海外探訪の記(二)

 海外を探訪して書いた文章は、この「フィリピンかけある記」が最初である。かながわ総合科学研究所の『所報』No.60(1993年2月)に掲載された。随分昔の文章を今から読み返してみても、どれほどの意味があるのかよくわからないが、懐かしい文章ではあるので若干の字句修正を行って投稿しておくことにした。

 ●「豊かさ」を振り返る旅として

 昨年(1992年)の8月23日から30日にかけてフィリピン・ツアーに参加する機会があったので、その印象記を以下思いつくまま日記ふうに書きとめてみたい。私自身にはっきりした目的があったわけではないし、また具体的な成果を得たというわけでもないので、たわいもない話になってしまっていることを最初にお断わりしておきたい。このツアーは、大月書店が『アジアの人びとを知る本』全5巻の出版を記念して、その読者ツアーとして企画したものである。参加者は、法政大学の土生長穂さんを団長として総勢約30名、高校、大学の教員や学生、各種団体役員のほか弁護士さん、看護婦さん、会社員とバラエティーにとんだ構成だった。

 私はもともと特にフィリピンに関心があったわけではないし、またこの機会にフィリピンの実情を知りたいと思ったわけでもない。大月書店の企画した読者ツアーには、タイ、マレーシア、フィリピンの3コースがあって、そのどれでもよかったのだが、日程的に都合のよかった最後のコースを選んだだけの話だった。しかしそれにしても、こうしたツアーに参加しようと思ったからには、それなりの理由というものがあるはずである。じつは1991年の秋に、私は国労の調査団の一員に加えてもらって、イタリア、ドイツ、イギリス、フランスの四か国を訪問する機会に恵まれた。

 この旅は私にとって初めての海外旅行だったので、見るもの聞くものすべてが珍しく、とても楽しい旅だった。各国三日程度のまさに駆け足の旅行ではあったが、それにしてもヨーロッパの「空気」を吸うことができたので、今度は是非違った世界、できればアジアの「空気」を吸いたいと思ったのである。わが国の「豊かさ」を批判的に捉え返すためには、先進世界のもつ「ゆとり」と第三世界のもつ「貧しさ」の二重の視点からの相対化が必要となっているのではないか、そんな気持ちが今回のツアーに繋がった

 わが国は、モノの消費に関する限り確かに「豊かな社会」なのだろう。スーパーマーケットに行けばペットフードがたくさん陳列されており、あるいはまた、さまざまなダイエット食品も目にする。先日知り合いの結婚式に参列する機会があったが、それはもう文字どおり「豪華」そのものであった。暮の忘年会も、真面目に全部参加していたら身体を壊すのではないかと思われるぐらい数多い。そんな「豊かさ」をわれわれ自身がどこかで批判的に捉え返さないと、社会の改革は不可能だという思いに囚われる。これまで、そんな類いのことを書いたりしゃべったりしてきたが、それをもう少し「実感」として体で感じてみようと思ったのである。今回のフィリピン・ツアーは、その意味ではわが国の「豊かさ」を振り返るためのものであったと言えるかもしれない。

 ●マニラで見たこと、聞いたこと

 今回のツアーは「物見遊山」の類いとは違って、問題意識に溢れたツアーだったようで、私のようなアジアの「空気」を吸いたいだけの参加者は、不真面目な方に属したかもしれない。そんな私には、マニラに到着した翌日からギッシリ組まれたスケジュールはいささかきつかった。セットされたレクチャーの中身をどれほど吸収できたのかはなはだ心許ない。24日にはフィリピンの戦闘的な労働組合のナショナルセンターであるKMU(「5月1日運動」を意味するタガログ語の頭文字をとって命名。1980年に結成され現在組織人員約70万名。なおこの組織については、『アジアの人びとを知る本』第3巻の佐藤満男論文が詳しい。)の国際部次長と書記長からフィリピン労働運動の現状を聞き、日本でもよく知られたタニヤダ上院議員の講演があり、ACT(教員組合)のハンガーストライキを支援にいき、フィリピン独立の英雄ホセ・リサールの記念碑があるリサール公園とサンチャゴ要塞をまわり、ミリアム大学のアウロラ教授の日比関係の歴史に関するレクチャーを受けた。彼らが共通して問題にしたのは、わが国のODA(政府開発援助)の問題点だった。経済侵略のためのODAを貧困からの解放のためのODAにしていくためには、両国の人びとの共同の監視が不可欠なのだろう。

