投稿の初回で、私は次のように書いておいた。ブログの読者の方々は、そんなことはすっかり忘れておられると思うので、あえて再録しておく。

 現在私は、「裸木」と題したシリーズものの冊子の完成を急いでいる。タイトルも「カンナの咲く夏に」と決まり、三部構成の原稿も揃い、いまは最後の詰めに精を出しているところである。この第3号の第三部には、「さまざまな旅のかたち」と題して3本の旅行記を収録しているのであるが、そのうちの2本はブログには投稿していない。冊子に収録するのだから、わざわざ投稿しなくてもいいかとも思ったが、冊子は大した部数を作るわけではないので、ブログに投稿した方が多くの人の眼に触れる可能性は高い。そんなこともあって、「玄界灘を渡って」と題するこの旅行記を、7回に渡ってここに投稿することにした。

 そんなふうに書いて「玄界灘を渡って」の投稿を始めたのである。大分長きにわたったこの投稿が終わる頃には、「裸木」の第3号は完成しているだろうと勝手に思い込んでいた。しかしながら、印刷をお願いした会社にもいろいろと事情があったようで、残念ながら私の手元にまだ初校の校正原稿は届いていない。当初は8月1日に刊行の予定であったが、この調子では8月末にずれ込みそうな気配である。そんな訳で、完成した「裸木」の第3号に関して、宣伝も兼ねて何か書きたかったが、それは叶わなくなった(笑)。

 昔であれば、あれこれと小言の一つも言いたくなったような気もするが、今現在に限定すれば、もうそんな気はまったくない。少々遅れたからと言って何ほどのことがあろうか、といった年寄りの何とも鷹揚な気分にどっぷりと浸かっているからである(笑)。誰に対しても、そしてまたいつでもどこでも、そんな気分で対応出来るようであれば申し分ないのであろうが、現実はなかなかそうはいかない。その辺りがまだまだ未熟なのだが、これはやむを得ない。枯れては来たが「生枯れ」(普通は「生乾き」と言うべきところか)なので、枯れきってしまった仙人には程遠いからである(笑)。

 自分自身を観察してみるとよく分かるが、年寄りが鷹揚で寡黙で落ち着いていたなどというのは昔の話で、今の老人は大声のお喋りでうるさく、長話となる自慢話が大好きで、人の話は聞かずに説教に余念がない。可愛いというのか醜いというのか(本人が言うのだから間違いない-笑)。見境もなくキレて長々と「正論」らしきものを、店員や駅員、郵便局の職員にぶちまくっている老人を、ごくたまに見掛けることがあるが、あまりにも見苦しくて正視に耐えない。

 そうした事情なので、残りのもう1本の旅行記である「瀬戸内周遊の旅へ」についても、6回に分けてのんびりと投稿しておくことにした。このところ一気に真夏日となってげんなりしている読者の方々に、寛いで味わっていただけるようであれば、幸いである。以下の文章がそれである。

 2017年の最後の締め括りとなったのが、年の瀬に出掛けた瀬戸内周遊の旅である。今回の旅程に関しては、他の人文研のメンバーがの方が詳しく紹介してくれそうな気もするので、ここでは改めて触れることはしないが、人文研の調査旅行もなかなかタイトなスケジュールである。折角なので、出掛けた機会に様々なところを廻ろうという企画者の熱意が、そうさせるのだろう。だから、2泊3日という短期間の旅にも拘わらず、見学先や訪問先は朝から晩までぎっしりと詰まっている。

 そんな訳で、久し振りに朝早く起きて、近くの新横浜駅から新幹線に乗った。その新幹線では、同じ学部で付き合いも長い鈴木さんや堀江さんと同席することになった。こうした心がほぐれる旅は、何とも楽しい。私などは、彼らも出掛けるということなので、こうした旅行に参加する気になったのである。気心の知れた二人と久方ぶりに四方山話に打ち興じているうちに、3時間程で福山に着いた。もう瀬戸内なので、何だかあっけない感じであった。

 鞆の浦にて

 この日に福山から目指したのは、鞆の浦と尾道である。鞆の浦の近くにあるホテルで、海を眺めながらの昼食となったのだが、私のようながさつな人間にはもったいない程の立派な料理が並んだ。瀬戸内は鯛料理で知られているらしいが、私はそんなことも知らなかった。そのホテルのロビーで、「ふくやま文学館」主催による企画展「生誕120年 井伏鱒二の青春」と題したリーフレットを、手にした。

 福山を代表する作家と言えば、やはり井伏ということになるのだろう(県は異なるが、福山の隣にある笠岡は、2年前に退職された町田俊彦さんが好んでいた木山捷平の出身地である)。シンポジウムのテーマは、「未公開書簡群から浮かぶ井伏鱒二の青春像-自伝・絵画・恋」とあった。ちょっと顔を覗かせてみたくなるような企画である。

