海外探訪の記(一)
●海外探訪事始め
先日専修大学の社会科学研究所(以下社研と呼ぶ)で、研究所の70年史編纂のための会合があった。私は、1991年4月から1995年3月までこの研究所の事務局長を務めたので、歴代の所長、事務局長の一人として、こうした会合に何度か呼ばれているのである。そこに出席するにあたって、70年史編纂の責任者である村上俊介さんが執筆された草稿を読ませてもらった。社研の歴史が年代ごとにきちんと整理されていただけではなく、とてもバランスよく叙述されてもおり感心した。そのなかで、読んでいてとりわけ懐かしく思ったのは、社研が実施してきた海外実態調査の歴史である。
私はもともと日本の労働問題の調査屋から育ってきた人間なので、眼はほとんど国内にしか向いておらず、国際感覚などはゼロに等しかった。語学力が貧困だった所為もあったかもしれない。海外の事象に興味がないから語学力が貧困なのか、それとも語学力が貧困なので海外の事象に興味が沸かないのか、そのどちらなのか判然としないが、いずれにしても海外への関心はきわめて薄かったのである。そんな自分が、少しは海外に目を向けるようになったのは、社研の海外実態調査に足繁く参加するようになってからである。
もっともその前に、海外に出掛ける機会は二度ほどあった。海外初体験となったのは、国鉄労働組合の調査団の一員に加えてもらって、ヨーロッパの交通事情の視察に出掛けた時である。1991年の9月22日から10月5日にかけての長旅であった。イタリアではローマ、ドイツではフランクフルト、イギリスではロンドン、フランスではモンレーユの交通関係の労働組合や関係機関を回り、それぞれのところで、主に公共交通の役割とそこでの労働組合の活動等についてヒアリングを行った。当時43歳だった私はと言えば、まったくの「お上りさん」状態だったので、ヒアリングよりも見るもの、聞くもの、食べるものの方が珍しく(ローマでは、街を闊歩するイタリアのうら若き女性が、みんな映画女優のように見えたぐらいであるー笑)、また今思い出すと恥ずかしくなるような失敗もたくさんした。
このヨーロッパ旅行に刺激されたこともあったのか、翌1992年の8月22日から30日にかけて、今度はフィリピンに出掛けた。大月書店が企画した「アジアの人々を知る旅」に参加したのである。前年にヨーロッパに出掛けたので、今度はアジアに出掛けてみるのも悪くはないと考えたのである。回ったのはマニラとセブである。スタディーツアーなので、社会科見学風にあちこち回りさまざまな人からさまざまな話を聞いた。ここでも私は依然として「お上りさん」状態であり、体験したことのすべてが珍しかった。当時トイレも風呂もなかったセブの民家に泊めてもらって、アジアの貧困の一端に触れることが出来たのも、今から考えると貴重な体験であった。そこで感じたことを記したのが、後に(二)で紹介する「フィリピンかけある記」である。フィリピンでの体験を話してくれということで、一度講演会に招かれたこともあった。
●社研の海外実態調査に参加して
上記のような二つの海外探訪を通じて、海外への関心がようやくにして広がってきた。そんなこともあって、社研の海外実態調査にも意識的に顔を出す気になったのであろう。私が事務局長だった時、所長を務めておられたのは経営学部の麻島昭一さんであり、この麻島さんはアイディア溢れるエネルギッシュなリーダーで、彼が社研で最初の海外実態調査を企画したのである。これを第1回目として、その後隔年ごとに海外実態調査が実施されるようになり、この慣行は今でも続いている。私はこれまでに、最初の海外実態調査を含めて計6回参加した。私が参加したものだけ整理して、以下に紹介してみよう。
最初の社研の海外実態調査は、1993年3月14日から19日にかけての韓国訪問であった。その行程は以下の通りである。3月15日に専修大学の協定校であった檀国大学を訪問し、韓国の現状についてレクチャーを受けた。総長の挨拶のあと、壇国大学の教員の方々から、韓国経済や韓日貿易をめぐる課題、韓国の労働問題、韓国の大学の現状などに関する話を聞いた。そして3月16日~18日にかけて、三星電子の水原工場、浦項総合製鉄の浦項製鉄所、現代自動車蔚山工場を見学した。またその間、工場見学の合間をぬって慶州の仏国寺や釜山の魚市場等も見て回った。初めての韓国に興味が沸いたこともあって、ある雑誌に埋め草のような文章を書いた。それがこの後の(三)で紹介する「韓国かけある記」である。