 サンダルをはいてオープンシャツで現われたKMU書記長のいかにも労働者らしい不敵な面構えと、これまたいかにも上流階級の女性らしい気品にあふれたアウロラ教授との対照が、私にはきわめて印象的だった。この二人とは自由に懇談する機会が設けられたが、前者には日本の労働者が恵まれているわけではないことを説明するのが難しく、また後者からは「日本の人々はなぜそんなに多くのセックスワーカーを必要とするのか」と問われて、その回答に窮した。私の貧弱な会話能力以上の問題がそこにはあるのだろう。本当は書記長にフィリピン共産党(CPP)やその軍事組織である新人民軍(NPA)との関係についても聞きたいところだったが、しかしフィリピンの現状はそんな話題を気楽に議論できるような甘いものではなかった。

 翌25日は、公害問題で有名になったカラカ石炭発電所の見学にでかけた。この発電所をめぐる問題は、しばらく前にNHKテレビの「救えかけがえのない地球」で紹介されたことがある。途中バスの窓からながめた粗末な家々に驚くとともに、休憩先での果物屋の人たちの執拗な売り込みにはたじろがされたが、そんな「貧しさ」のなかでも子供たちは皆人なつこかった。こんなところまでバスで出掛けてくる旅行者が珍しいのだろう、村の人々があっちこっちからわれわれを眺めている。発電所では、担当者が現在いかに公害対策に力を入れているかを説明してくれたが、やはりいささか「宣伝」臭さを感じてしまう。まわりをバスで回ったが、牛が寝そべっているようなまったくの田舎に忽然と近代的な施設が聳えている感じで、前近代と超近代のあまりのズレがいかにも奇異な感を抱かせる。

 この日の夜は、フィリピンの有名な観光地でもあるタール湖・タール火山のそばにあるホテルに泊まった。湖の中央に小さな火山が浮かんでいてなかなか雄大なパノラマである。ホテルでは3人組のグループが現われて、われわれもよく知っている唄を歌ってくれた。食事の後、自己紹介もかねてミーティングが行われたが、大月書店の柴田さん、過労死弁護団事務局長の川人さんだけではなく、私が講演にでかけたことのある埼玉の機関紙協会の人や関西共同印刷の人も参加していた。たしかに世のなかは狭い。26日には近くのカビテ輸出加工区(ここの現状については、小林英夫『東南アジアの日系企業』(日本評論社、1992年)が詳しく紹介している)を見学し、その後加工区造成のために土地を追われた農民の家を訪ねた。本当に貧しい家である。昔々子供の頃に見たことがあるような、高度成長の遙か昔のわが国の「原風景」がそこにはあった。土地と水と電気を占有する工業団地、そして開発と工業化のマイナスはどこでも弱者にしわ寄せされているようだった。