 少し移動するともう鞆の浦である。入り江の全体を「浦」と言い、港は「津」と称するらしいが、どうもそれほど厳密には区別されてはいないようなので、鞆の浦は鞆の津と言われることもあるようだ。先の井伏には、『鞆ノ津茶会記』(福武書店、1986年)という作品があり、そこには「鞆ノ津の福禅寺客殿に於て、この寺の和尚の御手前で茶の湯の会を設けてもらった。(中略)今年も福禅寺で茶会をするつもりでゐたところ、今年四月、思はぬ火事で福禅寺が丸焼けになったので、鞆ノ津の安国寺の茶席で催されることになった。福禅寺は空也上人の開基で村上天皇の御願所とも云はれ、深い由緒を語られてゐた」とある。

 ここに登場する福禅寺については後に触れることにして、まずは鞆の浦から話を進めてみよう。井伏のエッセー「鞆ノ津所見」には、「ここは一本みちの街で、両側の家はたいてい鍛冶屋である。錨を製造してゐる」とある。このエッセーは1931年の作なので、今はもう鍛冶屋などは一軒も残っていないのだろう。われわれは、古い町並みに点在する商家や保命酒を作っている酒屋などを覗きながら、海辺に出た。旅先ではこうした古い場所を取り留めもなく徘徊するのが好きである。何とも懐かしい場所に辿り着いたかのようで、心の強ばりが和らぎ気持ちが安らぐからである。

 鞆の浦は、昔から潮待ちの港として知られていたらしい。瀬戸内海の海流は、満潮時には豊後水道や紀伊水道から流れ込んできて、この瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦の沖でぶつかり、逆に干潮時には鞆の浦の沖を境にして東西に分かれて流れ出して行くのだという。つまり、鞆の浦を境にして潮の流れが逆転するのである。こうなると、上げ潮に乗れば入港が楽だし、逆に引き潮になれば出帆も楽なのである。

 昔は「地乗り」と呼ばれた陸地を目印とした沿岸航海が主流だったので、瀬戸内海を横断するには、鞆の浦で潮目が変わるのを待たなければならなかったのである。こうした地理的な条件から、潮待ちの港になったのだという。ここでは、江戸時代の港湾施設の名残りだという常夜燈と雁木を見た。常夜燈は観光案内の写真などでもよく紹介されているので、多くの人が知っていることだろう。もう少し暖かくなって、春の宵にでもこんなところをほろ酔い気分で散策し、瀬戸内の柔らかな海風などに吹かれていたら、すこぶる気分も良かろうなどと思ったりもした(笑)。

 面白かったのは雁木の方である。雁木と言うと、東北生まれの私などは雪国に見られるものしか思い浮かばない。通りに面した店の軒から路上に長いひさしを張り出し、その下を通路としているものである。だが辞書によると、雁木にはもう一つの意味があった。そこには、「道から川原などにおりるための、棒などを埋めて作った階段。また、船着き場の階段。桟橋の階段」などと記されている。その階段は今ではもう石段に変わってはいたが、それでもどこか風情が感じられた。街全体に昔の面影が残されており、往時の雰囲気が漂っているからなのかもしれない。

 その後、鞆の浦から「歴史民俗資料館」と件の福禅寺に向かったのであるが、ガイドさんの説明によると、急な坂の途中には昔遊郭があったのだという。ちょっと通っただけでは気が付かない。しかし、潮待ちの港として栄えたのであれば、船乗りたちを相手にした遊郭は付き物だったはずである。詳しく聞きたかったのだが、年寄りのくせにどうにも気恥ずかしくて、その勇気が出ない。仕方がないから、帰宅してネットで検索してみたら、世の中には遊郭好きの人も結構いるらしく(笑)、写真入りで詳しく紹介されていた。その起源は相当に古いようで、14世紀初頭の「とはずがたり」にも鞆の遊女の話が出てくるのだという。

 「歴史民俗資料館」で手にした冊子によると、鞆の浦は西廻り航路の北前船が出入りした港として賑わったようだ。北前船の寄港地というと、私などは日本海側の港しか思い浮かばなかったが、鞆の浦もそうだったのである。大阪や瀬戸内の人々は、日本海のことを「北前」と称していたようで、北前船は北海道と大阪を日本海廻りで往復していたのだから、潮待ちの港として栄えた鞆の浦が寄港地となったのは当然であったのだろう。