次に出掛けたのは中国であり、1995年3月15日から21日にかけて、北京、天津、上海、蘇州を回った。訪問したり見学したのは、北内集団総公司、首鋼総公司、北京大華シャツ廠、天津市第二綿紡績廠、上海浦東地区、上海日立電器有限公司、そして中国企業管理協会などであった。それらに加えて、上海社会科学院の研究者との交流も企画された。私にとって興味深かったのは、これらの調査よりも万里の長城に出掛けたことである(笑)。まだ春浅く風も冷たい季節に大城壁に登ったところ、延々と続く長城の外側が果てしのない砂漠のように見えたのには驚いた。秦の始皇帝、匈奴、モンゴルなどの世界史で学んだ語句とともに、壮大な戦いの場面が頭に浮かんだ。
その次に出掛けたのはベトナムである。1997年3月13日から20日にかけて、ハノイ、ダナン、フエ、ホーチミンを巡った。行程はハノイから中部のダナン、ホイアン、フエを経過し、ホーチミンへと南北に縦断する移動距離の長い旅だった。ハノイでは、計画投資省、ベトナム共産党本部を訪問し、ドイモイ政策の現状についてのレクチャーを受けた。また日本向けの下着を製造している日越合弁のドン・スアン・ニット公司を見学した。ハノイでは、水川、黒田の両人と夜ホテル近くのバーに出掛け、いささか奇妙な体験をした。そんな体験をすることになったのは、私自身が今よりもずっと若かった所為もあるだろう。さらにはそれに加えて、海外に出掛けて気分がいつの間にかハイになっていたこともあったかもしれない。
ハノイから中部ダナン市に飛び、そこからバスでホイアン、フエを巡って歴史遺産を見学し、その後ホーチミンに飛んだ。同市では戦争博物館の見学のあと、郊外の工場団地へ赴き、富士通コンピュータ・プロダクト・オブ・ベトナム、ビディス製靴有限公司、タインコン繊維公司を訪問した。この旅には、ベトナム戦争時に南ベトナム解放戦線が戦いの拠点とした地下トンネル施設の見学も組み込んであったが、疲れの残った体調を考えて、私は出掛けることを断念した。折角の機会を逃してしまったのは残念であったが仕方がない。。街中を一人散策中に(海外に出掛けてこんなふうに過ごすのもかなり好きなのである)、伝統的な衣装のアオザイを着た女性を見かけた。目に眩しかったことを今でもよく覚えている。
そしてさらに、1999年3月14日から19日にかけて再び中国に出掛けた。香港、深圳、蛇口を巡ったのだが、この海外実態調査はとりわけ深圳市に的を絞ったものだった。躍進する中国経済の沿岸部、とりわけその発展の象徴となったこの都市への関心の高さからか、多くの知り合いが参加した。訪問先は東莞アルバトロニクス、スミダ電機、サンヨー、マブチモーター、本田技研(恵陽市)、日枝城テクノセンターであった。この調査には、2014年7月に亡くなられた吉澤芳樹さんも顔を出された。彼は、学問領域が近い人々からは、いささか敬して遠ざけられていた感じもあったが、私の場合ははそうした繋がりがまったくなかったので、大分かわいがってもらった。吉澤さんと二人で写った写真を改めて眺めると、当時を思い出してとても懐かしい思いがする。吉澤さんもきっと楽しかったに違いない。
このように4回続けて社研の海外実態調査に参加したわけだが、その後は経済学部長や副学長の仕事に忙殺されたこともあって、長らく社研の海外実態調査から足が遠のいた。当時の仕事があまりにハードだったので、春休みには精神的なリフレッシュ以上に肉体的な休息を欲していたからである。次に海外実態調査に出掛けたのは2009年である。この間10年ほど間が空いている。3月14日から20日にかけて韓国に出掛け、韓国労働研究院、檀国大学(シンポジウム)、全南大学、現代自動車蔚山工場、楊亭社(金型製造)、韓国人的資源開発院を訪問した。
訪問先をこうして並べただけでは、これまでの社研の海外実態調査と同じようにも見えるが、実際には、ソウルから光州、蔚山を経由して釜山まで、バスでかなりの距離を移動した。この頃には私は還暦を過ぎていたので、もう海外実態調査から足を洗おうかと思っていたが、この行程に独立記念館と光州が組み込まれていたので、そのことだけで参加する気になったのである。この旅に関しては、「韓国再訪-独立記念館と光州を訪ねて-」と題して少し長めのエッセー風の文章を書いた。そのうちこの文章も、ブログに投稿するつもりである。