 その後、フィリピン大学のロスバニョス分校にいき、バエス教授から現在進められている大規模な開発計画であるカラバルソン計画(マニラ南部のカビテ、ラグナ、バタンガス、リサール、ケソンの5県の頭文字をとって命名)全体の概要とその問題点についてレクチャーを受けた。ラグナ湖の汚染が深刻な問題になっているという。夜は近くのレストランにいったが、帰りにストリート・チュードレンのベギング(物乞い)攻勢に会い困惑した。27日はマニラからセブ島に向かう日である。朝からあいにくの雨で、ホテルの前も水浸しである。町のなかはどこも雨が降れば道路は雨水であふれるという。途中バスの窓から豪邸の立ち並ぶマカティ地区をながめ、米軍記念墓地を通過して飛行場に着いた。フィリピンは貧富の差が極端に大きいことで知られるが、そのことをあらためて痛感させられた。一方にバラックのようなニッパハウスがあり、雨のなかパンツひとつでバスに手を振る子供たちがいるのに、他方ではボディガードや運転手、乳母、料理人を抱えたごく少数の富豪がいるのである。

 ●セブで見たこと、聞いたこと

 マニラを発つ時はひどい雨が降り続いていたが、しばらく飛んでいると快晴の天気に変わった。上空から見るたくさんの島々がやたらに美しい。到着したセブ島は、最近日本人にも人気でハネムーナーだけではなく若者も大勢来るという。ここで日本キリスト教団の穂積夏子さんや現地のNGOであるファルデック(Farmers Development Centerの頭文字をとって命名)代表のジジさんたちと合流し、まずは簡単なミーティング。その後マクタン輸出加工区(ここの現状についても小林の前掲書が詳しい)をへてラプラプ記念碑へ向かった。ラプラプはセブ市の対岸にあるマクタン島の王で、侵略者マゼランを倒した英雄として今でも崇められているという。本多勝一の『マゼランが来た』(朝日新聞社、1992年)によると、マゼランは「民族絶滅の兵尖たる悪魔の使者」だったことがよくわかるが、碑の説明文にも彼はインベーダーだと記されていた。

 夜はタンブリ・ビーチ・リゾートで先の穂積さんからミンダナオ島での想像を絶する貧しさと、生命の危険に曝されながらながら抵抗する人々の話を聞いた。彼女は単身でミンダナオ島に渡り、漁民のために献身的な活動を続けているクリスチャンである。現地の人々からみれば、1ヶ月の生活費に相当するような宿泊費をとる立派なホテルで、大地主に雇われた自警団によるサルベージ(活動家殺害のこと)の話を聞くのは、いささか気が引ける。「良心的な日本人はどこにいるのですか」、「日本人の消費生活にブレーキをかけるべきではないですか」という静かではあるが倫とした声で発せられた彼女の問いに、いささかたじろいでいる自分を感じる。ホテルにだってとんな人間がいるかわからないので、さらに詳しい話は部屋に戻ってからしたいということだった。われわれにはそうした厳しさがなかなか実感できない。彼女の部屋を訪ねて夜遅くまで話を聞いてから、ボーッとした頭で自分の部屋に戻ったが、夜空を仰ぐとそよぐヤシの木陰から星が瞬いていた。

 翌28日は、セブ市のホテルでマイヨー教授から日本の侵略と最近の日比関係についてのレクチャーがあり、続いてアルフォーク弁護士からセブ市の再開発計画について説明を受けた。その後ファルデックのメンバーとともに昼食をとったが、出席したメンバーは全員女性で、みんな「元気印」である。フィリピンの実情をわれわれに知らせようと本当に熱心だ。昼食後ホームステイ先の国内難民、農民、都市貧民、漁民のグループにわかれて彼らの置かれた現状について説明を受け、それぞれの訪問先に出発した。折角の機会なので私もホームステイさせてもらうことにして、漁民のグループに加わった。私たち一行がワゴン車にガタガタ揺られて着いたのは、マクタン島南部の町コルドバにあるバンバン村であった。