 福禅寺と朝鮮通信使

 次に向かったのは福禅寺であるが、ここも今回行ってみたい場所のひとつだった。先にも触れたように、2017年の春に社研の調査旅行で釜山、対馬、太宰府と回ってきたのだが、この調査旅行の柱のひとつに、朝鮮通信使の事蹟が位置付けられていた。私も少しばかり日朝関係史には興味があったので、出掛ける間際に朝鮮通信使についてもにわか勉強を試みた。それで知ったのだが、鞆の浦はこの朝鮮通信使とも関係の深い場所なのである。

 社研の調査旅行の際にガイド役を引き受けてくれたコリア語の非常勤講師の魏(ウィ)さんとは、その縁でだいぶ親しくなったので、その彼に、今度鞆の浦の福禅寺に出掛けることを話したら、「重要な場所なのでよく見てきて欲しい」と言われた。彼は、全国に散らばる通信使と縁のある場所を、機会があるたびに廻っているとのことで、わざわざ私にアドバイスしてくれたのである。そんなこともあって注目していた。

 朝鮮通信使とは、朝鮮王朝が日本に送った大規模な外交使節団のことであり、江戸時代の約200年間に計12回派遣されている。その規模は、総勢400名前後であり、それに対馬藩士数百名も随行したというのだから、沿道の人々にとっては大変物珍しい行列だったに違いない。しかも、一行は幕府が招待した国賓だったので、その扱いは丁重を極めたということである。

 『朝鮮通信使』(岩波新書、2007年)の著作がある仲尾宏らが、2016年暮れから17年春にかけて「朝鮮通信使の道」と題した記事を『京都新聞』に20回にわたって連載しているが(この記事のコピーも魏さんからもらった)、それによると、通信使一行中の三使臣(正使、副使、従事官)の宿舎には、寄港地の名だたる寺院が選ばれたようで、たとえば、山口の赤間関では阿弥陀寺、広島の鞆の浦では福禅寺、岡山の牛窓では本蓮寺などであったという。

 なかでも福禅寺は、1711年に従事官が海に面した客殿からの眺望を「日東第一形勝」(朝鮮より東で一番美しい景勝地であるとの意)と賞賛したり、1748年には正使がこの客殿を対潮楼と名付けたことでも知られている。福禅寺の案内人も、対潮楼からの眺めを少しばかり(いや、かなりだったかもしれない-笑)自慢げに紹介してくれた。

 本堂に隣接する対潮楼に座ると、眼前に湖と見紛うような海が広がり、緑に覆われた仙酔島(仙人も酔ってしまうほど美しいことから命名されたという)と岩肌が目立つ弁天島が一望され、さながら一幅の絵を見ているかのようである。案内人の話によれば、夜ここに月がかかればその美しさは格別であるとのことだった。鞆の浦の月については、後に触れる志賀直哉の『暗夜行路』にも出てくるから、昔から見事なことで知られていたのであろう。

 「日東第一形勝」と褒め称えたくなる気持ちもわからないではないが、いささか狷介な私には、どことなく「俗」の気配が漂っているようにも感じられた。あまりにも出来過ぎているが故に破綻のない眺望が、そう思わせたのかもしれないし、あるいはまた、褒めそやされていることに対する軽い反発が、そう感じさせたのかもしれない(笑)。

 今日の日韓関係の悪化を憂慮している私としては、「形勝」だけではなく、朝鮮通信使を迎えた対馬藩の人士雨森芳洲が担おうとした、「誠信交隣」の「精神」についても強調して欲しかったのではあるが…。朝鮮通信使に関する文献や絵図が、2017年にユネスコの「世界の記憶」(世界記憶遺産)に登録されたが、その背景には「誠信交隣」の「精神」に対する高い評価があったに違いなかろう。

 ところで、旅の途中で手に入れた『瀬戸内万葉紀行』には、家持の父である大伴旅人の歌「吾妹子が 見し鞆の浦の むろの木は 常世にあれど 見し人そなき」(わが愛しい妻が往路に見た鞆の浦のむろの木は、長く命を保っているのに、それを見た妻はもういないの意)が紹介されていた。旅人は鞆の浦で妻との別れを偲んだ歌を三首詠んでいるとのことだが、ここではそうしたものをこそもっと味わってみるべきだったかもしれない。

 この歌碑は福禅寺の対潮楼の袂にあり、海に向かって立っていた。ガイドの方が歩きながら紹介してくれたような気もしたが、私はほとんど気にも留めずに通り過ぎてしまった。旅人の歌三首を含めて、万葉集には鞆の浦を詠んだ歌が八首残されているようだから、こうしたことからも相当に古い土地柄だといいうことがわかる。古さが醸し出すノスタルジックな雰囲気が、直ぐに消滅していく目新しさに飽きた観光客を惹き付けているのだろう。古いものが密かに秘めている普遍性とでも言おうか。