そして、現職最後の海外実態調査となったのが、2017年の3月14日から18日にかけて出掛けた釜山、対馬、太宰府を巡る調査旅行であった。前回の海外実態調査からまた8年ほどの年月が経っている。この実態調査に参加したのは、専修大学を退職する前にもう一度社研の海外実態調査に参加して、教員生活にきちんと区切りを付けておきたいと思ったからである。これが主な理由だが、それとともに参加すれば何か書けそうな気がしたこともあったかもしれない。この年になると、たとえ初めての場所に出掛けたとしても、以前のような「お上りさん」気分はすっかりなくなったが、それに伴って新鮮味もだいぶ失われてきた。私自身の関心も移ってきて、工場見学などにあまり興味が沸かなくなってきたのである。目新しいものに心が動かされなくなったのは、一面では「成熟」の証のようにも見えなくはないが、他面では「老化」の現れでもあるに違いなかろう。
この時の行程は次のようなものであった。釜山では、古代の日本列島と関係の深い伽耶国の鳳凰台遺跡、福泉洞遺跡を見学し、朝鮮通信使歴史博物館を訪ね、さらには、昌原市商工会議所の担当者、人的資源開発研究院の研究者からのレクチャーを受けた。その後、釜山港からフェリーに乗って対馬に渡り、金田城を見学した。さらに翌日は、対馬から玄界灘を越えて博多に向かい、九州経済協会の研究員から北部九州と韓国南部の経済交流についてのレクチャーを受けた。そして最終日は、梅のほころび始めた太宰府天満宮に立ち寄り、その後私は博多から新幹線で帰宅した。飛行機とフェリーと新幹線を乗り継いでの、実に盛りだくさんな旅であった。この旅に関しても、「玄界灘を渡って-2017年春、釜山、対馬、大宰府-」と題した長めの文章を書いた。これもそのうちブログに投稿するつもりである。
当初は、現職最後の海外実態調査に参加して教員生活に区切りを付け、社研からも離れようと考えていたが、間際になって考え直した。周りの知り合いから引き留められたこともあったが、それよりも、また調査旅行に連れて行ってもらえたならば、何か書けるかもしれないなどといった「下心」が生まれたからである(笑)。私は、退職後には今ここに書いているような雑文を綴って過ごそうと考えていた。しかしながら、何の材料もないのに頭から文章が溢れてくるような文才など勿論ない。だとすると、社研の調査旅行は、文章を綴る材料を与えてくれるかもしれないなどと考えたのである。そんなわけで、動機はいささか不純であったが、参与として社研のメンバーに残してもらうことにした。海外にはもう出掛ける気はないが、国内の実態調査であればその気になった時には顔を出してみたいと思っている。
●海外探訪あれこれ
ここまで、社研の海外実態調査に顔を出しての雑感のようなものを綴ってきたわけだが、これらの途中に三度ほど海外に遊びに出掛けたことがある。1993年の8月21日から28日にかけて、カミサンと一緒にスペインに出掛けた。私が50歳の時である。カミサンとは近場の温泉にはよく出掛けたが、海外旅行に行ったのは初めてであった。回ったのは、マドリード、コルドバ、グラナダ、アリカンテ、バレンシア、タラゴナ、バルセロナである。誰もが知っているようなスペインの名所旧跡を、列車とバスで巡る旅だった。
印象深かったのは、マドリードのプラド美術館であり、バルセロナのサグラダ・ファミリアであった。若かったこともあったのだろう、毎日遊んでいてもそれほどの疲れはなかった。パックの観光旅行なので、気楽な旅だったこともあったかもしれない。ツアーの添乗員の女性が、あろうことかカミサンの教え子だったのには驚いた。天気もよく、見所も満載で、食べ物も飲み物も美味しかったし、いい写真もたくさん撮れたので、満足して帰国した。カミサンは海外旅行にはほとんど興味や関心を抱いていないようなので、このスペイン旅行が最初で最後となることだろう。