 この村は、珊瑚礁のため周りはごつごつした岩だらけだった。世話をしてくれた村の議長ポゴイさんの家には近所の人たちが詰めかけて来て、われわれを興味津々眺めていた。一緒に付いて来てくれたファルデックのジュディさんとともに、海に出て彼らの小さな舟に乗せてもらった。農業では生活できない漁民にとって漁が唯一の生活の糧であり、そのためには魚が集まってくるマングローブの林を守らなければならないが、それが日本向けのエビの養殖池や観光開発、工業開発で破壊されているのだと言う。貧しい生活がますます苦しくなっているようだった。電気もトイレも風呂もないそんな貧しい生活なのに、それでもわれわれを大歓迎してくれた。夕食はとれたての魚やカニをランプの明りのもとで手づかみで食べ、夜は板張りの床にごろ寝である。ジュデイさんもわれわれに熱心にいろんなことを聞いてくる。会話能力が絶対的に不足していて、うまく説明できない自分がやたらにもどかしい。彼女の夫はセブ島のKMUの幹部だという。

 朝は鶏の声に目が覚めてしまったので、村の若者と一緒に海岸まで散歩した。昼にホテルに戻り休憩。隣の部屋の人は日本人で家族そろって遊びに来ているという。ごく普通の人という感じであるが、戻った時にはソファに腰を下ろしてフィリピンの女性二人に手足の爪を切ってもらっていた。あまり見たくはない光景ではある。日本人は金持ちだということになっているらしく、前日の朝などは、ホテルのプライベートビーチの柵の外から若い男が日の出を見に出た私を手招きして呼ぶ。取られるものももっていなかったので、せっかくの機会だからどんな話になるのかついていった。魚を見に舟に乗らないか、きれいな貝はいらないか、ヤシの実をとってやるといろいろ話かけてくる。どれもこれもあまり興味のない顔をしていたら、「18歳の若い女の子がいる。ホテルのルームナンバーを教えろ」と言う。いよいよ本題という感じである。「お金がない」と言って断わったら、「嘘だろう」と信用しない。彼らからすれば信じられないような高額のホテル代、飲食費を払う観光客(ビールなどは町の値段の7~8倍)は、大金持ちに見えるに違いない。

 ●旅の終りに

 夕方からセブ市内の会議室で総括会議があり、一緒に「WE SHALL OVERCOME 」と「ANG BAYAN KO(わが祖国)」を歌った。肩を組んで歌を歌うのはじつに久し振りのことである。彼女たちには、われわれの旅行の目的が最後まで十分には理解しえないようだった。「あなたは何の目的で来ているのか」、「今後われわれの組織とどんなコンタクトを持ちたいのか」、「具体的にどんな支援をしてくれるのか」とストレートに聞かれて、「不真面目」な私は返答に詰まった。こうしていささかの気まずさも残しながら、1週間のフィリピン旅行はあっという間に終った。見知らぬ世界を覗いてみる「楽しさ」、見知らぬ人たちと話してみる「面白さ」を少しは味わうことができたが、それがこれからの私の仕事にどんなふうに生かされることになるのか、まるで見当が付かない。旅が自己を「相対化」するためにあるのだとしたら、それはそれでいいような気もする。

 この周りばかりが気になる日本で、「無器用だけれどしらけずに、純粋だけど野暮じゃなく」、「飾った世界に流されず」(河島英五『時代おくれ』より)生き続けることはなかなかしんどいことであるが、しかしもしかしたら、そうし続けることのなかにジュディさんや穂積さんたちの問いに対する回答は含まれているのかもしれない。ジュディさんからは帰国後手紙をもらったが、それによると「夫が日本にいくので会って友人になって欲しい」とのことだった。そして10月に彼と上野で会うことができた。今度セブに来たら是非わが家を訪ねてくれと言う。ぶらりと出掛けることができたらどんなに楽しいことだろう。こうして私の狭い生活空間は、フィリピン訪問後また少しばかり広がった。

 以上が私が25年前に書いた文章であるが、この文章の誤字や脱字を手直ししているうちに、別な書き物があったことを思い出した。旅から戻ってから、フィリピン・ツアー参加者による文集を作ろうとの声が上がったらしく、『アジアの人々を知る本 フィリピンツアー道中記』と題した薄い冊子が、1992年の12月に作成された。せっかくなので、旅から学んだことを残しておきたいということだったのであろう。この冊子に、私は「フィリピン訪問その後」と題して以下のような文章を寄稿した。

 アジアの「空気」を吸ってみたいと思って参加しただけの旅だったので、私の問題意識は限りなくゼロに近かった。元来「不真面目」なので、セットされたレクチャーの中身をどれほど吸収できたのか、はなはだ心許ない。写真も、ホームステイ先のバンバン村で撮った数枚程度で帰ってきてしまった。村では朝早く目が覚めてしまったので、日の出でも見ようと海に出たら、若者がついてきた。帰国後彼らと一緒に撮った写真を約束通り送っておいた。ついでに、一緒だった石川さん、中川さん、秋葉君にも村での写真を送った。

 秋葉君は私の勤務先の同僚で環境問題に取り組んでいる多辺田さんの本を読んで感激したという。彼とは教授会の帰りに一緒に酒を飲んで「馬鹿話」をする仲なので、ファンがいたことを話したら、大いに喜んでいた。また、二橋さんからは見聞記を送ってもらった。さすがにジャーナリストの見る眼は鋭く、あらためて旅の重さを振り返ることになった。彼の奥さんは、私の前の勤務先である労働科学研究所のことをよく知っていると言う。ほんとうに世の中は狭いものである。

 その後土生先生からの紹介ということで、三多摩労連の佐藤満男さんから電話をもらった。彼は『アジアの人々を知る本』の第三巻で、KMUを中心にフィリピンにおける労働運動の現状を紹介している人である。いろいろ話をいていたら意気投合したので、そのうち一度会うことになった。今から楽しみである。やたらに忙しいはずの実践家が、アジアの労働運動について勉強している、そのことだけで「単細胞」の私は感激してしまった。

 9月の末に、ホームステイ先で世話になったジュディさんから手紙をもらった。それによると、彼女の夫が日本に来ているという。セブ島のKMUの幹部なので是非あって友人になって欲しいということだった。しかし、彼を招待した団体の連絡先がはっきりしないので、それを知らせてくれるよう折り返し手紙を書いた。だが手紙の往復で2週間はかかってしまう。そこで先の佐藤さんや「アジア太平洋資料センター」、「労働情報」等に連絡を取り、ようやくにして彼の所在を突き止めることが出来た。

 彼を招いていたのは、「日本共産党左派」と称する毛沢東思想を信奉する中国共産党系のグループの人々だった。全国各地を回って交流しているのだという。ハードスケジュールのなか、時間を割いてもらって上野で2時間ほど話をすることができた。ジュディさんは如何にも「元気印」の人だったが、夫の彼は意外にも物静かな人物だった。今度フィリピンに来ることがあったら、是非我が家を訪ねてくれと言う。もしもぶらりと行けたら実に楽しいことだろう。こんなふうにして私の狭い生活空間は少しばかり広がり、ミクロの「国際化」が始まりだした。

(追記)
 こんな話を書いてしばらくしたら、『長周新聞』の記者だという方が研究室を訪ねてきた。ジュディさんの夫と話をしたのは1992年の10月だったから、訪ねてきたのはその年の暮れか翌年の初めだったはずである。できたら新聞を購読してくれないかとのことだった。上野で親しく懇談したので、自分たちの運動に興味を持っている人物だ思われたのであろう。私は日本共産党を修正主義者の集団だと思っていたわけでもなかったし、中国の「文化大革命」にも批判的であったし、また日本共産党の「自主独立」の姿勢については評価もしていたので、丁重にお断りした。今から思うと何とも不思議な体験ではあった。また、フィリピンに同行した山本房枝さんは、その後海外青年協力隊の一員としてパラグアイに出掛けたようで、その彼女とは何度か手紙をやりとりした。

 

 
 
 

旅日記

前の記事

海外探訪の記(一)
旅日記

次の記事

海外探訪の記(三)