次に出掛けたのはタイである。2000年の8月28日から9月1日にかけて、息子と二人でバンコクとアユタヤを回ってきた。現地でガイドさんが調達したクルマに私と息子が乗せてもらい、あちこち案内してもらった。家族旅行には出掛けても、息子と二人で旅行をするのは初めてだった。もしかすると、これも最初で最後となる気配が濃厚である。二人だけで出掛けることになった理由が何とも可笑しい。
私には息子を挟んで娘が二人いるが、彼女たちはカミサンの父親に連れられてシンガポールやマレーシアを回り、既に海外旅行を体験していた。それが息子にはひどく不公平に映ったらしい。「僕も連れて行ってくれ」と真顔で頼まれたので、私が連れて行くことにしたのである。祖父にしてみれば、あれこれと気が利き、話し相手(実際は聞き相手である-笑)にもなってくれる娘たちの方が、都合がよかったのであろう。まあ、何となくわからないでもないのだが…(笑)。出掛けてみて、アユタヤの遺跡に目を奪われたのは勿論だが、タイの寺院も興味深かった。象にも乗ったしキックボクシングの試合も見た。試合観戦の際には、どちらが勝つか賭けようと引率の若者に誘われて何回か少額賭けたが、すべて負けた(笑)。
最後はニュージーランド旅行である。ようやくにして4年に渡った学部長の任期を終えたが、その後に副学長の仕事が待ち構えていたので、どこかで気分転換を図りたかったのであろう。2005年の3月13日から21日にかけて、同僚の黒田さんと小西さんを誘ってニュージーランドに出掛けた。私が58歳の時である。北島のオークランド、ハミルトン、ロトルアを回り、そこから南島に飛んでクライストチャーチまで足を伸ばしてきた。この旅では、飛行機の便の関係で前日に成田で一晩過ごした。
経済学部には、ニュージーランドのワイカト大学からスティーブン・リムさんが講師としてよく来ていたので、彼とは懇意にさせてもらっていた。そこで、彼の自宅と大学の研究室を訪ね、ついでに観光地として名高いロトルアまでクルマで連れて行ってもらい、地熱の作り出す不思議な景観を案内までしてもらった。そんなこんなで、彼にはいろいろと迷惑を掛けたような気がする。我々の旅はワイカト大学を表敬訪問するところにあったわけではないので、その辺りの探訪はほどほどにして、気儘にあちこちを巡った。マオリの踊りを見学し温泉にも入った。
同行した黒田さんにとっては、ニュージーランドの都市景観を視察する旅のようだったが、私は海外旅行に慣れた二人に連れられてただただ徘徊してきただけである。自分たちで企画した旅だったので、準備にはあれこれと面倒なことが多かったが、出掛けてみれば、気心の知れた三人の珍道中のような旅だったので、旅の楽しさというものを心ゆくまで堪能することができた。名所旧跡よりも、レストラン、ビアホール、喫茶店、公園、植物園などでの何気ない語らいの方が、私にとっては印象深い。三人で登ったクライストチャーチ大聖堂の尖塔は、その後2011年に発生した大地震(この地震で、現地に滞在していた日本人28名が亡くなった)で崩れたようだが、あの時の旅の思い出は、いつまで経っても当時のままで、いささかも色褪せることはない。
これまでのところ、海外に出掛けて身の危険を感じたり、何か大事な物を盗まれたりしたことも幸いないが、失敗であればは数え切れないほどあり、恥もたくさんかいた。普段の日常生活においても、恥ずかしきことの多い人生を送っているのだから、ましてや海外探訪になど出掛ければそうなって当然であろう。失敗談についてもあれこれと書いてみたいような気もしなくなないが、やはり恐ろしくてとても書けそうにない(笑)。自己防衛本能が働くということなのか。
諺に「旅の恥はかき捨て」というのがある。旅先では知る人もいないし、長く滞在するわけでもないのだから、恥をかいてもその場限りのものだという意味である。ふだんなら恥ずかしくて出来ないような振る舞いも平気でやってのけるものだという解説もある。ちょっとニュアンスは違う。英語ではOnce over the borders,one may do anything.と表現するようだが、これは後者の解説に近い。私の場合はと言えば、恥ずかしかったことを何時までも覚えているものだから、なかなか「その場限り」とはならないし、ましてや「平気でやってのける」ような図々しさなどもない。これからも、失敗や恥を重ねつつ最期まで生きていくことになるのだろう。